第一章 ここは正しい職場ですか?
第1話 いきなり帰れって嘘ですよね
「あの、こちらは
「何の用だ。くたびれた花など買わないぞ」
「買っていただくなどとんでもない。これはお供えにと思い、お持ちしたものです」
「お供え? 皇帝はまだご健在だ」
「それでは何故、廟があるのです?」
廟が死者を祀る場所であることは田舎の農民でも流石に知っている。だから雨蘭はお供え用の花を持ってきたのだ。実家の庭から引き抜いて。
門番は眉間の皺をぐっと深め、雨蘭の素朴な疑問に吐き捨てるようにして返す。
「生前に建立をするのが普通だろう」
「なるほど。都の常識というやつですか」
流石は皇帝の廟だ。ここまで来る途中、塀に囲まれた敷地の広大さには驚かされた。中もさぞ素晴らしい造りなのだろう。死期が近づいてから建て始めるようではとても間に合わない。
(恵徳帝、勝手に死んだことにしてごめんなさい!)
雨蘭は自身の無知による愚かな行いを反省するが、今日ここへ来たそもそもの目的は参拝ではない。
「お花は差し上げます。お家の仏壇にでも飾ってください。私、ここへはお仕事のために来たんです」
「仕事? 何の話だ。お前に与えるような仕事はここにはないぞ。花を持ってさっさと帰れ」
「折角掴んだ就労機会なんです! どうか通してください。紹介状ならここにあります。……何と書かれているかは分かりませんが」
男に菊の花束を押し付けて、雨蘭はくだびれた布鞄から書状を取り出す。
「そんなものを何故お前が持っている。どこかで拾ったのか?」
「ここでの仕事を紹介してくださった方から頂いたんです。それで、何と書かれているのですか?」
「俺に読めるわけがないだろ」
門番は滑らかに書かれた文字を一瞥すると、首を横に振る。これでは紹介状の意味がないと雨蘭はがっくり項垂れた。
(私、場所を間違えた? でも伝令の方に何度も確かめたから恵徳帝廟で合っていると思うのだけど……)
老人と別れた後、使いの者がわざわざ雨蘭の家まで書状を持って日時を伝えに来てくれた。なんと、給料の前払いということで、当面の生活費まで恵んでくれたのだ。
皇帝のお墓を管理する仕事と教えられた時には驚いたが、雨蘭のような庶民の方が掃除や雑用をする仕事には向いているのだろうと深くは考えなかった。
(こんなことになるなら迎えに来てくれるという話を断らなければ良かった)
ようやく見つけた仕事なのだ。ここで引き下がるわけにはいかないと、家族の顔を思い浮かべて自らを奮い立たせる。
「文字が読める方はいないのですか? どうか取り次いでください。そうでないと私はここに居座り続けます」
「無理だ。諦めて帰れ」
「どうかお願いします!!」
雨蘭は勢いよく頭を下げる。天日干しした海藻のように乾いた髪が、ばさりと顔を覆った。
「何を揉めている」
背中を刺すような低い声がして、雨蘭は髪の乱れた幽霊のような姿で振り返る。暗い声から想像した通り、陰鬱な雰囲気の男が馬上から雨蘭を見下ろしていた。
体の角度から見下ろされていると感じただけで、実際に視線が雨蘭を捉えているかは分からない。男の黒髪は雨蘭に負けず劣らずの乱れ様で、鬱蒼と伸びた前髪が目元を隠してしまっている。
「
「そんな、私は正式に仕事を紹介されて赴いたのですよ」
「見せてみろ」
平民の服装をしており、外見は冴えないが、明という名の男が相応の身分であることは門番の反応からしても、どことなく品のある佇まいからしても明らかだった。
彼は奪うようにして書状を手に取り、じっと眺める。前髪に覆われたままでも読むことができるらしい。
「……」
「どうですか」
大きなため息一つ。それから男は書状をぐしゃりと握りつぶした。思わず「あっ!」という声が雨蘭の口から漏れる。
「これは預かる。中に入れ」
帰れと突き返されると思いきや、男は雨蘭と門番の横を通り過ぎ、自ら木製の押戸を開けて中へと進む。
着いてこいということだろう。花を持たされたままの門番に軽く会釈をし、小走りに敷地の中へと足を踏み入れた。
「明様、ありがとうございます!!」
「煩い、名前を呼ぶなちんちくりん」
「明様、私は雨蘭と申します」
「だから馴れ馴れしく名前を呼ぶなと言っている!」
話が通じず憤る明をよそに、雨蘭は前方に広がる美しい庭園に目を奪われていた。
門から入ってしばらく歩くと半月型の大きな池があり、鮮やかな色の魚が優雅に泳いでいる。池に食い込むように存在する屋根付きの建築物は、高貴な人物が庭園を眺めるための休息所だろう。
廟と聞いてお墓と祭壇を想像していたが、雨蘭には噂に聞く宮中に思えた。
「うわぁ、すごい! 廟というより豪邸ですね」
「……」
明は黙って歩く速度を早めた。石畳の段差に躓きそうになりながら、男を追いかける。
途中、幾人かの女性とすれ違ったが、皆色鮮やかな美しい衣を纏い、明を見かけると頭を下げた。
(やっぱりこの人、お偉いさんなのね。若く見えるけど、案外おじさんだったりして)
敷地に入ってから更に立派な門を二つ抜けると、天井の高い建物が現れる。
その屋内は静かでひやりとしており、雰囲気からして知識人たちが仕事をするための場所のようだ。壁で仕切られた部屋がいくつかあり、格子の間からぽつんと置かれた執務机が見えた。
これまでの人生に全く縁のなかった世界に雨蘭は胸を高鳴らせる。
最奥の部屋には人影があった。明は許可を得ることもなく侵入すると、紙に筆を走らせる亜麻色の髪をした男に声をかける。
「こいつも候補者だとよ」
部屋の主と目が合った雨蘭は、この人が主人となる人物であろうと直感した。慌てて頭を下げ、名乗り出る。
「はじめまして、雨蘭と申します。先日出会ったご老人の紹介でこちらに……」
官服を着た長髪の男は手を止め、雨蘭をじっと見つめていた。
(本当に紹介してくれたんだよね? そういえば私、おじいさんの名前すら知らないんだった……)
急に自信を喪失した雨蘭の声は尻すぼみになっていく。
「ああ、君が。困ってるところを助けてくれた優しいお嬢さんだと聞いてるよ。私はこの廟の管理を任されている
緊張の面持ちで固まる田舎娘に、男は柔らかく笑いかけた。
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