第8話
何もない赤茶けた大地、横たうゆるかな大河。行けども変わらない風景がただ続いていた。氷砂糖に似た山の連なりも、光の粒を含む空気も……そして破れ目の目玉も、悠久の昔から永劫の未来まで約束されたように在る。
ラジは対岸を見つめながら、だけど……と考える。
捕吏の言うとおり、変わらないものは何もない。此岸にあるすべての物は流れているという。神々の山でさえいつの日か終わりを迎え、そして再生される。小舟に乗ってたゆたう自分達と根っこは同じなのだ。
それならば、自分の中に凝り固まるすべての気持ちも変わらないはずはない。変わらないはずは、ないのだけれど……。思索につまったラジは視線を舟上へ戻す。
あれから乗客は次々と往ってしまい、残るはラジとエトラ、捕吏、猫背男の四人になっていた。役人の言うとおり茶葉や牛乳はいくらでも出てきた。茶で舌の滑りを良くしながら、誰かの思い出に耳を傾け語り合った。そうして今し方、尻から五人目を送り出したところだ。
ラジはいまだ捕吏を怪しんでいた。疑念を募らせるような言動はないが、払拭させるほどの理由もない。番頭はここにいるのか、もとよりいないのか、気付かず往ってしまったのか……悶々とする。そのくせ怖くて堪らない。いなければいいとも思うのだ。
ラジとエトラは、あれきり口を利いていない。エトラは目を合わせようとしないし、ラジもへそを曲げていた。
「やはりこの四人が残ったか」
役人は得意満面に腕を組みなおした。捕吏は目を見張り、
「なんだ、予想してたのか?」
「だいたい分かる。長年の勘だ」
「次は誰が往くと予想している?」
上目遣いで尋ねる捕吏。役人は口の端を鋭く吊り上げた。黒目をぎらぎらと輝かせ、さも楽しげな様子で答える。
「――――おまえが気になって仕方のない者だ」
「ほう!」
上目遣いを一層きつくして、捕吏は唸る。その目は逃げ場をなくした逃亡者を嘲るようだ。それからおもむろに座り直すと、猫背男と向かい合った。
「おい、おまえ」
「へいっ!」
高圧的な捕吏の声に猫背男は縮み上がった。
「ちっとも喋らねえな。なんか話せ、こら」
猫背男は丸い背中を更に屈める。うやむやに笑んだままうつむくと、つるりとした額に汗がひとすじ流れ始めた。
ラジは見かねて「そんな言い方したら話せないだろう」と助け船を出すが、
「黙ってろ!」
捕吏は一喝して続けた。
「仕事は……なんだっけ?」
「か、家業を手伝ってました」
「住まいは都だったか?」
「へ、へえ」
「都の――…西だっけ?」
「そうですっ」
「……おんやあ、おっかしいなぁ? 東……って言わなかったか?」
猫背男はぎくり、と押し黙った。捕吏はしてやったり、と笑みながらその顔を覗き込む。真顔になった猫背男は額から幾すじもの汗を噴き出していた。
「そんな人の好さそうな笑みを貼りつかせて、そういう奴に限って腹黒かったりするのが世の中っつーもんだ。そうだろう?」
捕吏はことさら優しげな声になり、猫背男をなだめすかす。
「なあ、大きな声で言えないことをたくさん抱えてるんだろ? 重いだろうに、隠さず吐いちまえよ。もう死んだんだぜ、俺たち」
突然、猫背男は震え始めた。しきりにまばたきをくり返し、唇をぶるぶると震わせる。ラジは驚いてじっと見つめた。エトラも目を見張る。
猫背男の目がみるみる血走っていく。熟れた果実のように両目は真っ赤に腫れ上がり、よもや爆ぜるかに見えた、そのとき――――
空の破れ目で金色の目玉がまばたいた。
――――ジャギリ。
「ひやあぁぁぁ……!」
猫背男は悲鳴を上げて転倒した。思わぬ事態に、ラジは度肝を抜かれる。
――――ジャギリ。
目玉は追撃するようにまばたきをくり返す。下界が暗転と明転をくり返す。
――――ジャギリ。
明、暗、明、暗…………眩暈がするほどに世界がまたたく。
猫背男は狭い舟上をのた打ち、這いまわり、逃げ惑う。まばたきの音はまるで写真機の音として、明滅する視界のなかで転げる男の姿を齣撮りのように切り取った。
役人を除く三人は舟縁にしがみついた。
「やだぁ! なんなのこれぇ!」
「おい、落ち着かねぇか猫背!」
男の絶叫が辺りを突き抜ける。
「ひいっ……ひいいっ!」
明滅に酔ったラジは舟縁にしがみついたまま少しだけ顔を上げた。深く息を吸おうとし――そのまま思わず空を振り仰ぐ。
「あ――…!!」
目玉の瞳孔が大きく開いていた。
黒褐色の瞳孔を際限まで広げた目玉は、いつか見た金環日食に似ていた。まるで猫背男を責め立て、瞳孔の底、ぬばたまの闇へ飲み込もうとしているかのごとく。
逃げ場などあるわけがない。猫背男は頭を抱えて丸くなり、涙声でうめき続けた。
「か、堪忍してくれぇ、堪忍してくれぇ……堪忍……」
役人が冷ややかに投げかける。
「目玉が怖いか? よほど後ろ暗いのだな」
黒目だけの目をしならせ、不敵に笑う。
「どうした、河には飛び込まないのか? 面白味のない」
猫背男はわずかに顔を上げ、声をわななかせた。
「あれは……あの目玉は俺たちを伺察してるんだろう!? こんなふうに語らせておいて、俺たちを探って、それで来世を決めようってんだろう?」
「――――…!!」
思いがけない言葉を受けて、三人とも目玉に見入った。
役人は否定も肯定もせずに、
「言っておく。面を被ったまま次の道へ往った者はいない――――さあ、面を脱げ!!」
そう言い放ち、へさきから猫背男を指差した。
すると、猫背男は弾かれたように背筋を伸ばした。パアンッと音を立て、全身から鱗状の破片を飛び散らせる。鱗の後ろに隠れていたのは――――――
「お、おまえっ!? スレンドラじゃねえかっ!」
捕吏はあんぐりと口を開けて仰天した。追っていたならず者がそこにいたのだ。猫背男とは似ても似つかぬ三白眼の大男。
曝かれた男はますます顔を歪ませ、声も上げられないほど錯乱していた。正気を失くした形相が恐ろしい。ラジとエトラは息をつめた。
捕吏はすぐに落ち着きを取り戻し、にやけ顔になる。
「なんだよ、おまえもあの宿にいたのか。いないだなんて、女将の奴、調べもせずに言いやがったな」
目玉から逃れようと、男は大きな身体を無様に折り曲げ縮こまる。天に平伏す咎人そのままに。肉付きのいい腕や肩を痙攣させて、言葉にならない声でうめき続ける。
捕吏は鼻で笑ったのち、哀れみを帯びた口調で、
「スレンドラよ、そんなに怯えちゃあみっともねえぞ。どうしようもねえゴロツキだったけど、肝っ玉は小さかったんだな」
「ひ、ひい……ひいい」
「分かったぞ、おまえのやり残したことが。くだらん悪事をくり返すおまえのやり残したことがな」
すると男は震えを止めた。やおらにおもてを上げ、三白眼を剥いて捕吏のにやけ顔をまっすぐに見つめた。乾ききった白い唇をぎこちなく上下させる。
「あーん? どした?」
「……い、言うな……」
巨体にそぐわない蚊の泣く声だった。
「言うな……言うな……言うなっ」
声は徐々に大きくなり絶叫へ変わる。
「言うな――――っ!」
男は真っ青になって捕吏に飛びかかり、その首に手をかける。が、捕吏の拳が男のみぞおちを衝く方が早かった。
非情な笑みを浮かべ、捕吏は代弁する。
「それは償いだ。しかも目に余るほどたくさん、な」
男は崩れ落ち、静止し、やがて顔を上げながら泣き叫んだ。はらわたを絞り上げたような悲嘆の声が響き渡る。
茶番を見届けて――――役人はゆっくりと天を指す。猫背男が、往った。
ラジが空を見上げると目玉はもう瞳孔を絞っていた。まるで何事もなかったように。今し方起きた騒ぎが夢であったみたいに、舟上は静まり返った。
しばしの沈黙のあと、捕吏はらしくない沈鬱な溜め息をついて、
「気がちいせえからこそ悪さばっかしてたんだな。あいつ、来世は畜生かもな」
そう、然るべき来世を憶測した。眉をしわめたエトラが短く息を吐く。ラジは戦慄し、
「本当か?」
と、役人を見つめた。
「私には分からない。それに今更繕ったところで無駄だ。初めから観察されているのだ。生まれ落ちたときから次の道へ歩み出すまで、ずっと。行いの悪い者ほど目玉を怖れる、そういう人間をいくらも見てきた」
三人は口を結び、金色に輝く目玉を畏怖するふうに見上げた。
どうやら捕吏は番頭ではなく、語っていたことはすべて本当のことなのだろう。ラジは納得し、疑念を解いた。
「あいつがスレンドラなのね、噂は聞いてたけど初めて見たわ」
エトラは囲っていたやかんを出した。猫背男に倒されないよう、咄嗟にかたわらへ寄せておいたのだ。そして、舟床に転がる捕吏の湯呑みを拾い上げようとした。
けれど捕吏は、
「ありがとよ。でも、もういらねえ」
と、湯呑みを自ら拾って投げ捨てた。
「俺も往くとするよ」
「あんたもやり残したことが分かったの?」
目を丸くするエトラに、捕吏もまた目を丸くして返す。
「言っただろう? スレンドラを追っていたのは盗賊団の隠れ家を探るためだって。奴らを根こそぎとっ捕まえるのが、俺のやり残した使命だ。こう見えても仕事には命をかけてたんだ。しかし、ま、本当に殉職しちまうとはな」
捕吏の目つきはいくらか柔和になっていた。そしてやはり満たされている。悠然と立ち上がると、エトラは急に戸惑いの色を見せた。
「ね、ねえ。待って」
困惑気味に瞳を揺らす。小さな唇から辿々しく漏れた声は、とても似合わないか細いものだった。
「……あの、あんた、さっき……」
「あん?」
捕吏は間の抜けた返答をする。
「えっ……と……」
一呼吸置き、エトラは元の調子に戻って言った。
「……お節介は徳に背くって言いたいの!」
愛想のない口調に反して、その瞳はあきらかに恥じていた。捕吏は一瞬ぽかんとしたあと、柔らかく吹き出して、
「――承知した」
ふたりが何を言っているのか、ラジは分からなかった。が、捕吏からぷいと目を逸らすエトラを見て、唐突に気づいてしまう。
あのとき――――娼婦だと暴露され注目を浴びたとき、皆の興味をエトラから逸らせてやるために、捕吏は故意に自分をからかったのだ。
尚かつ出稼ぎ人との間でそれについてのいさかいが起こるのを止める意味もあったのだろう。浅はかな自分が情けなくて、ラジは両手を握り締めた。
捕吏は腰につけた巾着袋を外して、役人へ差し出した。ビンロウの種の入った小袋だ。
「やるよ。好きにしてくれ」
「ありがたい、頂戴しよう。ところでひとつ尋ねたい」
「なんだ?」
「何故あの男に目を付けていたのだ?」
捕吏は誇らしげに答える。
「あの猫背がまさかスレンドラだとはな。だけどな、奴は初めっから罪の匂いをプンプンさせてた。おまえさんと同じく長年の勘で分かるんだ。臭くて鼻がひん曲がるかと思ったぜ。罪人ばっか追ってた俺の嗅覚、たいしたもんだろう?」
頼むぜ、と捕吏は他の乗客と同じように掌を合わせた。
「待ってくれ」とラジが声を上げる。
「今度はおまえか。まだ文句があるのか?」
ラジは口籠もったあと、ごめん、とまっすぐに告げた。
捕吏はふんっと鼻で笑い、
「胡散臭くて、わーるかったな!」
機はとうに熟していた――――役人は言いながら天を指す。
捕吏が舟上から消えた。
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