第7話

 ぼうっとしてるわよ、という声でラジは正気づいた。

 エトラはにっこりと微笑い自分語りの続きをせがむ。頬のそばかすと鼻に差したピアスが、平鍋の中で踊る豆みたいに弾んだ。


「じゃあさ、ダルブーラムには仕事の用事で?」

 事情を知らないエトラは、仕事に関する質問を重ねていく。捕吏の様子をうかがう良い機会だった。ラジは気持ち、声を強めて返答する。

「違う。勤めてた商家は辞めたんだ。去年の満月祭ホーリーの頃にね」

「もったいなぁい!」

 エトラは両目と口を目一杯開いて素っ頓狂な声を上げた。

「そんなことない」

 つまらなそうに口の中だけで呟いた。本心だった。

「村で田んぼを手伝ってた方がずっといいよ」

「そうかしら? ……ま、分かんないでもないけど。じゃあダルブーラムにはどうして?」


 再度、ラジは声を強める。

「商家を辞めてからは村にいたんだけど……まあ……色々あってね。現金収入も必要だし、ダルブーラムで新しい仕事を探すつもりだったんだ」

 捕吏の表情、目の動き、所作、どこかに異変はないかと、目の端で懸命に探った。が、捕吏は出稼ぎ人の話に耳を傾けていて、ラジの言動など気にも止めていないようだ。

 やはり思い違いだろうか、ラジは長い睫毛を伏せる。


「ふうん。それであの宿に泊まってたんだ」

「うん……」

 嘘をついた。復讐を果たすために忍び込んだなどと、人に言えるわけがない。

「あんたの村ってどんなとこ?」

 古里とダルブーラムしかエトラは知らない。興味半分、お愛想半分といった調子で尋ねてきた。

 ラジの頭の中で、生まれ育った山村の風景が、まるで高台から見晴るかしたように広がっていった。

「田んぼ以外に何もない、だけど静かでとても綺麗なところだよ」

 ラジは村の様子を話して聞かせる。もう二度と帰ることのない愛しい古里を――――


 山並みは照葉樹に覆われて緑に燃えている。斜面に延々と連なる棚田は、天上へのぼるための階段のようだった。谷間に滑り落ちる清らかな雪融け水、行商人や巡礼者の行き交う細道が山間に果てしなく続いていく。

 時折そこを、売り物の羊達が雪崩のように駆け下りていった。数百の羊の群れは通り過ぎるのに時が必要だ。ラジはその様子をじっと眺めているのが好きだった。市場で騒がしく売り買いされる光景を頭に浮かべながら。


 初春には菜の花の絨毯があちらこちらに広がって、土壁の民家を賑やかに彩った。家々の軒下にぶらさがるのは、黄色く光る乾燥トウモロコシの束。昼には陽射しを、夜には月の光を受けて、電灯のない村に明かりを灯しているみたいに見えた。

 北方へ目をやれば稜線のさらに奥で、神々の山が、純白の頂きが、厳かに輝いていた。


 エトラへ聞かせるうちに追憶の底に沈みはじめ、ラジは口をつぐんだ。

 思い出の中の田んぼで両親が手をふっている。木訥で真正直な父と、控え目な笑みを絶やさない母……。佇まいに慈しみを滲ませて、ラジの名を呼んでいる。


 ラジは物静かだが、ともすると激昂してしまうことがあった。感情と折り合いをつけることが出来ずに自分をもてあます。そんなラジに、母はよりいっそう甘い茶を淹れてやることがあった。

 母の茶の味を、ラジは懐かしく思い出す。とろりとするほど砂糖の入った茶が、硝子の湯呑みで湯気を上げる。隠し味は生姜、その爽やかな香りは激情に火照った心と頬を撫でる。怒りで唇が震えていても、飲み終わる頃にはぴたりと治まった。

 母はそれを見て肩をすくめつつ、日溜まりみたいに微笑う。父さんの若い頃そっくりだ、と母がこぼせば、父は意に染まないと背を向けた。


 村を出たのはつい数日前だ。にも拘わらずひどく懐かしい。沙羅樹の下でラジを見送る父母の面持ちは、目を覆いたくなるほど沈鬱としていた。かつてラジを商家へ送り出したときとは、まるきり違う顔つきだった。

 自分は誇れるような息子ではなかっただろう。そう思うと、心苦しさに押し潰されそうになる。


 無口になったラジの顔を覗き込み、エトラは唇を尖らせた。

「ラジ、あんた泣きそうな顔してない? やめてよ湿っぽい」

「そんなんじゃないよ」

 つい感傷的になってしまったのを恥じて、ラジは横を向いた。




 だしぬけに出稼ぎ人が大きくふりかぶり、使っていた湯呑みを河へ投げ捨てた。その行動に誰もが注目する。小さく水音が上がり、ややあって青緑の川面に描かれた波紋が小舟に到達した。


 捕吏が興味深げに尋ねる。

「やり残したこととやらが分かったのかい?」

 出稼ぎ人は得意そうに歯を見せて微笑い、

「おう。姉ちゃんよお、おめえの苦労話にはえらく共感するよ」

 エトラを一瞥したのちに語り出す。

「俺もな、金には苦労したもんだ。俺のやり残したことは……借金の完済だ。あと一回、あと一回こっきりで完済するはずだったんだ」

「それがやり残したことか! おまえさん、律儀にもほどがあるぜ?」

 捕吏は呆れ声を上げるが、出稼ぎ人は満更でもなさそうに無精髭を撫で回した。

「俺はな、貸してくれた旦那には心底感謝してんのよ。あんとき誰も貸してくれなかったら、うちは路頭に迷ってたんだから。おかげで今はそれなりの暮らしをしてる。耳を揃えて返したかったし、それに、たとえあと一回でもせがれに払わせるのは忍びねえ」


 出稼ぎ人はエトラの方を向き直し、伏し目がちに言う。ばつが悪そうに、人差し指で顎のあたりをぽりぽりと掻きながら。

「姉ちゃんよお、さっきは……その、悪かったよ。単なる軽口のつもりだったんだけどよ、傷ついちまったかな。申し訳ない」

 朴直に謝罪する出稼ぎ人に対し、エトラは迷惑だと言いたげに声を尖らせる。

「いいわよ、もう。蒸し返されるほうが困るわ。繊細さデリカシーに欠けるんだから!」

 出稼ぎ人は笑って肯定した。それから険悪になっていたラジへ向かった。

「若けえの。大人げなく怒鳴ったりして、俺も悪かったよ」

 ラジはじっと見つめ返すだけで何も応えなかった。

 エトラが眉をひそめて口を挟む。

「ちょっと。なんとか言いなさいよ、いつまで怒ってんのよ」

「いいってことよ、姉ちゃん。俺が謝りたいだけなんだから」


 穏やかに笑む出稼ぎ人の瞳は、先に往ったふたりと同じく満ち足りていた。

 ゆっくりと立ち上がり、腰巻きの結び目を一旦ほどいてから美しく巻き直す。そしてやはり同様に、胸の前で掌を合わせた。

「お役人、準備はいいぞ」

 役人は深くうなずいた。へさきに立ったまま、すうっと天を指す。重苦しいまばたきの音がして……出稼ぎ人は舟上から消えた。



 静けさが辺りを包む。まばたきの音の余韻だけが遠く木霊するようだった。

 やがて捕吏が口を開く。

「絵に描いたような善良な庶民だな、あれは」

 エトラが短く息を吐いた。ラジを睨めつけ、食ってかかる。

「ラジ! あんたしつこいわ、大概にしてよ!」

 ラジは口をきつく結んでエトラを見据えた。

「気にしてないって、あたし言ったでしょ。だいたい、なんであんたがそんなに怒るのよ? あたしのことでしょ? あんたに関係ないじゃない!」

「……許せないんだよ、ああいう奴」

「くそ真面目!」

「なっ……!」

 ラジの反論を待たず、エトラはさも当然のことと言い切った。

「あんたみたいな頑固者が世の中じゃいちばん嫌われんのよ。さぞかし生きづらかったでしょうね」


 その言葉はラジを鋭くえぐった。胸の奥がきりりと痛む。無意識に声を荒げ、

「大っ嫌いなんだよ! 俗っぽい冷やかしとか、嘘か本当か分からない噂話で人を傷付けるような奴が、大っ嫌いなんだよ。我慢できないんだ、きみが気にしてなくてもだ!」

「この石頭! 偏屈!」

 エトラは負けじと叫んだ。


 捕吏が耳を塞いで、子供じみた喧嘩だとたしなめる。

「おいおい、やめねえか。阿呆らしすぎて背中がこそばゆいぜ」

 神経を逆なでされたラジは捕吏へ向かう。鋭くうろんな捕吏の目を捉え、声を低く絞り出した。

「……胡散臭いよ」

「ああ?」

「捕吏だなんて、本当なのか?」

「なんだそりゃ」

 捕吏は目を引きつらせた。

「……おまえ、本当は――――…」

 ラジは言いかけて、そこで口をつぐんだ。

「本当は、なんだって?」

 その声はわずかに苛立っている。

 言えない。ラジは注目を浴びながら、奥歯を噛み締める。


 沈黙ののち、捕吏は間延びした声で大あくび。げんなりとして役人へ訴えた。

「おーい、お役人。舟長として、この分からず屋になんとか言ってくれないか?」

 役人は何も返さず、含み笑いをしながらへさきに佇んでいる。


 やがて皆、興味を無くしたように語り合いを再開した。エトラはつんとして、ラジに背を向けてしまう。ラジはなんとなく孤立してしまった。生前、つねにそうだったように。

 話の輪から外れてひとりうつむくと、先ほどのエトラの言葉が思い出され、えぐられた傷に再び染み込んだ。

 舟床に横たわる無用の櫂が、ラジの目に哀しく映る。



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