第6話
乗客は夢中で自身を語る。討論でもするかのように、身ぶり手ぶりを交えながらの問わず語らい。なかには感極まってむせび泣く者もいた。
ラジは黙って皆の顔をひとつひとつ注視した。もしも番頭がいるとしたら、あの男か……いや、この男だろうか、と。
似た男などいない、見たところでちっとも分からなかった。先ほど往った初老の男も疑ったが、とても番頭とは思えない。そもそも、いないかもしれないのだ。
それでも可能性を否定しきれない。番頭はラジが無実であることを知っていたはずなのだ。自分を見たら面を被りたくなってもおかしくないと、そんなふうに考えてしまう。
けれど、本当にいたとして正体を現せたなら――――頭の中で呟けば、その後に続く想像が恐ろしい。ラジは自分を止められる自信が微塵もないのだ。身震いし、その想像を呑み込むために茶をひといきに流し込んだ。
目の前に、鶴の首に似たやかんの注ぎ口が差し出される。
「おかわりをどうぞ」
エトラがすかさずラジの湯呑みに茶を注ぐ。手首の腕輪が擦れ合って、シャランと涼やかな音を立てた。
「ありがとう。気が利くんだね」
「まあね。でも優しいからじゃないのよ。習性みたいなもんよ。気を配ればそれだけお礼が弾んだからね」
明けっ広げな言いように、ラジは返す言葉が見つからなかった。エトラは構わず、ラジの赤みがかった短髪を見つめて、あんたの髪いい色ね、と囁いた。
「赤い色って大好きよ。古里を思い出すの」
「どこ?」
「マドラプール。知ってる?」
「うん。行ったことはないけど。淡紅色煉瓦で有名な町だろう」
エトラは嬉しそうに微笑う。年相応のまっすぐな笑みだった。
「マドラプールでは特別いい材料が採れるのよ。町はずれにおっきな煉瓦工場があって、八本の煙突が堂々とそびえて一年中煉瓦を焼いてるの。遠くから見ると、空を支えているみたいに見えるのよ。色褪せ始めた薔薇みたいな上品な紅色の煉瓦でね、町全体が淡紅色で、夕日に染まると更に綺麗なんだから。最近では輸出もしてて、すっかり高級品になっちゃったって話」
古里を思い描いているのか、エトラは目を細めて遠くした。けれどすぐにラジを見て、
「あんたの古里は?」
「シャンドルコット」
「仕事は?」
どくん、と胸が鳴った。ラジはエトラを向いたまま、わずかな目の動きだけで辺りを見回しつつ、
「……商家で帳簿をつけてたんだ」
いくぶん声に力を込めて返答した。が、その言葉に反応を見せた男はいない。やはり番頭はいないのだろうか。
ラジの思惑など露も知らないエトラは、無邪気に声を上げる。
「商家! 計算得意なの? じゃあ学校行ったのね」
「初等部はね。家の手伝いもあったから休み休みだったけど。きみは?」
つい尋ねてしまい、ラジは慌てて口をつぐんだ。ただでさえ女の就学率は低いのに、エトラのような少女が就学したわけがなかった。
ごめん、と言いかけると、エトラはあっけらかんとしてその謝罪を制した。
「女が勉強してなんになんのよ。読み書きなんか出来ないけど別段困らなかったわ」
ラジはどことなく気が治まらず、教えてあげると口にして失笑を買った。
「今更? 生きてるうちに言ってよ」
「そうだよね……ごめん」
結局謝ってしまう。エトラは心底呆れたように、
「あんたって……本当に真面目なのね」
ラジがうつむいてしまうと、エトラは対岸を眺め始めた。捕吏や出稼ぎ人の身の上話を耳にしながら、ふたりとも沈黙していた。
やがて、エトラはおもむろに語り出す。
「ずっと前にもそう言ってた子がいたわ」
ラジは顔を上げ、遠い目をしたエトラの横顔を見つめた。
「ダルブーラムに来る前、実家でひと間だけの民宿をやってたの。今のあたしと同じくらいの若い泊まり客でね、世間知らずな男の子だったわ。暇があるなら教えてあげる……って。何言ってんだか、暇なんかあるわけないじゃないねえ」
軽めの口調とは裏腹に、対岸に向けられた眼差しは他者を拒ばむような硬さを持っている。十五にして揺るぎない、そんなエトラの眼差しにラジは深く惹きつけられていた。
「忙しいからほっといて、って言ったらつまんなそうな顔してたけど、朝から晩までてんてこ舞いのあたしの身にもなってほしいわ」
ラジはただ静か聞いていた。その真率な態度を快く思ったのか、エトラはラジを向き、瞳に柔らかさを戻して微笑んだ。
「あたしの父さん、煉瓦の取引の仕事してたの。八つの頃よ、なんだか急に様子がおかしくなっちゃって……気が付いたら意思の疎通が出来なくなってた。
高価な薬を飲ませたり、まじないをかけてみたり。手を尽くした後に残ったのは大きな疲労と少しばかりの借金で、それからは母親が外で働き、エトラは家事に忙殺されたという。
廃人同様の父親と幼い弟妹の世話をしながら、かたわらで旅人を泊めて宿賃をとる。それがエトラの仕事。もちろん弟妹はよく手伝いをしてくれたが、号令をかけるのもエトラの仕事だ。寝ても覚めても忙しいとこぼしたもんよ、エトラはそう語った。
だけど、ラジは思う。そのじつエトラは、忙しくあることを頭のどこかで望んでいたのではないだろうか。立ち働いていれば何も考えずに済む、手を休めて物を考えるのは無駄なこと、ラジはそういう気持ちをよく理解していた。それは自衛手段なのだ。
「でもね、すぐ下の弟だけは学校に通わせたかったの。だからあたしこの仕事を始めたの。母さんはただ……泣いて謝ってた」
エトラの瞳が再び厳しさを増していくのを、ラジはありありと見て取った。日暮れどきに急に風が冷たくなるかのようだった。
「弟はいま学校に通ってる。あたしは願いを叶えたのよ。だから本当はやり残したことなんて何ひとつ思いつかないわ。母さんは辛かったろうけど仕方ないわよね、誰も助けてくれやしないんだから」
それとなく聞いていた出稼ぎ人が口を挟む。
「姉ちゃん、大変だったんだなあ」
「そんなのあたしだけじゃないわ。みんな似たり寄ったりでしょう?」
「そうだな、違いねえ」
エトラの口調には妬みや憎しみなど、少しも籠もっていなかった。自分ほど貧しい者はいくらでもいる、自分の不幸は至極ありがちなものである、エトラはそういった事実をとうに理解しているのだろう。
ラジはそれを知って、この歳下の痩せた少女は自分よりもずっと大人なのだと気づいた。
し残したこと――――それを考えてみると、ラジはもうただひとつのことしか思いつかない。復讐。ただそのひと言が頭の中をぐるぐる回った。そんなことであるわけがない、あってはならないと、冷静な部分が同時に叫んでいる。
抗っても、油を注がれた心火はめらめらと燃え立つばかり。復讐。心の中で唱えるたびに炎は爆ぜる。
燃えさかる炎を鎮めるために、ラジは固く目をつむり息を止めた。けれど少しの効果もない。直火にあぶられて反って火傷した気がした。
油膜に似た河面へ目を移し、そっと唇を噛む。エトラのように不条理を受け入れることがラジには出来なかった。そんな自分を持てあましていた。
ひとしきり語ったエトラは、捕吏の湯呑みに茶を注ぎ足しながら言った。
「あんたはお金に困ったことなんかないんでしょうよ」
捕吏は湯呑みを軽く掲げて礼を言い、悪びれもせずに答える。
「まあ、おまえさんほどはな。しかし役人は役人でも、俺みたいな低級なのは結構しんどいんだぜ。上からは怒鳴られ下からは突き上げられ。力のない役人なんて憎まれるためにいるようなもんだ。おかげで心はカラカラに渇いて無味乾燥、まったく無情だ」
口髭をひと撫でし、さもありなんと肩をすくめた。いかにも余裕のある者が言いそうな言葉だ。言葉を返そうとする者はひとりもいない。ラジはもちろんのこと、皆少なからず鼻白んでいる様子だった。
捕吏はその反応を予想していたようだ。役人と庶民の間には、生まれも含む社会的格差からくる埋めようのない溝があり、それについて言及しても無駄なだけ。承知の上だと言いたげに、冷ややかな視線を受けつつも綽々と茶を啜っていた。
そして、出稼ぎ人の貧乏揺すりをからかい半分に見咎める。
「おいおい、激しいぜ。舟が沈んじまうよ」
「お……こりゃ、すまねぇ」
慌てて座り直そうとした出稼ぎ人は、けれど急に小首を傾げた。
「お役人よお。もし舟が沈んだら……俺たちどうなるんだ?」
「知らぬ。舟が沈んだという話は聞いたことがない」
役人は背を向けたまま告げたあと、ゆっくりとふり返り、
「ただ、以前こんな者がいた」
と、意味深長に笑みをよぎらせた。
「面を被った者がいたのだが、何かの拍子にそれが外れてしまった。するとどうだ? 悲鳴を上げて河に飛び込むではないか。ろくに泳げもしないのに岸を目指して一目散だ。無論、あっという間に沈んで、それきり浮かんではこなかった――――どうしたのだろうな?」
最後にニタリと微笑って脅かした。
「やだ! なんて怖いの……」
エトラが河面を凝視した。細い腕に鳥肌を立てて、自身の二の腕を抱えている。泳ぎが得意な者など滅多にいない、まして女なら水際遊びの経験くらいが関の山。少しも泳げないはずだ。
岸までは呼び声が届きそうな距離だが、山育ちのラジもそこまで泳ぎ切れるほど達者ではない。
暗く冷たい河底を想像すると、ラジは身の毛がよだつ思いがした。こんな恐ろしい河の上から早く逃れてしまいたい、誰の目もそう言っていた。ただひとり捕吏を除いて。
捕吏は河面を覗き込む猫背男の背後から、そっとその頭を鷲掴みにした。そのまま、
「どうだ。代表してちょっと確かめて来てくれよ」
舟の外へグイと押し出した。
「ひゃあっ! や、やめろっ!」
猫背男は奇声を上げ、目をむいた。突然人が変わったように怒りを露わにさせる。が、次瞬にはもう曖昧な笑みを貼りつかせ、
「や……やめてくださいよう」
「冗談だ、冗談。そんな情けない声出すなって」
あまりにたちが悪いと、乗客はそろって非難の目を向けた。しかし捕吏はまったく意に介さない様子で、笑いながら猫背男の肩を叩く。
悪戯も度が過ぎる。猫背男の胸中を推し量ると、ラジはやり切れなくなる。けれどそのとき、猫背男を見下ろす捕吏の冷たい目つきが――――
似ている、ふいにそう思った。
ラジはありありと思い出す。
商家でのこと。視線を感じてふり向けば、決まってあの娘が物陰から見つめていた。弾けてしまいそうに張りつめた眼差しを受け止める。ほんの束の間見つめ合う……目が離せない! ふたりの瞳を結ぶひとすじの糸に、周囲の音や色、声、時間、さまざまなものが吸い込まれ、ついに余計なものは何ひとつなくなるような、そんな瞬間だった。
が、その直後、必ずもうひとつの視線を感じて我に返った。
番頭の厳しい視線。冬山に吹きすさぶ風ほどに厳しい目つきで、ふたりをうかがっていた。ラジはそのつど、背筋を冷水が流れたように思った。
人を冷酷に詮索するような捕吏の目つきは、あのときの番頭に似てはいまいか……。
捕吏のすべてが急に疑わしく思えてくる。
職業も、革新派だという話も、まるきり嘘なのではないか。だとすれば、あの程度の宿に泊まっていたことも容易に納得がいく。慣習を否定していた捕吏…………確かに番頭も慣習には頭を悩ませていたのだ。
でも、まさか! 性格や口調がまるで違う、その発言も特別に不審な点はひとつもない。
茶を啜り始めた捕吏をよくよく眺めてみる。目つきは変わらず鋭いが、先ほどの冷淡さはもう影を潜めていた。
見れば見るほどに、ラジは分からなくなる。
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