第5話
出稼ぎ人が捕吏に尋ねる。
「そんじゃあよ、ダルブーラムには仕事でか? なんか事件でもあったのかい」
よくぞ聞いてくれた、と捕吏は身を乗り出した。
「事件じゃねえんだが……スレンドラって知ってるか?」
その地方に住む者なら、一度は名を聞いたことのあるならず者のひとりだ。が、エトラと老婦以外はどこからか訪れた宿泊客だ。皆、首を傾げていた。
ラジにとっても初めて耳にする名前だった。
「俺は長いことある盗賊団を追っていたんだ。その盗賊団の隠れ家にな、最近スレンドラが出入りしてるって情報を掴んで少し前から尾行していたんだ」
声に気を込めて、
「ところがよ、俺としたことがダルブーラムに来てうっかり見失っちまった。夜も遅かったし、とりあえず休んで明日にでも聞き込みを始めようと思ってたんだが……山裾の宿なんか泊まったら、これまたうっかり死んじまった。まあったく、なーんてこったい!」
捕吏は一気に語り、しまいに膝を叩いて大袈裟に嘆いてみせた。「ま、しゃあないか」と自身をなだめる。そして腰に下げた巾着袋から、緑の葉に包まれたビンロウの種を取り出した。
「それはなんだ?」
役人が興味を示し、へさきから降りてきた。捕吏の手元に注目する。
「これか。まあなんつうか、嗜好品の一種だ」
捕吏はそれを掌にのせて差し出してやった。役人は大きな身体を折り曲げて凝視する。
厚みのある濃緑のキンマの葉はくるりと丸められ、草のひもで結ってある。よく見えるようにひもを解いてみせると、中には胡桃に似たビンロウの種の破片が石灰に絡められて数粒入っていた。
役人は穴が空くほど見つめ続ける。
「これ噛んでると冴えてくんのよ。試してみるか? 役人のよしみでひとつやろう」
包み直してやると、役人は素直に受け取り無言のまま口に含んだ。
「噛んでると赤い汁が出てくるが、それは飲み込むなよ。あくまで噛み締めるだけだ。汁は河に吐き出すといい」
何も返さず一心に噛み続ける役人の表情に変化はない。良いも悪いも、旨いも不味いもなく、どうにも腑に落ちないというふうだ。
けれど、「お気に召さないか?」と捕吏が尋ねると、思いのほか心に適ったような返事をした。
「いや。楽しい。私はおまえ達の住むところをよく知らない。知らないことを知るのはとても楽しい!」
その顔つきはいたって冷静だが、決してまばたきをしない黒目だけの目を爛々と輝かせていた。輝きはみるみる増していく。より黒々と潤うと、役人の両目は血を吸った山蛭のように膨張し、眼窩で窮屈そうに蠢いた。役人は目だけで興奮しているのだ。
ラジはなんだか不思議な気がした。この舟上において本当の意味で生きているのは役人だけなんだ、そう気づくと不気味な黒目が突如生めかしく感じられた。
こんなにも意識がはっきりとしているのに、自分達は死んでいる。役人だけが終わりを迎えておらず、死人さながらの青白い顔の上で、両目をみずみずしく輝かせているのだ。
まるで役人の中に生と死が混在しているかのようだった。どちらが強いかといえば、圧倒的に〈生〉。生気は惨めな〈死〉など蹴散らしてしまう。活き活きとした目は涙液でぬらぬらと生々しく、生臭い。〈生〉の匂いがする。強烈な違和感とともに、襲いかかるような〈生〉の匂いが、した。
瞬間、ラジは危機感を抱いた。が、もう遅い。それはとてつもない威力でラジをねじ伏せ、まじろぐことすら許さない。
ふいに、役人はぬらりと輝く黒目をラジへ向けた。胸の奥がぎくりと鳴った。目を逸らさなくては……そう思うのに、ラジは完全にからめとられていた。
そんなラジへまっすぐに目を向けたまま、役人はおもむろに小首を傾げた。黒蜜を思わせるねっとりした目を、これ見よがしに見せ――――魅せつける。
――――や、やめろ! 僕を見るな――――!
心の叫びは届かない。のみならず意思に反して、ラジの両目はより大きく開き、ますます黒目を捉えてしまう。したたるような生気とその匂いが、ラジを強迫していた。無様に死んだ事実を…………一矢を報いるどころか知られることもなく自滅した愚かさを、ラジに突きつけていた。理不尽な死にざまを嘲笑っていた。
怖れと緊張で乾いた喉元から、どうにか声を絞り出そうとしたそのとき。
役人が、ふっと笑んだように思えた。黒目に〈生〉がほとばしる!
敗北だ。
その匂いはラジの鼻腔をどっと流れ、胸の奥で消えかけていた心火に注ぐ油となった。
…………生きている。
憎しみの熾きが真っ赤な火の粉を散らす。
……生きている。
舟に乗る前に決着をつけたはずの情念が、長らくラジを苦しめてきた記憶が、色鮮やかに甦る。背筋をぞわりと這いのぼる憤り、思い出すたびに真新しい屈辱…………瞼の裏に浮かぶ、あの娘の潤んだ瞳。
生きている、役人は生きている。そして――――ラジはうつむき、爪が食い込むほど両手を握り締め――――
番頭も、まだ生きているのか!!
喉の奥でそう吐き捨てた。悔しさがラジの内側で猛り狂う、堪らずに固く目を閉じた。
生きている、生きている、生き続ける!!
番頭の顔が鮮明に思い出され、頭の中で明滅する。いまにも我を失いわめいてしまいそうで、砕け散るほど強く、奥歯を噛み締めた。
必死に耐えるラジを追い打つように、役人が尋ねる。
「少年よ。震えているようだが、どうかしたか?」
その声は鼻につくほど平静だった。
「……いや……どうもしない……」
「汗を掻いている。何か隠しているのではないか?」
「何もないよ!」
「それならいい。まれにいるのだ、面を被って素性を隠そうとする困った人間がな」
ラジははっと顔を上げた。食い入るように役人を見上げる。その横でエトラが訝しげに問いかけた。
「面ですって? なによそれ」
「なんのつもりか、姿をいつわって舟に乗る者がまれにいる。いじらしいほど哀れな者だ」
言い捨てて、役人はへさきへ戻っていった。
標柱のごとく直立する役人を、ラジはまばたきも忘れて見つめ続けた。
面を被る。姿をいつわり素性を隠す。くり返すと、目がくるめくほど動悸がした。その言葉はひとつの可能性を提示したのだ。
本当は番頭も死んでいて、ここにいるのかもしれない。面を被って素知らぬふりをしているのかもしれない。
吐き気をもよおすほど興奮していた。自身を抱きしめるようにして耐えていた。けれど、ラジは乗客の顔をそっと見回してしまう。その目にはもう期待の色が滲んでいる。
心も身体も揺れ動き、震えていた。
ふいに、老婦がいざなわれるように立ち上がった。青い薄布をゆるやかな手つきで頭へかけなおすと、地平の彼方ヒマールへ目を向ける。細めた目でしばし眺めたあと、やけに落ち着いた声音で言った。
「エトラや、悪いけどわたしゃ先に往くよ」
神妙な面持ちで佇む老婦に皆が注目する。老婦は役人へ向かいながらも、独り言のように告白した。
「わたしのやり残したことは、せっかく生んだあの子らを愛してやらなかったことさ」
「おばあ! ずっと独り身で子供いないって言ってたじゃない?」
エトラが声を上げると、老婦は身をよじらせ恥ずかしそうに顔を隠した。
「いないのは手放したからさ。わたしゃ阿婆擦れと呼ばれた通り、勝手気ままに生きてきた。無責任に子を産んでは、育てる自信がないもんだから、みんな人に押しつけたのさ。さっきの赤子とおまえの子守歌で思い出してしまったよ。早く来世で……愛しい我が子を抱きしめたいよ……!」
絞り出された切なげな声が舟上に響く。誰もが真摯な眼差しで老婦を見つめていた。役人は口角を上げて深くうなずいた。
すると、ある初老の男がすっくと立ち上がった。
「待ってくれ、ワシも往く。ワシもさっきの子守歌で思い出したんだ。おっ母の子守歌をな。ワシは親不孝者だ、おっ母の死を看取ってやらんかった……それがやり残したことだ」
そう告白して男は手の甲で乱暴に涙を拭う。
「お姉ちゃん、あんたのおかげだ。ありがとな」
エトラはきまりが悪そうに口籠もった。
「そんなこと言われたって困るわよ……好きで歌っただけだもの」
自らのし残したことを悟ったふたりの目は、何故か陶然と満ち足りていた。
赤子のぬくもりが消えないうちに……と、老婦は胸の前で掌を合わせる。
「機が熟した。往くがいい」
役人は静かに天を指す。破れ目の目玉が大きな音を立ててまばたいた。一瞬の暗転、直後、ふたりは湯気のごとく立ちのぼり、跡形もなく消えてしまった。再び照りだした光が、ふたり分の空席を明明と誇張する。
乗客はにわかに落ち着きをなくし始めた。魂の芯が騒ぎ出したように、口数を増やしてそわそわと身体を揺らす。ラジの昂ぶりが埋没するほどに舟上はざわめいた。
「なんだか、いい目をしてたな」
「俺達も早く往こうぜ」
「おう、こうしちゃいらんねえ」
役人は煽る、鼓舞する――――高らかに声を張り上げて。
「自らを語れ。自らを知れ。次の道へ進め。茶葉の用意はいくらでもある!」
そうして皆、手近な者と進んで素性を明かし合った。
破れ目の目玉は、見つめている――――
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