第4話
すべては錯覚。肉体を失くしたばかりの者たちにとっては酷な言葉だ。その言葉は舟上を静まり返らせてしまった。乗客は興が醒めたように語るのを止めた。皆、無言で茶を啜る。
空の目玉は真上から容赦なく舟上に照りつける。乾季の太陽のごとき傍若無人さで。色あせた舟床の板をさらに白々と見せ、ラジや他の乗客の浅黒い素足を影絵のようにくっきりと浮き上がらせた。老婦の足指を飾る銀の指輪が鈍い光を放っている。
ただ異なるのは、その光は熱を感じない。乾季の陽射しに晒されているような苦痛はなかった。
陽射しは呪い――――そんな言葉がある。大地から潤いを奪い、川を干上がらせ、労働する人々の肌を焼き尽くす。ほこり立つ赤茶けた地を耕す人々の額に汗はない。吹き出したと同時に、強烈な陽射しが体力とともに汗を奪ってしまうのだ。ときにそれは、いとも容易く命をも奪う。
舟上に照りつける光は肌を焼く代わりに心を焼いた。善行ばかりとはいえない自らの生きざまをふり返れば、誰もが心に冷や汗を掻く。待ち受ける然るべき来世。鮮烈な光は肌を透かし、その因子を克明に照らし出してしまいそうだ。心がはらはらと汗を掻いても、乾季の陽射しと違い、乾かしてはくれない。胸の奥をじっとりと湿らせて、乗客は白茶けた舟の上に黒くうずくまっていた。エトラと老婦の衣装だけが、この世界の色彩であるように映えている。
再び訪れた長い沈黙を老婦が破った。
「やだねえ、もう。せっかく茶があったって、話に花なんか咲かないじゃないか」
他人のせいとでも言いたげな口調だ。
右隣の男が口を歪めて微笑い、老婦の不満に皮肉で応える。
「沈黙はつらいってか。女の娯楽はおしゃべりだけだもんな」
老婦はそれが皮肉だとも気付かずに、
「息がつまりそうだよ。……そうだ、エトラや、ちょっと歌っておくれよ」
歌、と聞いてエトラは目の色を変えた。黒々とした睫毛に縁取られた大きな瞳がきらめいた。役人は錯覚だと言うけれど、エトラの表情には生気さえ感じられる。
「しょうがないわねえ」
エトラはことさら大儀そうに立ち上がる。そのくせ衣服の皺を丁寧に伸ばし、襟もとに巻いた杏色の薄布をかけなおし、縮れた黒髪を掌でなでつけて、
「せっかくの美味しい末期の水が不味くなっちゃうわ。特別に一曲披露して差し上げるから、ありがたがって聴きなさいよ」
もったいぶるわりに妙に嬉々としながら、エトラは声を整え始めた。
最初の一声、それだけでラジははっと息を呑み、放心した。とてつもない美声に、皆、目を見張っている。エトラはそれを見てニッとほくそ笑む。そしてやおらに歌い始めた。広く知られて愛され続ける、ダルブーラムの民謡を。
目抜き通りをお山に向かえば 鍛冶屋の金槌調子よく
合いの手 火の手 頑固親父の怒鳴り声
戸口を覗けば似ても似つかぬ 末の娘は沙羅の花
健気な娘は年柄年中 ふいごを押してススまみれ
微笑み 花笑み かか様譲りが懐かしい
恋しいあのひと立ち寄れば はにかむ心はましろ雪
合いの手止んだ鍛冶屋の父娘 祝儀の
トンテン トンテン 恋しいひとのお腰を飾れ
初恋叶わぬ娘のなみだ ダルブーラムの日が暮れる
《ダルブーラムの鍛冶屋》
空の彼方に突き抜ける澄んだ高音、裏声を自在に操りエトラは歌う。軽妙な旋律に切ない詞を乗せて、おおらかに、繊細に、まろやかに。
細かく震える歌声は鈴の音ほど涼やかで、夏の満月がふりまくしとった光にも似ている。目をつむれば人の声ではなく、伸びやかな擦弦楽器の調べかと錯覚するくらいだ。聴く者を甘く満たす蜜の声。
きらきらと輝く空気が、歌声に合わせて生き物のごとく脈打った。その痩せた身体からどうしてこんな声が出るのか、ラジは呆然と聴き惚れていた。
歌が終わると、皆、拍手も忘れて口々に褒め称えた。役人さえもふり返り「ほお!」と唸り声を上げている。
「すっげえな、姉ちゃん!」
「驚いちまったよ!」
「エトラ、最期にあんたの歌聴けて、わたしゃ嬉しいよ」
すっかり怒りを収めたラジも、
「すごいな。どこから声出してるんだよ」
「決まってんじゃない、体中よ。笛を買うお金がなくっても、小鳥は全身で歌えるのよ」
エトラは左手を腰に、右手で髪をなびかせて胸を張った。そして「ま、こんなの朝飯前よ」と付け足した。
「もっと聴きたい!」「歌ってくれよ!」皆にせがまれて、「しょうがないわね」とくり返す。やはり嬉々として得意げだ。
求められるままに、エトラは歌い続けた。民謡、流行歌、田植え歌、数え歌、子守歌……あらゆる歌を〈小鳥〉は奏でる。
肩や腰で拍子を取り、腕を大きくしならせて巧みに歌い上げていく。仕草に合わせて、襟もとの薄布の両端が宙をさらさらと舞っていた。
声は河面を滑り、何もない大地を駆けて、白く輝く遙かな山々をめがけ響いていく。破れ目の目玉も聴き惚れるように黙していた。
親の定めた相手と連れ添うのが当然の世の中なのに、歌の中では自由な恋が咲いている。それが何故なのかラジには分からない。
にも拘わらず、歌は商家の娘との思い出をラジの心に呼び起こした。娘と初めて交流を持った、あの晩の思い出だ。
満月の夜だった。下部屋近くの物陰で娘は隠れて泣いていた。普段なら決して足を踏み入れない場所だ。家族の誰にも知られたくないのだと分かった。気を滅入らせる啜り泣きは耳障りだったが、あまりに長くそうしているので、そのうち気の毒に思えてきた。
ラジは盆に甘い茶をのせて娘の元へ運んでやった。捨て置かれた古い石臼に腰かけた娘は、煉瓦の壁に寄り添うようにして肩を震わせていた。ラジに気づくと警戒したらしく、肩にかけた薄布をそっと引いて顔を隠し――――やがて、うかがうようにラジへ目をやった。
飯炊きを起こして淹れさせた、とラジは言った。それは事実だ。生まれの違う自分が淹れた茶など好まないだろうと考えていた。
逡巡ののち、娘は伏し目がちに茶を啜り、わずかに口元を綻ばせた。と、ともに艶やかな白い頬がふうっと色付いた。甘いものが心を落ち着かせることを、ラジは経験的に知っていたのだ。
娘が微笑むと、下部屋のある荒れた裏庭の空気が色を変えた。夜風が澄み渡り、月の光はよりさやかに娘を照らした。ラジはその美しさに息を呑んだ。
娘の長い睫毛を濡らす涙は、蓮の花に浮かぶ汚れなき夜露。赤みを増した唇は、牛の乳にはらりと落ちた薄紅の花びら。光沢のある白い衣服は蜂蜜色に染まり、娘を
娘に触れたことなど当然なく、かけた言葉もそのひと言だけ。娘とのことを果たして恋と呼べるのか、その答えは今も出せない。けれど、月明かりの下で香るように染まった娘の頬の色が、ラジの心に深く、深く残っている。
ひとしきり歌うと、エトラはひと息に茶を飲み干した。乗客のひとりが尋ねる。
「姉ちゃん、歌手じゃないのか?」
エトラは申し訳なさそうな顔を作り、
「残念ながら歌手になるには、ほんのちょっとだけ美貌が足りなかったのよ」
と、欠けた前歯を覗かせていたずらに笑った。
役人がへさきから感嘆の声を放つ。
「素晴らしい歌声だ。私はとても感動した。ところで、この舟上の独唱会は…………無論、タダだろうな?」
そう言って薄笑いを浮かべた。エトラは表情を一変させ食ってかかる。
「いやな奴ね! お役人って名のつく者にはろくなのがいないわ。嫌味ったらしくて威張ることしか脳のない犬っころ……大っ嫌いよ!」
鼻筋に皺を寄せ、小さな顎を突き出して挑発する。その子供じみた仕草が愉快だったのか、役人はクッと吹き出した。
「すまないな。人間をからかうのだけが楽しみなんだ。私の仕事は単調ゆえ」
すると、右隣の男が声を漏らして笑い始めた。
「姉ちゃん、手厳しいな。実は俺もその犬っころのひとりよ」
「あら! そうだったの?」
「俺は捕吏なんだ。罪人を追いかけてとっ捕まえるのが仕事だ」
右隣の男――――捕吏が職について明かすと、疑いの声が上がった。
「それ本当か? お役人ならなんだってあんな安宿に泊まるんだよ」
ラジもそう思った。役人なら、その生まれは良いはずだ。金もあるだろう。相応の宿を選ばず、あの程度の宿に泊まるとは考えにくかった。
が、捕吏は美しく整えた口髭を撫でながら、誇らしげに語る。
「俺は革新派なんだ。人はすべからく生きたいように生きるべきだ。安宿で充分なら安宿に泊まる、至極当然だろ。だいたいな、生まれによる差別が禁止されてから何年たったと思ってんだ?」
皆、黙り込んでしまった。
もしも捕吏がここにいる者達と同程度の生まれだとしたら、その思想が支持された可能性もあっただろう。しかし、それが捕吏のような富裕層から発せられると、途端にただの偽善、あるいは異国かぶれの戯言に聞こえてしまうものだ。
捕吏は構わずに続ける。
「因習なんかに縛られたりしねえ。だから俺は結婚するにしても、
嫁の家から婿の家へ、多額の貨財を贈る慣習がある。額が少なければ婚家で冷遇されかねない。いじめ殺されることすらあるのだ。
持参金に頭を悩ませず済ますには、女児を産まないこと、もしくはイトコと婚姻させること――――ラジの父母もイトコ同士だ。
慣習を因習とおおっぴらに言う捕吏を見て、ラジは問うてみたくなる。
「神さまを信じないのか?」
莫迦言うな、と捕吏は無神論をはっきり否定した。
「こんな舟の上で言う台詞か? あのな、変わらないものはない。だからこそ俺達もこうして転生するんだろう。古いしきたりも新しく変わるべきなんだ」
にやけ顔から一転、捕吏はひどく真面目な顔で言い切った。
その主張はラジにも分からなくはない。縛るものがなかったら、額に書き込まれる運命も少しは違っていただろう。
だけど古いしきたりのない世界など、ラジはまるで想像出来ない。そんな世の中であるべきなのかも分からなかった。地平の彼方に連なる神々の山を、途方もない気持ちで見つめることしか、ラジには出来ないのだ。
役人は腕を組みながら、興味深そうに舟上を眺めていた。
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