甥っ子の自殺

シカンタザ(AI使用)

甥っ子の自殺

世の中では、重要なことも取るに足らないことも、よく考えてみればすべては夢のようにはかないものだったのだなあ。この世は、夢だったのか。いや、ちがう! これは現実なのだ! 私は生きているし、私の肉体も私の精神も存在し、ここにこうして文章をかいているではないか。そうさ、ここは現実だ。そして私の人生には限りがあり、いつ何時それが終わってしまうかわからないのだ。その終わりのときのことを考えたら、たまらない。だから今このときのことを一生懸命生きていかなくてはならないのだが……、しかし人生というのは、いったいどうなるかわからんものなんだねえ。明日交通事故に遭うかもしれないし、強盗に遭って殺されるかもしれない。病気で倒れるかもしれぬし、戦争に行くことになるかもしれぬ。あるいは、ひょっとしたら宝くじに当たるかも知れんぞ。宝くじに当たったら、一億くらいもらえるかな? ま、そんなことはありえまい。宝くじに当たっても、私は大して嬉しくないと思う。それより、交通事故に遭って死んだり、強盗に殺されたりしたほうがいいような気がするね。でも、それはそれでつらいことだろうなあ。とにかく、人生って、なんとも予測不可能ということだ。人間なんて、ほんとに無力な存在だよなあ。「人間は生まれながらにして弱い者です」と、誰かが言っていたっけ。うん、確かにそうだよなあ。人間の運命っていうものは、生まれたときから決まっているんだろうなあ。もし私があの世に行ったとしたら、きっと地獄行きだろうな。ああ、こわい!

ところで、なぜこんなことを急に書き始めたかというと……。実は、昨日、私の甥っ子が死んだからだ。甥っ子といっても、血はつながっていない。彼の母親は、私の姉の子供だ。彼は養子としてうちに引き取られたのである。昨日の朝、私は甥の家へ行ってみた。甥はまだ寝ていた。枕元にはノートが開かれて置いてあった。ノートには、「もうすぐ死ぬから読んでくれ」と書いてあった。私は何も言わずに部屋を出た。それから私は仕事へ行き、夕方になってまた訪ねていった。すると、甥の姿はなかった。近所の人に訊くと、甥は自分の部屋で首を吊ったのだという。遺書があったらしい。

私は甥の部屋に上がり込み、遺書を読んだ。そこにはこう書かれていた。

「ぼくは自分が嫌いです。自分の存在が不愉快なのです。生きていてもしょうがないと思います。自分の死によってしか、この気持ちを表現できません。ぼくのような人間が死んでも誰も悲しまないだろうけど、自殺することによって多少なりとも世のためになることがあれば幸いです。今まで育ててくれてありがとうございました」

それを読んで、私は泣いた。涙が出た。そして、彼がどんな思いで死を選んだのかということを思うと、とてもやるせなかった。どうして彼は、生きることがつらくなって死を選ぶ気になったのだろうか。私にはわからなかった。私には想像できなかった。しかしとにかく、彼の書いた遺書の内容は痛切だった。彼の言葉のひとつひとつから伝わってくるものがあった。彼は自殺したことによって世のために何かができたなどとは思っていないに違いない。彼はそういう人間ではない。そんなふうに思ったら自殺するはずはないのだ。ただ単に、自分の存在が不愉快だったというだけだ。つまり、自分は生きている価値のない人間だと思ったということなのだ。だから、彼としては不本意ながら死を選ばざるを得なかったのである。

そういえば、昔読んだ小説の中にこういう話があった。ある男が妻を殺した後、自分も一緒に死のうとしたが怖くなり、結局ひとりで逃げたという話だ。その男は殺人を犯したという罪悪感に苛まれていた。そして、自分なんか生きていたってしょうがないと思っていた。しかし、いざ死ぬとなるとやっぱり怖いわけだ。自分で自分を殺せないほど臆病な男だったが、他人なら簡単に殺すことができる。ところが、殺したあとに恐怖を感じた。自分はやはり生きたかったのではないかと思い直したのだ。そして、もう一度生きてみようかと考え直し、刑務所から出て来たという物語であった。

私にはよくわかる。私にもそういう時期があった。私の場合は、妻を殺してしまったという後悔が大きかったが、もっと小さい頃は、自分の存在が不愉快でしょうがなかった。なぜこんなにつまらない人間に生まれついてきたのかと悔やんだものだ。だが、いくら嘆いても仕方ない。それにしても、なぜ人間はみんな、つまらない存在なのか。私も含めて、人間はみなつまらぬ存在なのであろうか。

私は甥に対して同情しているわけではない。甥の気持ちは理解できる。しかし、私は彼を責めるつもりもない。彼は彼自身の意志で死を選び取ったのであり、その結果について責任を持つ必要はまったくないと思っているからである。私だって同じ立場に立たされたら、たぶん自殺していただろう。いや、自殺しないまでも、自殺に近い行動を取っていただろうと思う。

私は昨夜、夢を見た。夢の中で、私は列車に乗っている。窓の外には海が見える。列車は鉄橋を渡るところだ。鉄橋の上を列車が走っているとき、突然列車が揺れ始める。私は床の上に転げ落ちる。そこで目が覚めたのだ。そのとき、ふと「自殺するときは、列車の上がいいな」と思った。私は、そんなことを考えている自分にびっくりしてしまった。なんとなく、夢の中の出来事とはいえ、自分が死ぬことまで考えていたような気がするからだ。もちろん、私は死にたいと思ってはいないし、これから先も自殺するつもりはない。だから、今の私の考えが正気でないということはよくわかっている。でも、なんだか変じゃないか? こんなに毎日が不安でいっぱいなのに、どうして「自殺しよう」などと思わなくてはならないのだろう? 私はいつからこんなにネガティブな人間になってしまったのか。これではいけないと思うのだが……。

今朝、私はいつものように起きて仕事をしようと思ったが、どうしても気分が乗らない。それで、今日一日休むことにした。別に具合が悪いわけではなく、精神的に疲れているという感じである。それで、本を読み始めたのだが、どうも集中できない。それで、私は小説を書くことをあきらめ、こんなことを書いているのである。

こんなふうに書くと、まるで私が怠け者みたいに思われてしまうかもしれない。実際、怠け者だと思われても仕方がない。しかし、それは違う。私は普段から怠けてばかりいて、決して真面目とは言えない性格だ。しかし、それはあくまでも仕事の上での話である。仕事に関しては一生懸命だし、努力しているつもりだ。それにひきかえ、私生活はどうか。私は、日常生活において何ひとつとして真剣に取り組んだことがない。仕事以外のことはすべて遊びみたいなものである。だからといって、私は不真面目な性格だとは思わない。そういう生き方をしてきただけのことである。しかし、最近はさすがにこのままではまずいと思い始めている。

今まで私は、自分の生活態度を改めようとはしなかった。むしろ、ますます悪くなっていったと言える。それが最近になって、少しは改善されつつある。それというのも、ある人のおかげである。その人は、私より一歳年下なのだが、実にしっかりしていて、頭がよくて、そして心優しい女性である。彼女はとても綺麗な顔をした人で、スタイルもよく、そして声も素敵だ。彼女と話をすると、とても気持ちが落ち着く。彼女に会ってからは、私の生活はすっかり変わってしまったと言ってもいいくらいだ。彼女がいなかったら、きっと私はだめになっていたに違いない。

彼女は、私よりもずっと若いのに、もう結婚している。しかも、旦那さんはとても頼りになる男性だという。彼女は子供がいないらしい。彼女の話によると、子供を生んでしまうと、その子の世話で手一杯になってしまうから、子供が欲しくないというのだ。しかし、彼女は子供が欲しいと言っていた。その気持ちはよくわかる。私は子供が好きなので、もし子供がいたらどんなに楽しいだろうと想像してしまう。しかし、残念ながら私には子供ができない。私に問題があるのか、それとも神様がわざと私に子供を授けないようにしているのかわからないが……。

とにかく、私には友達と呼べる人がひとりしかいない。そして、その友人は私にとって大切な人である。私は、彼女に会うまでは、親しい人間といえば家族だけだった。特に母親は私にとっては特別な存在であった。母親だけは私を見捨てなかった。そして、私のことを大切にしてくれた。私は母親に迷惑をかけてばかりだったが、それでも母親は私を愛してくれたのだ。

私は母が亡くなった後、本当に寂しかった。孤独だった。生きていることがつらくて、何度も死のうと思った。しかし、私は生き続けて来られた。なぜかというと、私の周りには常に誰かがいてくれるからである。父は亡くなったが、私は母と弟と妹がいる。そして、彼女は私を支えてくれている。

この前、私は彼女と電話で話した。私はそのとき思った。「私って、なんて幸せなんだろう」と……。私はこれまでいろんな人に助けてもらったり、支えられて生きて来たけれど、その中でも、やっぱり一番大きな存在は彼女だと思う。私は、彼女のような人間になりたい。私はそう思っている。

翌朝、私はいつものように目覚めて、いつものように仕事に行った。しかし、今日はまったく気分が悪い日であった。私の仕事は、基本的に文章を書くことだ。私には小説家になるという夢がある。ただ、今のところは小説家ではなく、「ライター」を名乗っている。小説を書いていないときは、主にエッセイを書いている。そして、今日は久しぶりに短編小説を書くことになっていた。

ところが、今日はその原稿が全然書けない。どういうわけか、いくらやってもうまくいかない。どうも調子が出ないのだ。こういうことはよくある。私はスランプに陥ると、なかなか脱出できないタイプである。そういうときには、無理をして書いてもろくな結果にならないことがわかっている。だから、私は思い切って仕事をやめることにした。

私はもともと仕事をするのが好きではない。仕事は嫌いではないが、仕事をすること自体があまり好きになれないのである。だから、仕事が手につかないのなら、やめた方がいいと思ったのである。でも、せっかく書いた原稿なので、一応保存しておいた。今日はどうしても気分が悪くて、これ以上仕事をするのはきついと思ったのである。私は家に帰って来て、本を読んだりテレビを見たりしたのだが、やはり何もかもやる気が起きず、一日が終わった。夜になって、私はふと「死ぬときって、どうすればいいのだろう?」と考えた。

私は子供の頃に父を亡くした。それから私は親戚の家に引き取られた。そこで、私は祖母と叔母と同居していた。私は高校を卒業するまで、ずっとその家にいた。その後、大学に入って一人暮らしを始めた。そして、今、結婚して夫と暮らしている。夫とは二年前に結婚したばかりだ。私は結婚するまで、実家から通っていたが、結婚後は夫の転勤に伴って、今の場所に引っ越してきた。そして、今は夫婦ふたりでマンションに住んでいる。

私は、今の生活がとても好きだ。夫は私のことをよく理解してくれていて、とても優しい。私は夫に対して、とても感謝しているし、尊敬している。私は今の生活を幸せだと思っているし、これからもこんなふうに暮らしていきたいと願っている。だが、もしも私が死んだら、私のまわりの人はどんな反応をするだろうか。おそらく悲しんではくれると思うが、それだけである。私の葬式をきちんと出してくれるとは思うが、それで終わりだ。それ以上の関わり方は誰もしない。私は自分の親が死んでも、涙ひとつ流さなかった。だから、死んだらみんな泣いてくれたら嬉しいなあ……なんていうのは甘い考えかもしれない。

しかし、私は死ぬときに後悔するような生き方はしたくはない。私は自分が満足できる人生を送りたい。私は私のやりたいように生きて、そして死にたい。そのほうが悔いのない一生だったと言えるはずだ。私は死について考えるたびに、いつも「もっと生きたかった」と強く感じてしまう。私は何のために生まれてきて、何のために生きているのかわからない。私だっていつかは死んでしまうのだ。そう思うと、私は不安でたまらなくなる。私は、もし私が明日交通事故にあって命を落とすようなことがあったとしても、そのことを悲しいとは思えない。むしろ、ほっとするのではないだろうか? 私はとても冷たい人間なのである。私は人の気持ちがわからない人間なのだ。私には友達が少ない。それは、私が人と関わることが苦手で、積極的に人と接することができないからである。

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