第75話 紙包み

               10


 物心がついた時、少年は、花街で暮らしていた。


 それ以外の場所での暮らしは知らないし、疑問もなかった。


 少年は、花街の安い女の腹から産まれた。


 小さな町や村ならば、花街ではなく、特定のお店が一軒、二軒しかないところだが、そこそこ大きい街ではあったので、花街と呼ばれるだけの数のお店が、集まっていた。


 そのため、職業的な理由から、どうしても生まれてしまう、少年と同じような生い立ちの赤子を、産後すぐに産みの親から引き離して集め、花街共有の財産として育てる、特有の仕組みが整っていた。


 自分の赤子と一緒に暮らしてしまうと、大抵の女は、赤子に情がうつる。


 途端に、女ではなく、母親という別の生き物に変じてしまった。


 けれども、花街を訪れる客の望みは、女なのだ。


 母親ではない。


 だから、商品の価値を落とさないために、お店は、店の女たちが、客である男の種を宿してしまわないよう、強く気をつけていた。


 それでも、薬で処置を施しても、完全ではない。


 花街全体では何百人もいるお店の女たちには、いつだって、腹に赤子を宿している者が存在した。


 腹が膨れていては表の仕事は任せられないので裏方の仕事をさせ、赤子が生まれると同時に、赤子を母親である女から引き離して、母親を、女として元の職場に戻す。


 仕組みは、出産の際、赤子を母親に見せもしないし、もちろん抱かせないほど徹底していた。


 母親は、強く息を吸い、泣きじゃくる赤子の声が自分から離れていくのを、ただ、聞かされるだけである。


 だから、少年には、もちろん母親に抱かれた経験はないし、そもそも母親の顔を知らなかった。父親については、言わずもがなだ。


 集められた赤子は、表の仕事を引退した元女ばばあたちによって育てられ、成長するに連れて、オークションのような形で、各お店に配属される。


 性別が女である場合は、将来のお店の商品予備軍として。


 男である場合は、育てて能力を見極めた後に、それぞれの適正と能力に見合った役割に応じて振り分けられた。


 お店に通えることがステータスとなるような高級なお店はさておき、大抵のお店の客は、なけなしの稼ぎで一夜の夢を求める男たちである。


 料金を高く設定してしまっては、手が出せなくなる。


 お店は、料金を下げるために、表には見えない、あらゆる部分の節約に努めていた。


 男女を問わず、従業員の賄いの食費もしかり。


 だから、少年は、いつだって腹を減らしていた。


 それでも、ひもじい思いができているだけマシである。


 共同養育の仕組みがない、街に一軒、二軒しかないようなお店では、大抵は、生れ落ちることすら叶わなかったし、生れ落ちても、何も与えないままにされるのが常だった。


 少年は、花街のどこかに、自分の母親がいるはずだという知識は持っていたが、そもそも人生で母親と関わった経験はなかったので、いなくて寂しいとも、必要だとも、会いたいとも感じはしなかった。


 周りの子供たち全員が、そこは同じだ。


 花街の仕組みは、子供たちがそのような思いを抱かないように配慮していたし、そのようなことを考えているほど、子供たちの生活も暇ではなかった。


 年齢なりに、毎日、働ける限界まで働かされた。


 だが、毎日がそうであることが、最初から当たり前であったので、少年は、仕事をつらいとは別に感じなかった。


 つらいのは、単純に、年中、腹が空いていることだけである。


 だから、時たま、仕事でかかわった大人から、何か食べ物をもらえた日は、幸せだった。


 子供が喜ぶ顔を見るのが好きなのか、街の女の一人に、少年と会うと必ず、「内緒だよ」と、薄い紙に包んだ飴や焼き菓子を、こっそりとくれる人がいた。


 少年は、飴よりも、腹が膨れる焼き菓子のほうが好みだったが、それ以上に、優しい人だな、と、その人のことが好きだった。


 きっと、その人は、自分以外の誰に対しても優しい人なのだろうと、少年は、漠然と思っていた。


 多分、どこかでおさがりを受けた飴や焼き菓子を、少年のような境遇の子供たちに、わけているのだ。


 その証拠に、その人が、少年に渡す飴には、一度溶けて再び固まったような跡があったし、焼き菓子は、いつも、やや、しけっていた。


 飴や焼き菓子が古く感じられる理由は、その人が、いつ、少年と出会うことがあってもお菓子を渡せるようにと、いつも肌身離さず、紙の包みを持っていたためなのだと、少年が思い至るのは、ずっと後になってからのことである。


 ある日、少年は、自分を育ててくれている花街の仕組みの元女ばばあの一人から、一軒のお店の手伝いに行くようにと、指示を受けた。


 まだ、少年の将来の役割は決まっていない。


 少年は、大抵の裏方の仕事は、そつなくこなせたし、荒事担当の剣の真似事の訓練にもついていけた。


 見目麗しい顔立ちをしていたので、男娼だんしょうの線もある。


 いずれにしても、そろそろ、進路が決まる時期だ。


 行った先で、何らかの役割が与えられるのだろうと、少年は考えていた。


 お店に着くや、少年は、奥の部屋に通された。


 店の女たちが生活をしている、内輪の空間だ。


 いつも少年にお菓子をくれる、あの人が、ベッドに寝ていた。


 傍に、その人の身の回りの世話を担当しているのであろう、少女がついていた。


 その人は、少年が部屋に入って来たのを見ると嬉しそうに笑い、少女に手伝ってもらいながら、ベッドに身を起こした。


 その人は、ひどくやせ細って、ただ、身を起こすのもつらそうな様子だった。


 少年に対して、無理して微笑む笑顔すら、痛々しい。


 多分、その人は、何か、もう治らない病気なのだと、少年は理解した。


 そういえば、少年は、ここしばらく、その人と出会えていなかった。


 その人は、少女に身振りで指示を出すと、ベッド脇の机の引き出しから、小さな紙の包みを取り出させて、少女から受け取った。


 その人は、少年を近くに招き寄せると、「ちゃんと食べてる?」と、少年に紙包みを握らせた。


 少年の手を押し抱くようにした、その人の手は、ひどく痩せていて、ほとんど力も入っていなかった。


 ツー、と、その人の頬を、涙が滴り落ちた。


「あらあら、変ね」と、その人は、無理して微笑んだ。


 もう、その頃には、少年は、自分がこの場所へ呼ばれた理由が分かっていた。


 最後のお別れだ。


 では、なぜ、その役目が少年に来たかという理由も思い当たる。


 その人は、少年と同じで、とても特徴的な髪の色を持っていた。


 白金プラチナ色だ。


「ありがとうございます」


 いつも、その人から紙包みを受け取った時と同じように、少年は、その人に、お礼を言った。


 つい、いつもと違う言葉が継いで出た。


「かあさん」


 その人は、びっくりしたように、目を大きく真ん丸にした。


 ああ、ああ、ああ、と、その人は、甲高く声を上げた。


 ぼろぼろと涙を零しながら、その人は、少年を抱き寄せた。


「私のシャイン」


 その人は、少年の耳元で、そう囁いた。


 少年は、花街の仕組みがつけた以外の名前で、自分を認識している人がいるのだと、始めて知った。


 しばらくして、落ち着いたその人をベッドに寝かしつけてから、少年は、店を出た。


 それきりだ。


 少年は、二度と、その人とは会えなかった。


 いつから引き出しに仕舞われたままであったのか、最後にもらった紙包みの中の焼き菓子には、ひどく黴が生えていた。


 いつも腹をすかしていた少年だったが、初めて食べずに、包みを捨てた。


 何日かして、いつかの元女ばばあから、その人が亡くなったという話を、少年は知らされた。


 その人が、本当に、少年の母親だったのかはわからない。


 誰も少年に教えてはくれなかったし、少年も誰にも確認はしなかった。


 もしかしたら、その人と少年の髪の色が同じという理由で、その人が、勝手に少年を自分の子供だと思い込んでいただけかも知れない。


 いずれにしても、真実を確認する勇気も、つもり・・・も、少年にはなかった。


 真実よりも、お互いがそう信じたという事実を、大切にしたかった。


 このまま、少年が、花街で暮らし続けていたならば、いつか誰かが、少年に真実を語る機会があるかもしれない。


 何かの拍子で、真実を耳にしてしまう可能性も、ゼロではなかった。


 少年は、そんなのは、嫌だと思った。


 違う可能性のある真実を知るよりも、事実を事実のままにしておきたかった。


 その日、少年は、花街を抜けて、街も出た。


 特に、追手はかからなかった。


 無駄な費用の節約に努めている花街には、そんな余裕はない。


 仮に捕まえて、少年を花街に戻したところで、同じ行為が繰り返されるだけだと想像がつく。この先、少年が熱心な働き手になるとは思えない。


 だからといって、見せしめに、少年を痛めつけたところで、意味はなかった。


 それに、どうせ、少年は、どこかで野垂れ死ぬだけだろうという判断を、花街はした。


 街を出た少年は、以来、シャインと名乗っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る