第75話 紙包み
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物心がついた時、少年は、花街で暮らしていた。
それ以外の場所での暮らしは知らないし、疑問もなかった。
少年は、花街の安い女の腹から産まれた。
小さな町や村ならば、花街ではなく、特定のお店が一軒、二軒しかないところだが、そこそこ大きい街ではあったので、花街と呼ばれるだけの数のお店が、集まっていた。
そのため、職業的な理由から、どうしても生まれてしまう、少年と同じような生い立ちの赤子を、産後すぐに産みの親から引き離して集め、花街共有の財産として育てる、特有の仕組みが整っていた。
自分の赤子と一緒に暮らしてしまうと、大抵の女は、赤子に情がうつる。
途端に、女ではなく、母親という別の生き物に変じてしまった。
けれども、花街を訪れる客の望みは、女なのだ。
母親ではない。
だから、商品の価値を落とさないために、お店は、店の女たちが、客である男の種を宿してしまわないよう、強く気をつけていた。
それでも、薬で処置を施しても、完全ではない。
花街全体では何百人もいるお店の女たちには、いつだって、腹に赤子を宿している者が存在した。
腹が膨れていては表の仕事は任せられないので裏方の仕事をさせ、赤子が生まれると同時に、赤子を母親である女から引き離して、母親を、女として元の職場に戻す。
仕組みは、出産の際、赤子を母親に見せもしないし、もちろん抱かせないほど徹底していた。
母親は、強く息を吸い、泣きじゃくる赤子の声が自分から離れていくのを、ただ、聞かされるだけである。
だから、少年には、もちろん母親に抱かれた経験はないし、そもそも母親の顔を知らなかった。父親については、言わずもがなだ。
集められた赤子は、表の仕事を引退した
性別が女である場合は、将来のお店の商品予備軍として。
男である場合は、育てて能力を見極めた後に、それぞれの適正と能力に見合った役割に応じて振り分けられた。
お店に通えることがステータスとなるような高級なお店はさておき、大抵のお店の客は、なけなしの稼ぎで一夜の夢を求める男たちである。
料金を高く設定してしまっては、手が出せなくなる。
お店は、料金を下げるために、表には見えない、あらゆる部分の節約に努めていた。
男女を問わず、従業員の賄いの食費もしかり。
だから、少年は、いつだって腹を減らしていた。
それでも、ひもじい思いができているだけマシである。
共同養育の仕組みがない、街に一軒、二軒しかないようなお店では、大抵は、生れ落ちることすら叶わなかったし、生れ落ちても、何も与えないままにされるのが常だった。
少年は、花街のどこかに、自分の母親がいるはずだという知識は持っていたが、そもそも人生で母親と関わった経験はなかったので、いなくて寂しいとも、必要だとも、会いたいとも感じはしなかった。
周りの子供たち全員が、そこは同じだ。
花街の仕組みは、子供たちがそのような思いを抱かないように配慮していたし、そのようなことを考えているほど、子供たちの生活も暇ではなかった。
年齢なりに、毎日、働ける限界まで働かされた。
だが、毎日がそうであることが、最初から当たり前であったので、少年は、仕事をつらいとは別に感じなかった。
つらいのは、単純に、年中、腹が空いていることだけである。
だから、時たま、仕事でかかわった大人から、何か食べ物をもらえた日は、幸せだった。
子供が喜ぶ顔を見るのが好きなのか、街の女の一人に、少年と会うと必ず、「内緒だよ」と、薄い紙に包んだ飴や焼き菓子を、こっそりとくれる人がいた。
少年は、飴よりも、腹が膨れる焼き菓子のほうが好みだったが、それ以上に、優しい人だな、と、その人のことが好きだった。
きっと、その人は、自分以外の誰に対しても優しい人なのだろうと、少年は、漠然と思っていた。
多分、どこかでおさがりを受けた飴や焼き菓子を、少年のような境遇の子供たちに、わけているのだ。
その証拠に、その人が、少年に渡す飴には、一度溶けて再び固まったような跡があったし、焼き菓子は、いつも、やや、しけっていた。
飴や焼き菓子が古く感じられる理由は、その人が、いつ、少年と出会うことがあってもお菓子を渡せるようにと、いつも肌身離さず、紙の包みを持っていたためなのだと、少年が思い至るのは、ずっと後になってからのことである。
ある日、少年は、自分を育ててくれている花街の仕組みの
まだ、少年の将来の役割は決まっていない。
少年は、大抵の裏方の仕事は、そつなくこなせたし、荒事担当の剣の真似事の訓練にもついていけた。
見目麗しい顔立ちをしていたので、
いずれにしても、そろそろ、進路が決まる時期だ。
行った先で、何らかの役割が与えられるのだろうと、少年は考えていた。
お店に着くや、少年は、奥の部屋に通された。
店の女たちが生活をしている、内輪の空間だ。
いつも少年にお菓子をくれる、あの人が、ベッドに寝ていた。
傍に、その人の身の回りの世話を担当しているのであろう、少女がついていた。
その人は、少年が部屋に入って来たのを見ると嬉しそうに笑い、少女に手伝ってもらいながら、ベッドに身を起こした。
その人は、ひどくやせ細って、ただ、身を起こすのもつらそうな様子だった。
少年に対して、無理して微笑む笑顔すら、痛々しい。
多分、その人は、何か、もう治らない病気なのだと、少年は理解した。
そういえば、少年は、ここしばらく、その人と出会えていなかった。
その人は、少女に身振りで指示を出すと、ベッド脇の机の引き出しから、小さな紙の包みを取り出させて、少女から受け取った。
その人は、少年を近くに招き寄せると、「ちゃんと食べてる?」と、少年に紙包みを握らせた。
少年の手を押し抱くようにした、その人の手は、ひどく痩せていて、ほとんど力も入っていなかった。
ツー、と、その人の頬を、涙が滴り落ちた。
「あらあら、変ね」と、その人は、無理して微笑んだ。
もう、その頃には、少年は、自分がこの場所へ呼ばれた理由が分かっていた。
最後のお別れだ。
では、なぜ、その役目が少年に来たかという理由も思い当たる。
その人は、少年と同じで、とても特徴的な髪の色を持っていた。
「ありがとうございます」
いつも、その人から紙包みを受け取った時と同じように、少年は、その人に、お礼を言った。
つい、いつもと違う言葉が継いで出た。
「かあさん」
その人は、びっくりしたように、目を大きく真ん丸にした。
ああ、ああ、ああ、と、その人は、甲高く声を上げた。
ぼろぼろと涙を零しながら、その人は、少年を抱き寄せた。
「私のシャイン」
その人は、少年の耳元で、そう囁いた。
少年は、花街の仕組みがつけた以外の名前で、自分を認識している人がいるのだと、始めて知った。
しばらくして、落ち着いたその人をベッドに寝かしつけてから、少年は、店を出た。
それきりだ。
少年は、二度と、その人とは会えなかった。
いつから引き出しに仕舞われたままであったのか、最後にもらった紙包みの中の焼き菓子には、ひどく黴が生えていた。
いつも腹をすかしていた少年だったが、初めて食べずに、包みを捨てた。
何日かして、いつかの
その人が、本当に、少年の母親だったのかはわからない。
誰も少年に教えてはくれなかったし、少年も誰にも確認はしなかった。
もしかしたら、その人と少年の髪の色が同じという理由で、その人が、勝手に少年を自分の子供だと思い込んでいただけかも知れない。
いずれにしても、真実を確認する勇気も、
真実よりも、お互いがそう信じたという事実を、大切にしたかった。
このまま、少年が、花街で暮らし続けていたならば、いつか誰かが、少年に真実を語る機会があるかもしれない。
何かの拍子で、真実を耳にしてしまう可能性も、ゼロではなかった。
少年は、そんなのは、嫌だと思った。
違う可能性のある真実を知るよりも、事実を事実のままにしておきたかった。
その日、少年は、花街を抜けて、街も出た。
特に、追手はかからなかった。
無駄な費用の節約に努めている花街には、そんな余裕はない。
仮に捕まえて、少年を花街に戻したところで、同じ行為が繰り返されるだけだと想像がつく。この先、少年が熱心な働き手になるとは思えない。
だからといって、見せしめに、少年を痛めつけたところで、意味はなかった。
それに、どうせ、少年は、どこかで野垂れ死ぬだけだろうという判断を、花街はした。
街を出た少年は、以来、シャインと名乗っている。
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