第2章 天才少女のおもり

第8話 なんにもしない天才少女

 一条さんが荷物を片付けている間、僕は夕飯の準備をした。

 といっても、凝ったことはしていない。豚の生姜焼きに、茄子の煮浸し、味噌汁と冷や奴ぐらいだ。冷や奴はパックから出しただけだし。


「うわぁっ、おいしそう」

「お口に合うかわかんないけど」

「作ってもらっておいて、文句は言いません」


 かっこいいことを言った一条さんですが。

 1分後。箸すら持とうとせず。


「詩音ちゃん、あーんしてよぉ」


 斜め上の要求をしてきた。


「なんでしょうか?」

「詩音ちゃん、あーんも知らないの?」

「あーんぐらいは知ってるよ」


 僕はそこそこのオタクなので、漫画やラノベは読む。ラブコメ作品で、あーんは何度も見ている。

 僕にとって、あーんはラブコメの世界にしかない架空の行為。


 だからこそ、一条さんの発言を脳が受け止め切れていない。


「詩音ちゃんの料理、めちゃくちゃ、おいしそう」


 褒められ慣れていないので、恥ずかしくなった。


「ところで、一条さんは料理も得意なの?」

「……ありさの手料理を三つ星レストランのシェフが食べたことがあったの。そしたら、シェフが自信をなくして、引退しちゃったのよね。はぁ〜」


 才能は暴力にも等しい。

 一条さんの悲しそうな顔を見ると、天才もつらそうだ。


「詩音ちゃん、ありさを慰めてよぉ」

「わかった」

「じゃあ、あーんして」


 勢いで、豚肉をつまんだものの、すぐに我に返った。


「あーんは待ってください」

「ありさ、ひとりじゃ食べられないダメな子なのぉ。もう、おなかすいちゃったんだよぉ。詩音ちゃんが食べさせてくれないと、飢えちゃう……くぅぅ」


 最後のはおなかの音だ。空腹なのは本当らしい。


「一条さんのダメな子は演技なんだし」

「ありさたちの契約を忘れちゃったの?」

「まさか、もう始まってるの?」

「イエス、33分45秒前、地球が2兆33億9000万500回まわったときから」


 天才が小学生みたいな返しをしてきた。おまけに、無駄に細かい。


「わかった。約束だもんな」


 やる覚悟は決めたけれど、ふと疑問に思った。


「けど、一条さんのメリットは?」

「ありさ。人に甘えるのに憧れてたんだよねぇ。子どもの頃から天才扱いされてて、親にも甘えられなかったから」

「そ、そうなんだ」

「だから、詩音ちゃんに甘えたいの。他の人には絶対にできないし」

「それなら遠慮なく」


 僕は体を乗り出して、一条さんの箸をつかむ。豚肉を摘まんで、一条さんの口に持っていく。


「はい、あーん」

「えへっ、えへへへへ❤」


 子どもみたいに満面の笑みを浮かべている。

 あまりに純粋すぎて、もっと早くしておけばよかったと後悔した。


「生姜がきいていて、おいしい」

「料理は適当なんだけどな」

「適当なわりに、普通においしいよ」


『普通においしい』は僕にとっては、立派な褒め言葉だ。

 今度は茄子をあーんする。


「……もぐもぐ。やばっ! 幸せすぎるよぉ」


 一条さんの頬がとろけそうで、見ている僕も気分が良くなった。


 そういえば、誰かに料理を作ったのは初めてだった。母がいた頃は母がやっていたし、おじいさんと食事するときは外食だ。

 誰かのために料理をするのも悪くない。


「今度は、ご飯はどう?」

「さすが、わかってる」


 一条さんにご飯を食べさせると、黄色い瞳が輝いた。


「やっぱり、お米しか勝たん。詩音ちゃんのお米、おいしくて涙が出そう」

「僕は米を炊いただけだよ。すごいのは農家さんです。あと、炊飯器の力も」

「詩音ちゃん、なにを言ってるの?」


 一条さんは小首をかしげる。


「農家さんを初めとした関係者の努力は尊敬に値するよ。でもね、実際にお米を食べられる形にしたのは、詩音ちゃんなの。詩音ちゃんがいなかったら、お米は食べられなかった。お米を研ぐのも立派な仕事なんだからぁ」


 彼女は熱弁を振るった。


「それに、本物のメシマズヒロインはお米を炊いただけで、爆弾を作っちゃうんだよぉ。詩音ちゃんは勝ってるんだからね」


 2次元のメシマズヒロインと比較するのもどうかと思うが、揚げ足を取っても意味がない。


「そうだね。お米を研いだ自分を褒めてみるよ」

「よしよし、詩音ちゃん、すごいすごい」


 頭を撫でられてしまった。僕が一条さんを甘やかす役割じゃなかった?


 結局、一条さんは自分で箸を動かすことはなかった。


 僕は自分の食事をしながら、一条さんも食べさせる。食事も軽い労働だった。

 ラブコメ漫画で想像していたものとちがっていたけれど、あーんも悪くない。


 食後。僕がお茶を入れると、一条さんは自分でお茶を飲んだ。


「詩音ちゃん、お茶もおいしい」

「ありがとう」


 茶葉の力だとは言わなかった。謙遜したところで、一条さんは僕の成果を強調するだろうから。


「一条さんはお茶も?」

「いちおう、茶道やってた。師範の資格を持ってる」


 聞くまでもなかった。


「じゃあ、僕はお風呂の準備をしてくる」


 風呂場に行き、給湯器のボタンを押す。


 湧くのを待っている間に、一条さんの寝床を作ろうか。

 空き部屋があるし、布団を敷けば、とりあえず今日は寝られる。必要なものは明日にでも買いに行けばいい。


 布団の用意をして、リビングに戻った。


 すると。


 一条さんはスポーツバッグを漁っていて。

 三角形の布を握っていた。ピンクだ。ひらひらのリボンがかわいい。


 慌てて視線をそらす。


 テーブルを見たのだが。

 食卓には、胸部を包む布が置かれていました。こっちもピンクだ。


「す、すいません。わざとじゃないんです」


 回れ右してリビングから逃げようとするも。


「気にしなくていいよ」


 意外な言葉で足が止まった。


「だって、お風呂も一緒に入るんだもん。着替えの下着もどうせ見るんだし」

「えっ?」


 僕のつぶやきが消えるや。


「お風呂が沸きました」の音とともに、ピアノ曲のメロディが鳴った。


「だって、ありさ、ひとりでお風呂に入れないし」


 夢を見ているのだろうか?

 演技とはいえ、ここまで、なにもできなくなってしまうとは。

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