第32話

 十二月二十四日。午後十一時三十分。家族連れやカップルで溢れる地元の遊園地で、僕は雪の降る空を仰いだ。二人との約束の時間は目の前にまで迫っていた。


 昼間は桜花と存分に遊んだが、その後に一旦別れた。顔が見える方に僕の情が揺さぶられるかもしれないので、誰かわからないまま公平に決めてもらえるように狐の仮面を被って現れるらしい。


 吐息は白く色づいて、やがて闇の黒へと染まっていく。人の熱気が充満しているせいか、あまり寒さは感じなかった。


「はぁ……」


 ついに来てしまった、このときが。呆然と降りしきる雪を眺めながらそんなことを考えた。どこへ顔を向けても幸せそうな家族やカップルばかりで、落ち込んでいる人など一人としていない。真っ白な紙に付いた黒い点のように、ため息をついている僕は異端な存在だった。


 麻奈か桜花はまだ現れない。最近はいつも考え事に耽っていたせいで、今は時間の流れが遅く感じる。僕は誰を選ぶべきなのか、ここ二日の麻奈と桜花とのデートである程度の結論を出していた。しかしそれでいいのかと問い詰めてくる自分がいるのもまた事実で、完全に振り切ることはできていなかった。


 余裕があるうちに考えを整理しよう。そう考えた矢先に彼女は現れる。


 茶色の革のコートに白い狐面を被った女性。誰なのかはわからないが、僕が待ちわびている人であることは確かだった。


 彼女は真っ白の雪に足跡を残して僕の傍に歩み寄る。


「……」


「喋らないの?」


「……」


「喋ったら誰だかわかるから?」


 彼女は無言で頷いた。どうやら身元隠しを徹底しているようだ。意地でも僕に招待を明かさないつもりらしい。


 彼女の吐く真っ白な息が仮面の下から漏れ出している。耳をそばだてて呼吸音に耳を傾けてみるものの、誰だかわからなかった。


 どうしても正体を明かさない彼女。仮面を剥ぐしか中身を知る方法は無かった。


 僕は尋問することを諦めて、二人と事前に練っていたプランを確認する。


「今から観覧車に乗って、零時丁度に言うんだったよね」


 彼女はこくりと首を縦に振った。合っているということだろう。


「それじゃ、行こうか」


 細くて白い指先にそっと触れる。雪に奪われていた手の温度が彼女の指に触れて息を吹き返す。ぎゅっと握りしめても文句の一つ漏れることはなかった。


 人混みを掻き分けて僕たちは観覧車を目指す。都会の遊園地ほど立派な観覧車ではないが、車輪にクリスマスの装飾が施されていたり、ゴンドラが光っていたりととても目立っていた。


 入口に立っていた男性が僕たちを見て声を掛ける。


「お二人ですか」


「はい」


 出来るだけ自然体で答えた。男性は狐面を被った彼女を見て怪訝そうに目を細めたが、それ以上追及してくることはなかった。手慣れた作業でドアを開けて僕たちをゴンドラの中へと導いてくれる。


「いってらっしゃい」


 男性は機械的な笑顔で僕たちを見送った。


 ゴンドラの中にも小さな暖房があるらしく、外の空気ほど冷えてはいなかった。窓ガラスの外にある町の明かりがどんどん遠のいて、建物から漏れる光が小さな粒のように見える。右手で掴めそうなほど世界が小さく見えた。


 視線を動かして狐面の彼女を見つめる。彼女も窓の外を眺めているだけで、僕に向かって何のアプローチも示してこなかった。ただぎゅっと握られた両手が彼女の気持ちを代弁しているようだった。


 スマホを取り出して時計を見る。時刻は十一時五十八分。


 もうすぐ覚悟を決めなければならない。


 あまりにも重い唇をゆっくりと動かして、できるだけ冷静に話しかける。


「そろそろだね」


「……」


 彼女が無言で頷く。狐面の奥には薄暗い闇が広がるだけで、彼女がどんな表情をしているのか読み取れない。


 頭の中で練習してきたセリフを何度も頭の中で繰り返す。口には出さずにひたすら頭の中で繰り返す。いくら予行演習しても口に出すことは躊躇われた。


 スマホを取り出して時計を見る。時刻は十一時五十九分。


 もう逃げることはできない。


「僕は決めたんだ」


 彼女の拳が小さく震えた。怖がっているのか、それとも緊張しているのか。まだ他人を観察する余裕のある自分にちょっと笑いそうになる。


「僕は……」


「……」




「麻奈を選ぶ」




 口に出した瞬間に後悔が押し寄せた。自分は間違った。大事な選択を間違ってしまったのだ、と。根拠のない後悔の濁流が僕を飲み込んでバラバラにしようとする。唇を強く噛む。皮膚に突き刺さった歯が痛かった。


「ふふっ」


 負の感情に埋め立てられそうになっていた僕に降りかかったのは、屈託のない楽しそうな笑い声だった。


 僕はゆっくりと視線を上げる。彼女の仮面がそっと外される。


「お願いを聞いてくれてありがと。結人」


「桜花……」


 仮面を外した桜花。純真な笑顔がイルミネーションに照らされて七色に彩られた。この世のものとは思えないほど美しく、色鮮やかに。


 僕の心から訴えかけるのは後悔の言葉ばかり。


「ごめん……ごめん……」


「結人は何も悪くない、一度死んだ私が存在するのがおかしなことだもの。麻奈を選んだのは正しい選択だったよ」


「……」


「私がいなくても、結人は生きていける。ううん、幸せになれる」


 証拠も証明も無い主張だった。けれど胸に強く響いて。


「僕にできるかな」


「彼女が言ってるんだから間違いないでしょ。最後ぐらい信じてよ」


「……わかった。信じる」


 上手く笑えていただろうか。


「零時を過ぎたし、そろそろ時間だね」


 桜花が笑う。僕も頷く。


「うん」


「またいつか会おうね」


「約束する」


 桜花は両手を差し出してくる。僕は華奢な体に腕を回し、手放すことのないように力強く抱きしめた。生命の熱が肌を通して伝わってくる。麻奈の身体であっても、間違いなく桜花の暖かさだった。何度離れても忘れることのない温度で、思い出からも色褪せない温かさで。


 手を放してしまえばそれが最後の瞬間になりそうで、僕はずっと抱きしめる。桜花も僕の頭を優しく撫でてくれた。


「じゃあね」


「……うん」


 一瞬、桜花の身体が糸の切れた人形のように脱力した。重力に従って崩れそうになるその身体を倒れないように支える。


「桜花⁉」


 肩を揺さぶったり手を握って意識を確かめているうちに、桜花の身体が息を吹き返した。


 ……けれど、その目は桜花のものではなかった。


 彼女はにっこりと笑った。


「桜花は、旅立ちました」


 麻奈の声は澄み切っていて、この世の極致にたどり着いた人間のようだった。全身から力が抜けていく。桜花がいる間はずっと我慢していた涙が静かに頬と伝う。


 麻奈は僕の両頬を挟んで自分の胸元に抱き寄せる。


「今日ぐらい、泣いてもいいんじゃないですか」


「……」


 何も言えなかった。悲しみを言葉にしようとすればするほど涙が溢れてきて、自然と喉を詰まらせる。どうやって声を出すのか忘れてしまったみたいだった。


 麻奈は僕の頭をそっと撫でる。


「観覧車が降りる前にスッキリしましょうよ。今日のことは誰にも言いません。私と結人さんだけの秘密です。約束します」


「……本当ですか」


「本当です」


 心の堰は一度切ってしまえば二度と元に戻らない。何から泣けばいいのだろう、何から悲しめばいいのだろう。自分でもよくわからない。


 ただ、桜花がいないことがとてつもなく悲しい。


 それだけはわかった。


 僕は泣き続ける。最愛の彼女の名前を口にしながら。桜花と過ごした数年の月日が光のように蘇る。顔も声も表情も、何一つとして忘れていない。


「結人さんは頑張りました」


「……」


「いつかきっと、また会えます」


 震えて泣いてばかりの僕の頭を、麻奈はそっと撫でていた。


 雪が降りしきる冬の夜。僕たちは桜花に別れを告げたのだった。

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