第31話
僕と桜花は気まずい空気の中で置いてけぼりにされる。今の話についてもっと触れたい。しかし禁忌であるような気もしてならない。そっと横目に桜花を見ると、恥ずかしそうに肩を震わせて俯いていた。
桜花の表情を見て好奇心が芽生える。抑圧した気持ちは吹き出すと止まらない。
「いつから僕が好きだったの?」
後ろ髪を引かれながらも人生最大の疑問を口にしていた。
桜花に思いきり足を踏みつけられる。素足でもかかとでやられると思いのほか痛かった。
「ゲーセンで会う一年前」
ぶっきらぼうに桜花は答えた。僕は「一年前?」と反射的に訊き返していた。
「学校では目立たないクラスメイトぐらいにしか思ってなかったけど、偶然立ち寄ったゲーセンだとやたら生き生きしてるのを見て、どんな人なんだろうって興味が湧いたの。それだけよ」
「ほんとにそれだけ?」
「他に何もないのは結人も知ってるでしょ? 元々私たちに接点なんて無かったんだから」
桜花の口から語られたのは意外とあっさりした恋の始まりだった。
中学の僕は、友達はおろか話し相手すらいないような人間だった。放課後はゲームセンターで入り浸っていたのだが、それを桜花に見られていたとは知らなかった。どうして僕に話しかけてきたのだろうと今まで疑問に思っていたが、桜花の単純な答えにすっきりした。
とたんに顔から火を噴きそうなほど恥ずかしさがこみあげてくる。ゲーセンではしゃいでいる姿を見られた羞恥心からか、それとも桜花に気にかけてもらっていたことが嬉しいのか、自分でもわからなかった。
「でも、まさか死んでからも付き合いが続くなんてね」
綺麗な歯を輝かせて桜花が笑う。僕も恥ずかしさの上から喜びを上塗りする。
「僕は桜花と付き合えて嬉しかった」
「私も」
「僕の方が嬉しかった」
「私の方が嬉しかった」
どちらが幸せか、なんて競い合うのも不毛なことだったけれど、この時間は楽しくて愛おしくて仕方なかった。永遠に続いて欲しいぐらいと心の底から願った。時間は止まることを知らない。僕たちを置き去りすることなく時間は進んでいく。
窓の向こうでは、陽が西に傾いていた。僕が決断を下すまであと十二時間を切っていることを暗に示していた。
「そろそろ出ようか」
「……そうね。もう昔を振り返ってもどうしようもないし、さっさと出よっか」
「忘れ物とかない?」
「手ぶらで来たから平気」
指を伸ばして手を振って、一足先に桜花が階段を降りていく。やがて桜花の足音が聞こえなくなった。廊下に一歩踏み出したところで、僕はもう一度桜花の部屋を振り返る。
桜花と付き合ってから幾度となくやってきた部屋。今日で最後だと思うと情が湧き上がってくる。まるで自分の部屋だったような懐かしさを覚えるほど、僕はこの部屋に親しみを感じていた。
「さよなら」
二度と戻らない意志を込めた訣別の言葉を送った。
「もう帰っちゃうのか」
「さっきも言いましたけど、どうしても抜けられない用事があるんです」
「そっかぁ……」
大輔さんは肩を落として呟いた。
桜花のことを引き合いに出してこないあたり、本当に優しい人だと思う。彼女という唯一の糸が切れてしまったことで、この人との縁が切れてしまうのはなんとも惜しいことだった。けれど僕から会いに行くことは二度とないだろう。
「もしよければ、数年に一度でも墓参りに行ってくれると嬉しいな」
「行きます」
「でも、彼女さんが嫌がらないかい?」
大輔さんが眉を顰めて麻奈に宿った桜花に視線を向ける。桜花はしめやかな笑みを浮かべて首を横に振った。
「彼女さんを亡くされたんですから、それくらいは当然です。やきもちなんて焼きませんよ」
「ありがとう。優しいんだね」
「いえ」
他人として実の父に褒められた心境は如何なるものか。第三者の僕には想像できなかったけれど、頬を緩めてはにかんでいるあたり嬉しさを隠せていなかった。大輔さんはそんな桜花の行動を気にも留めず、改めて僕に水を向ける。
「結人くんに言ってもあれだけど、来月に桜花の妹が生まれるんだ」
桜花の小さな肩が跳ねた。あえてそれには触れずに話を進める。
「おめでとうございます」
「ありがとう。もしよかったら赤ちゃんを見に来てくれるかい」
「僕がですか?」
今日限りで縁切りすると決め込んでいたので少し驚きだった。空いた口が塞がらず、間抜けな表情を大輔さんに晒してしまう。もしここに鏡があったなら叩き割りたくなるほど情けないに違いない。
大輔さんは大きく頷いて頬を柔らかくする。
「もしよければ、結人くんが名前を付けてくれないかい」
「え⁉」
またしても唐突な提案に気が動転してしまった。
「本当は桜花に付けてもらいたかったんだけど、もう娘とは会えない。だから、せめてあの子が選んだ結人くんに名前を付けてもらいたいんだよ」
「僕に命名のセンスなんて微塵もないですよ」
「センスなんて気にしなくていい。一生自慢できるような名前を付けてくれると嬉しいな」
「……考えておきます」
一介の大学生には重すぎる頼み事だったが、大輔さんの期待に満ちた表情を前に断ることなどできるはずもなかった。凍り付いた人形のように首肯する僕を見て、隣にいた桜花がそっと溜息を吐く。
「また生まれたら連絡するから、そのときは……」
「行きます」
「ありがとう」
まるで僕が実の息子になったみたいだった。赤ちゃんにどんな名前を付けようか、と考えていると、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じる。新しい命の誕生に立ち会えるのは無条件で嬉しいことだった。
しかし、今の僕たちが必要としているのは別れだ。桜花と麻奈、赤ちゃんの誕生に立ち会う前に、どちらかと別れなければならない。
「結人、顔が暗い」
桜花が脇腹を小突いてきた。気持ちが外に漏れていたらしく、表情に出てきていてしまったらしい。突貫工事で笑顔を作って顔を上げる。視界に映った大輔さんは不思議そうに僕を見つめていた。
「そんなに思いつめなくてもいいんだよ。嫌だったら断ってくれてもいいんだ」
「違います。ちょっと他のことを考えてたんです」
「そうか」
大輔さんはそう呟いた。冬の乾いた空気に響く声だった。
「今日はありがとうございました。また赤ちゃんが生まれたらお伺いします」
「楽しみにしてるよ。別にいつでも来てくれていいんだからね」
「また機会があれば」
僕と桜花は大輔さんに背を向けて、宮瀬家の玄関をくぐった。暖房の効いた部屋から冷たい空気に満たされた屋外へと出ると、幾千もの冷気が肌を突き刺してくる。話の流れが読めない世界は僕たちを歓迎してくれていないようだった。
ドアが閉まるその瞬間、桜花は右手を挟み込む。
「お父さん」
「どうしたのかな?」
桜花の呼びかけに大輔さんは振り返る。僕の新しい彼女に何を言われるのか分からないと言った風に。
「赤ちゃんが楽しみだからって、お母さんのお腹を触り過ぎると怒られるんだからね」
僕は知らない桜花。けれど宮瀬家での一大イベントだった桜花が生まれたときの話。
何も分からない大輔さんは意味不明な桜花の呟きに呆然とする。意味が分からないと言った風に首を捻りかける。
しかし言葉が飲み込めてくるにつれ、麻奈の身体に宿っているのは誰なのか悟ったらしい。
頬に幾筋もの涙が伝う。再会を喜ぶような、永遠の別れを悲しむような。
震える手を必死に伸ばす。けれど桜花には届かない。
「桜花……」
「お父さん、行ってきます」
クリスマスの日に死んでしまい、伝えることのできなかった別れの言葉だった。ありうべからざる偶然によって成り立った奇跡に大輔さんは感極まっていた。
その小さな掴まえようとして、けれど諦めたように手を戻した。
代わりに手を挙げて娘の別れに応える。
「いってらっしゃい、桜花」
「お母さんにもよろしくって伝えといて」
「わかってる。言っておくよ」
「それじゃ」
「うん」
桜花の咲かせた大輪の笑顔は、どんな笑顔よりも美しかった。
「ねえ」
住宅地を歩いていると、隣にいた桜花が声を掛けてくる。
「なに?」
「私、もうやること全部やったから」
「やること?」
「そう」
まとわりついていたものを吹っ切ることができたような、清々しい表情だった。遥か昔、俗世の執着を断ち切った隠者もこんな顔だったのだろうか。そんなことを思った。
余計なものを一切そぎ落とした気楽な笑みが僕へと向けられる。
「結人と遊んで、お父さんにもお別れした。お母さんにも会いたかったけど、赤ちゃんのために諦める。ちょっとの間だけど大学にも通えたし、私は大満足」
嬉々として話されると、僕の気分まで上がってきてしまう。
「それは良かった」
桜花は笑った。どこか楽しそうで、どこか儚げに。
「だからさ、私の一生を結人が終わらせて。それが最後の願い」
わかった。そう言えたらどれだけ楽だっただろう。
できない。そう言えたらどれだけ楽だっただろう。
僕は何も言えなかった。桜花の言うとおりにしたい。でもしたくない。相対立する二つの感情が心の中で衝突する。僕の小さななんで簡単に破れてしまいそうなほどの衝撃が体内で増幅して共振する。
唇をぐっと噛んで堪える。生暖かい鉄の味が口いっぱいに広がった。
痛みに耐えるような僕の表情を察した桜花は雪のように白い歯を見せて励ましてくる。
「決めるのは今日の零時だから、それまでは忘れていればいいんだよ。まだ十時間は残ってるんだから、思いっきり遊ぼうよ」
「……うん」
「ほら、そんな顔しないの。今日はまだ終わってないんだから」
桜花は僕の手を握って歩き出した。しかしその足はすぐに止まる。
振り返って細い首を傾げた。
「こんな辺鄙な地元に面白いところなんてあったっけ?」
「地元をけなすな」
「そんなこと言って、結人もなかなか帰ってないくせに」
「うっ……」
痛いところを突かれてたたらを踏んでしまった。何も答えずに黙ってみる。
「結人ったらおかしい」
触発されたように桜花が笑い出した。
「桜花もおかしいって」
何がおかしいのか自分でもわからないけど、とりあえず言ってみた。
「ふふっ」
口に手を当てて上品に笑う桜花に、僕のつられて笑ってしまう。僕たちの周りだけ冬の冷気が吹き飛んで、春の心地よさが満ちていた。
「とにかくどこかに行こう!」
「……そうだね」
桜花は勇み足で前へと進んでいく。僕も彼女の背中を追いかけた。
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