第29話
二十三日まではあと一週間程度あった。その間にも大学の講義は無情にも進んでいくし、時の流れがゆっくりになるなんて都合の良いことが起きるはずもなかった。
スクリーンいっぱいに映し出されてヒストグラムや棒グラフを眺めていると、尖ったシャープペンシルの先で肩をつつかれる。
「宮瀬さんのあれ、結局どうなったんだ?」
「僕が麻奈さんか桜花さんか、どっちかを選ぶことになった」
「なんだそりゃ」
ノートにグラフを描きながら返事をすると、陽介は間抜けな声を上げた。どうやらその声は教授にも聞こえていたらしく、大きな咳払いの音と共に「すみません」と力なく縮こまる陽介が横目に映った。
教授に怒られたぐらいでめげない陽介は性懲りもなく話しかけてくる。けれど声は控えめだった。
「どっちかを選ぶって、どういう意味だ?」
「麻奈さんの身体に二人の意識は共存できないんだ」
「それは聞いた。それで?」
「十二月二十五日のクリスマスの日に、僕が桜花と麻奈さんのどっちを残すかを決める」
「……責任重大だな」
陽介は深刻そうな顔で呟いた。自分でも責任の重さは分かっているし、なんなら目を逸らしていたので言ってほしくなかった。わざとらしく激しいため息をつくと、陽介も察してくれたらしく申し訳なさそうに顔を顰めた。
さっきまでの威勢の良さは消え失せ、適当な意識が行きついた先の講義に注意を向けながら問いを投げてくる。
「結人は誰を選ぶんだ?」
「……わからない」
「クリスマスまであと一週間なのに、大丈夫なのか?」
「誰かの人生を奪うかもしれないのに、そんな簡単に決められるわけないじゃないか」
投げやりにそう言って机に突っ伏した。
目の前に現れた障害物で視界が暗転する。深い黒色で思い浮かべるのは、桜花と麻奈の笑顔だった。輝かしい笑みが鮮明に描かれるほど、どちらかを失わなければならないという現実が両肩にのしかかる。湾曲していた腰が背骨を失ったかのように更に曲がってしまった。
陽介の大きな掌が背中をさする。
「そう考え込むなって。お前が選んだならみんな納得するさ」
「もし僕が桜花を選んだらどう思う?」
「……藤宮さんを選んで欲しかったって思うかもしれないな」
「言ってたことと矛盾してるじゃないか」
頬を掻きながら誤魔化すような薄ら笑いを浮かべる陽介。
「でもまあ、俺は結人のことを信じてる。宮瀬さんを選ぶ気持ちもわかるし、藤宮さんを選ぶ気持ちもわかる。俺は応援しかできないけど、頑張れよ」
息が詰まるほど思いっきり肩を叩かれた。騒音を立てられてまたしても教授が僕たちを睨みつけるが、まったく気にしなかった。
何も考えていないお気楽な表情で陽介は笑う。この世の苦痛を何も知らないような、大きな問題を抱えた今の僕にとっては憧れる顔だった。鏡で自分の表情を見れば、きっと哲学者のように考え込んでいるだろう。
「誰を選んでも、後悔だけはするなよ」
「……わかってる」
哀切な目で訴える陽介に、僕は顔を背けて答えた。
講義室の窓の向こう側に青空が見えた。澄み切った冬の空はどこまでも高かった。
「ばか」
「……」
「あほ」
「……」
十二月二十三日、僕は藤宮家を訪れていた。京子さんは僕たちのことを見張っていたい様子だったが、怒り心頭の麻奈に家から追い出されてしまった。麻奈を選びなさい、と去り際に耳打ちされたときは心臓が握られたような気がした。
目の前のソファに腰を下ろした麻奈は、心にもない言葉を口にする。
「おたんこなす」
「……」
ここまで僕に向かって悪口を連発していた麻奈が、顎に指を掛けて考え込む。
「人の悪口って難しいですね」
「どうして僕の悪口なんて言う必要があるんですか」
「私を嫌ってもらうためですよ。もし結人さんが私に好意を持ってしまったら、桜花を選んでもらえないですから」
神妙な面持ちで呟く麻奈に、大きく息を吐いた。悪気のない人にいくら馬鹿にされようと心に全く響かない。とくに純粋で真面目な麻奈が本気で悪口を言えるはずもなく、さっきからの悪口も心にかすり傷一つ残さなかった。
ソファに思い切り体重をかけて天井を見上げる。そのまま視線を横にずらして壁掛け時計の時間を眺める。今日が終わるまであと十五時間はあり、すぐに帰れそうになかった。
「今日は一日中悪口を言ってるんですか」
声を掛けると思案顔の麻奈がこちらを向いた。
「そんなつもりはありませんよ。ちょっと試してみたかっだけなので、もうやめます。それに、あんまり人を傷つけるような悪口が思いつきません」
「人を傷つけないほうが良いに決まってますよ。麻奈さんは真面目で優しい人ですし、悪口なんて知らなくて十分です」
「……ありがとうございます」
麻奈はわずかに赤面して俯いた。どうやら無意識のうちに口説いてしまっていたらしい。何をやってるんだ、と自分自身に毒づいた。
指をすり合わせて居心地悪そうにしていた麻奈が立ち上がった。
「ちょっと空気を吸って来ます」
「外は寒いですよ」
「ベランダでちょっと吸ってくるだけです。すぐに帰ってきます」
僕の制止も聞かず、麻奈はくるりと背を向けてベランダへと去ってしまった。窓越しに背中だけ見えるものの、ガラス一枚に隔てられて声は届かない。しかし歩いていくつもりにもなれなかった。
テーブルの上に置かれていた小麦色のクッキーを食べてみる。天然の素材を生かした単純な味で、砂糖やバターの味が見分けられそうな気がした。もう一枚食べてみても飽きることのないかもしれない。
申し訳なさを覚えながら数枚目のクッキーに手を掛けようとしたとき、スマホに着信があった。
「もしもし」
『もしもし、調子はどう?』
向こうは京子さんだった。麻奈に追い出されてしまったものの、僕たちがどんな話をしているのか興味があるのだろう。血のつながった姉ならば当然かもしれない、と思った。
『麻奈は何て言ってたの』
「自分を消して桜花に残ってもらいたいそうです」
電話口の京子さんが息を呑む音が聞こえた。それからすぐにペットボトルが握りつぶされる音がする。ペットボトルのひしゃげる音は骨を折っている響きと似ているような気がして、背筋に冷たいものが滴り落ちた。
しかし理性は残しているようで、京子さんは低い声でゆっくりと話してくる。
『それで、あなたは何て答えたの』
「……まだ答えてません」
『意気地なし』
麻奈に放り投げられたいくつもの悪口より、京子さんのたった一つの辛辣な言葉のほうが深々と僕の心に突き刺さった。
冷たい評価に納得できない僕は長々と反駁する。
「無理なこと言わないでくださいよ。二人のうちどちらかなんて簡単に選べるわけないじゃないですか」
『麻奈を選べばいいじゃない』
「それは血が繋がってるから言えるんですよ」
『血が繋がってなくても言えるわよ』
「他人の人生を奪うかもしれないのに?」
次々と反論をまくし立てていると、京子さんは押し黙ってしまった。空気の流れる音は聞こえるので、スマホが壊れたわけではないらしい。ベランダにいる麻奈の様子を見ると階下の景色を眺めていた。僕たちの口論には気付いていないようだった。
一方的に電話を切ってしまおうかと思ったところで、ようやく話し声が聞こえる。
『あなた……大変なのね』
考えてもいなかった労いの言葉に、山のように浮かんでいた反論が消されて空白だけが頭に残る。次は僕が喋ることができなくなる番だった。
向こうは泣いていると勘違いしたのか、小雨のように優しい言葉を口にする。
『もういいわ。結人くんが悩み抜いて選び抜いた選択なら、私は黙って受け入れる。でも、どんなことになっても麻奈のことは忘れないで』
声が震えていた。か細い呼吸音が鼓膜を通して声に響く。
兄弟のいない僕には京子さんの気持ちを理解することはできなかった。けれど、麻奈をどれだけ大切にしているのかは伝わってきた。
他人の気持ちを知ることで、二人から一人を選ぶための責任がさらに重くなって僕の上へとのしかかる。すでに両手で抱えられるだけの重さを超えていて、心はとっくに潰されていた。
責任の一端を長い息と共に吐きだした。伏せていた目を上げると、ちょうど麻奈がベランダから戻ってくるところだった。
「そろそろ麻奈さんが戻ってくるので切ります」
『わかった』
特に励ますでもなく忠告するでもなく、京子さんは普段通りに通話を切った。事務口調な話しぶりからは何を考えているのか読み取れず、さらには電話越しだったので、表情も見えない。それがかえって僕を怖がらせた。
右手にスマホを握りしめていると、麻奈が歩み寄ってくる。
「邪魔しちゃいました?」
「京子さんと少し話してただけです」
「また姉ですか……今度、があるかはわかりませんけど、結人さんに迷惑を掛けないように強く言っておきます」
「嫌がらせじゃないですから、大丈夫ですよ」
「そう言うなら……」
麻奈は上目遣いで細い声で呟く。僕の言っていることは半信半疑らしく、どこか不満そうに口を曲げていた。目を逸らすのは嘘とついている人の行動だ、と何かで呼んだ気が薄るので、敢えてまっすぐ見返してみる。顔を赤らめた麻奈のほうが視線を泳がせた。
寄る辺を失くした気持ちを抱えて麻奈はテーブルの向こう側のソファに座る。
微笑ましくその様子を眺めていると、鋭利な視線で睨まれた。
「なんですか」
「なんでもない……です」
びっくりして思わず居住まいを正してしまった。
麻奈が壁に掛かっているモノクロの時計を見やる。何を思ったのかは知らないが、その双眸がわずかに開かれた。
黒真珠のように燦爛と光る瞳を僕へと向ける。
「まだ午前中ですけど、なにします?」
「麻奈さんがやりたいことで、どうでしょうか」
「私がやりたいことって読書とかテレビ鑑賞で、自己完結してる趣味ばっかりなんですよね。結人さんは何かやりたいことはないんですか?」
「気が紛れること……ですかね」
こうして話しているときでも、頭にあるのは明後日のことだった。桜花か麻奈か。その選択肢には未だ答えが出ておらず、むしろ深みに嵌っている気がする。
優柔不断な僕の心情を察したのだろう。麻奈は儚げに顔を綻ばせた。
「部屋に籠っていても塞ぎ込むだけですし、外に出ませんか」
「この辺りに気が晴れる場所ってありましたっけ?」
「別に気が晴れるわけじゃないですけど、私が行きたいんです」
特段断る理由は無かった。
「いいですよ」
「じゃあ、早速行きましょうか」
麻奈は立ち上がり、左手を差し出してくる。僕はその左手を取って立ち上がると、一緒に外へ出るのだった。
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