第28話
麻奈は眠っていた。いや、眠っていたはずだった。
見渡す限り視界に映るのは、真っ白に広がる無限の雲海。ゆっくりと流れていく雲は一秒たりとも同じ形はなく、しかしどこまでも退屈な場所だった。時間の流れもなければ、空間の動きもない。何一つとして変化はない。
麻奈は一歩だけ歩いてみる。わずかに髪が揺れたものの、風は吹いているからではなかった。
終わりのないこの空間には何があるのだろう。青と白の水平線を眺めながらそんなことを考えた。
「こんにちは、でいいのかな?」
弾んだ声がして振り返る。雪のような白く輝くワンピースを纏った少女が立っていた。
年齢は麻奈より少し下だろうか。身長も麻奈のほうがわずかに高かった。
大切な宝物を見せびらかす前のように、少女は両手を後ろに組んでいる。目を丸くしている麻奈を見て、口が可愛らしく弧を描いた。
「こうやって会うのは初めてだね」
「あなたは……」
「宮瀬桜花。麻奈の身体を借りてた結人の彼女です」
腰を折って挨拶をする桜花と名乗る少女。麻奈も見習ってぎこちない礼をした。
年下の少女をどう扱っていいのかわからない。今の状況を理解できない麻奈は困惑気味に尋ねた。
「ここはどこなのかな?」
「あの世とか、此岸とか、天国とか言われてるところだよ」
満面の笑みの桜花に対して、話の内容は全く笑えないものだった。さっきまで生きていたのに、いきなり死んだとあっては誰が笑えるだろうか。
戸惑っている麻奈を見て、桜花はワンピースをひらめかせて華やかに笑う。
「麻奈は死んでないから安心して。死んでるのは私だけ」
「なら、どうして私がここに?」
「一度麻奈と話したくて、私が呼びよせたの」
「何を話したいの?」
「私が消えること」
一瞬、凪が訪れたのかと麻奈は錯覚した。自分たちの話し声が消えた世界は本当に静寂に包まれた。ガラスの床を踏むかのように軽やかなステップで桜花は舞う。綺麗な一回転着地を決めてみせた。
「今のままだと私たち二人は消えてしまう。だから、麻奈は生き続けて欲しいの」
透き通った純粋無垢な瞳で見つめられて、麻奈は素直に頷きかけてしまった。しかし昨日の覚悟を思い出してすんでのところで首を横に振る。
「桜花が生きてください。私が消えるべきなんです」
桜花の丸い目が見開かれた。
「でも、京子さんが悲しむわよ」
「桜花が居なくなれば結人さんが悲しみます」
「……私たち、大切にされてるんだね」
「嬉しいことに」
二人で顔を見合わせて微笑んだ。胸の奥がじんと熱くなって、この世界にあるはずのない身体が熱くなったように感じた。
麻奈と桜花は鏡合わせのように動いてお互いの胸に手を当てる。
「同じ心臓がここにあるなんて信じられない」
「私も……」
触れることはできないけれど、確かにそこにあった。死ぬまで休むことのない心臓の鼓動が胸の下から聞こえてくる。落ち着いた一定のリズムを刻むそれはいつ聞いても聞き飽きなくて、むしろ聞こえないと不安になる。
右手を胸に添えたまま、麻奈は顔を上げた。
「運命って信じますか?」
桜花は、ちょっと難しそうに眉間に皺を作って顎に指を当てて考え込んだ。唸り声までも可愛くて、結人さんが彼女を好きになる理由が分かる気がした。
「わかんない」
桜花は「けど」と言葉を続ける。
「やっぱりあるって思っちゃうな。私と麻奈のことを見てると」
「私も運命なんて小説の中だけのおとぎ話で、現実には存在しないと思ってました。けど、桜花のことを知ってあるんだって思えたんです」
「実は私、運命を司ってたりして」
「運命がわかったら事故を避けられたんじゃないですか」
「それもそっか」
桜花は声を上げて笑った。息が、動きが、声が、全く自分とは別物で、桜花という女性はこの世に存在していたことを思い知らされる。それと同時に、彼女はもう死んでいるという事実が麻奈の胸に暗雲のように立ち込めた。
ひとしきり笑った桜花の目の縁はしっとりと潤んでいた。
「でさ、麻奈にはこの先の人生を生きて欲しいの」
「生きるのは桜花です」
きっぱりと断言されて、桜花の動きが一瞬止まった。
「話の流れでいけると思ったんだけどなぁ」
顎と唇を尖らせて、不満そうな表情で言った。どうやら明るい話の流れで麻奈に要求を呑ませるつもりだったらしい。しかし思いのほかガードが硬かった麻奈には、そんな小細工は通用しなかった。
桜花がジッと睨んでくる。麻奈は目を逸らさずに彼女を微笑んで見据えた。
「だめ?」
「だめ」
「お願い、生きて」
「むしろこちらが願いします」
……。
微笑を浮かべながら見つめ合う。高鳴る心臓の鼓動だけが耳朶に響く。何もかもが停滞したこの空間で、自分たちの話し合いも詰まってしまった。足元を流れていく雲が青と白の境界の向こうへと消えていく。
上機嫌だった桜花の頬が少し硬くなった。
「やっぱり、私たちだけじゃ決められないね」
桜花の呟きに麻奈も俯いて黙り込んだ。その行動が桜花の発言を認めるものであったことに後から気付いた。
怒るでもなく、されど悲しむでもなく。桜花は未知の数式を睨む数学者のような、新たな解決方法を求める人の顔だった。客観的にはわからないが、きっと頭の中ではいくつもの考えが渦巻いては消えているのだろう。
「ねえ」
「なんですか?」
「私たちのどっちが残るのか、結人に決めてもらわない?」
卑怯な選択だ。第一印象はそれだった。自分たちが出来ない選択を第三者に押し付けているだけに過ぎない。けれどその方法しか残っていないのもまた事実で、自分の気持ちの強さに驚くとともに情けない気持ちになった。
桜花の提案を冷静に考えて、自分の言葉にして頭へ取り込む。
「それが……いいのかもしれませんね」
桜花は結人のことを変わらず愛している。麻奈自身も結人への恋心に最近気づいたばかりだが、偽物ではない本物の感情だ。結人が私に消えてくれと頼むなら、それはそれで本望かもしれない。この不思議な世界に来る前、元から桜花に身体を譲るつもりだったのだから。
「どちらが消えても、絶対に相手のことを思って後悔だけはしない。約束して」
揺るぎない眼差しが麻奈の目を射抜く。耳を通り越して心にまで響いてきそうな声だった。
驚き戸惑う表情をかき消して唇を軽く噛む。俯いた隙に感情を整理して真正面から桜花と相対する。
「約束します。どんな結末になっても、私は桜花を恨まない」
麻奈から呼び出しがかかったのは、最後に会ってから数日後だった。わざわざメールで呼び出してくるあたり、真剣な話がしたいのだろうと察しが付く。行くという旨のメールを送るとすぐにわかりましたと返信が来たので、かなり焦っているのかもしれない、なんてことも考えた。
今にも泣き出しそうな灰色の空は重苦しくていい気がしない。十二月に入って徐々に気温も下がってきているので、もしかしたら雪が降るかもしれないと思った。
図書室の中は暖房が効いており、上着が必要ないほどに暖かかった。傍目でカウンターを眺めるとクリスマスイベントのお知らせが掲示されていたが、誰一人として見向きする者はいなかった。
「こんにちは」
奥の読書スペースに座っていた麻奈が本を閉じて顔を上げる。窓から日差しが差し込まないせいか、その横顔はどこか薄暗かった。
「講義で遅くなりました。すみません」
「いいんです。いきなり当日に私が呼びだしたんですから。もしかしたら断られるかも、なんて思ってましたし」
「さすがにそんなことはしませんよ」
「知ってます。だからこそ好きになったんです」
日常会話の一コマのように、麻奈はごく普通に告白を口にする。しかし僕がそんな愛情表現を習慣に持っているわけもなく、心臓はせわしなく働き、頭は沸騰しそうなほど熱くなる。
「耳元まで赤くなってますよ」
「恥ずかしいんですから、仕方ないですよ」
「本気で考えてもらえて嬉しいです」
またしても愛の言葉を囁く麻奈。どれだか僕の心を掻き乱せば済むのだろうか。桜色に染まった頬も花のように咲く笑顔も、何もかもが愛おしくて切ない。初めて桜花に出会ったときに感情が逆戻りしてしまったかのようだった。
所在なげに僕の視線は中を彷徨う。もちろん麻奈以外に見る必要のある存在は無いのだが。
「それで、僕に話しておきたいことってなんですか」
麻奈は上がりっぱなしだった口角を下げて真剣な表情を見える。
「私と桜花、どちらが残るべきか結人さんに決めてもらおうと思うんです」
「は?」
思わず素で聞き返してしまった。
「ですから、私と桜花のどちらに残って欲しいか、結人さんに選んでもらいたいんです」
「どうして僕なんですか。京子さんとか、別の人でもいいじゃないですか」
「私たちが好きなのは結人さん、あなたです。私は姉ではなくて好きな相手に決めてもらいたいんです」
「……僕が桜花を選ぶとは思わないんですか」
「元から桜花さんに消えないで欲しいと思ってますし、結人さんがそう選ぶのならば本望です」
積み木の隙間をつくような質問に、麻奈は冗談を交えることなく本気で答えてくる。他人の人生を決める権利を僕が持っているはずがない。いや、持って良いはずがない。僕はただの人間なのだから。
他人の命の綱をいきなり渡されて、冷静でいられるはずがなかった。突然降って掛かってきた責任の重さに押しつぶされそうになる。
「桜花には説明したんですか」
「話は付けてあるので心配しないでください。一応言っておきますと、彼女は私に生きて欲しいっていってました」
桜花や京子さん、陽介は麻奈の存在を望む。しかし当の本人である麻奈は桜花の存在を望む。考えれば考えるほど深みに嵌りそうな関係に頭痛がしてきた。僕の一声で全ては決まる。こんなに難しい判断が他にあるだろうか。
「桜花はクリスマスまでに結論を出したいそうです」
「そう言ってましたね」
顔をぐいと近づけて語り続けていた麻奈に疲労の色が現れる。
「それに、正直に言うと私の心が限界に近いんです。なんだか自分の心が他の人と混じりあっているみたいで、すごく気持ち悪いんです」
「桜花も同じことを言ってました」
「やっぱりですか」
麻奈は長く細い息を吐いた。
図書館には靴音一つ聞こえない。本たちが何かを囁くこともない。ただ、目の前に座る麻奈の呼吸だけが鼓膜に伝わってきた。
みんなが救われる世界。そんな世界が実現するのは妄想の中だけだ。現実では何かを犠牲にしないと何かを手に入れることはできない。全部を求めようとするのは傲慢で、貪欲であることに他ならない。
「二十五日の午前零時、ちょうどクリスマスの夜です。その時に結論を出してもらえませんか」
黙っている僕を見て、麻奈も風前の灯のように力なく項垂れる。
「酷な選択を迫っていることは分かっています。でも、他に選ぶ方法が無かったんです」
か細く呟く麻奈。言葉の節々からやるせない気持ちが伝わってきた。僕に任せるのは、本意ではない。そう言っているような気がした。
こうしている間にも時間は刻一刻と過ぎ去っていく。結論を出すまでの時間が迫っていると思うと、逸る思いに胸が詰まる。
「結人さん、二十三日と二十四日は空いていますか?」
話が逸れたのだと思って僕は湿り気のする顔を上げた。
「空いてますけど……」
「二十三日は私と、二十四日は桜花と一日だけ付き合ってもらえませんか」
どうして、などと聞く必要はなかった。
「最後に私たちの心の底からの気持ちを伝えて、それで決めてもらいたいんです」
ここまで必死に訴えかけられて引き下がれるはずもなかった。
臆病な気持ちを振り切った。奥歯を力いっぱいに噛みしめて、迷いが表情に現れないように気を引き締める。
「わかりました」
麻奈はすっと微笑んだ。
「さすが、私たちが好きになっただけのことはあります」
とても恥ずかしかった。
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