第27話
冬は陽が落ちるのが早い。寒さで真っ赤になった手を擦りながらそんなことを考えた。生暖かい息を掛けても冷たい手が温まるのはほんの一瞬だけ。すぐに寒さが逆転する。
アパートの階段を上がって玄関に行こうとしたところで足を止める。暗がりに人影が見えたので、とっさに隠れてしまった。
驚きで早鐘を打つ心臓を静めてからそっと玄関の前に立つ人物を眺める。
長い黒髪のように白い肌。一見すれば幽霊のような立ち姿だが、冷静に考えてみればどうということはなかった。
「こんばんは」
桜花か麻奈かわからないので、とりあえず当たり障りのない挨拶をしておく。寒い夜に立ち尽くしていた彼女は振り返って僕を見た。
「結人さん……」
「麻奈さん?」
彼女は小さく頷く。どうやら麻奈らしい。目元が真っ赤に腫れ上がっており、白目にも血走った血管が通っていた。目尻にはうっすらと涙の跡が残っている。泣いていたのだろうか。
見慣れない女性の泣き顔に対応に困る僕を見て、麻奈は指で涙を拭った。
「すみません。さっきまで泣いてて……」
「家、上がります?」
自然とそんな言葉が口から出ていた。麻奈と桜花が同じ姿をしているせいで、つい気持ちが緩んでしまったからかもしれない。ある程度見知った間柄とはいえ、気軽に誘ってしまったことを申し訳なく思った。
麻奈は泣き顔と笑顔が混ざり合った表情で唇に弧を描く。
「ここだと寒いですし、上がらせてください」
それは本心なのか、気遣いなのか僕には判断できなかった。
かじかむ指で冷たいドアノブに触れる。わずかな体温までも金属に奪われて、真っ赤な手が小さく震えた。
「どうぞ」
「……お邪魔します」
一年ぶりの暖房をつけて明かりを点ける。光の下に晒された教科書と本の散乱した床を見て麻奈は目を見開いて慌てて口を塞いだ。視線の先にいた僕と目が合う。自分の行動が失礼だと思ったのか、小さく頭を下げてきた。
「ごめんなさい」
「こんな汚い家を見たら、そんな反応で当たり前ですよ。むしろ僕の感覚がおかしいんです」
「よくこんな部屋で生活できますね……」
本心から失礼なことを言う麻奈に苦笑する。
「慣れれば問題ないです。住めば都なんですよ」
「荒れていてもですか?」
「荒れていても、です」
内容を全く覚えていない教科書を脇にどけてスペースを作る。数冊は折れ曲がってしまったが、二人が座っても余裕がありそうなスペースができた。
手を伸ばせば届きそうな距離で僕たちは座る。いつの間にか窓の外は夕闇に沈んでいた。誰かの声が暗い町に木霊する。居づらさを誤魔化すようにテレビをつけるが、深刻な経済状況のニュースをやっていたせいで気が紛れなかった。
そっと垣間見るように麻奈の眼の縁を見る。わずかに赤みは引いたものの、通りすがりにも心配されそうなほどには赤かった。
気を張って頬を掻き、とにかく明るく振舞うように努める。
「今日は寒いですね」
「……」
精一杯の声掛けを黙殺された僕は居住まいを正した。今の麻奈に何を話しても、どんな冗談も通じないだろう。言うだけ無駄かもしれない。
本音を言えば、今すぐここを逃げ出したかった。しかし俯いて唇を噛む麻奈を僕の家に残しておけるほど、僕は心ない人間にはなれなかった。視線を泳がせて一年は開いていない教科書を見据える。書いている内容は何一つとして思い出せなかった。僕に逃げ道は用意されていないのだと悟った。
今すぐにでも目を逸らしたい正面を見据える。麻奈と目が合った。
「あの、何かあったんですか」
麻奈は無言だった。細かった目が一層細くなったように見えた。
言いづらそうにされて強引に聞くことができない甲斐性なしの僕に腹が立つ。拳を強く握り込むと爪の食い込む感覚が伝わってきた。皮膚が破けて血が出ているかもしれないが知らないことにした。
ニュースが終わってコマーシャルに切り替わったところで、麻奈がカバンの中から交換日記を取り出す。以前に見たときよりもくしゃくしゃで折れ曲がっていた。
開口一番、麻奈は本題に切りかかった。
「どうか、私を消してください」
先の見えない相談に一瞬だけ自我を失ったけれど、すんでのところで戻ってきた。
「言っている意味がかわりません」
「桜花の代わりに私を消してください。そうすれば、入れ替わりの問題は無くなると思います」
「桜花は消えるつもりなんですよ。なのに……」
「知ってます。交換日記を読みましたから」
麻奈は細長い人差し指でノートの背を叩く。唇を一文字に結んだ麻奈。眦に浮かんだ涙はいつの間にか乾ききっていた。
悲しみは徐々に消えていて、固い決意が全身から漲っていた。
圧倒的な決意を前に僕は何も言えなくなってしまう。喉に石が詰まったかのように息が出来なかった。
「桜花さんを助けるには、私が消える他にないと思うんです」
「だとしても、麻奈さんが居なくなってしまったら桜花は喜びません」
「死んでしまったら悲しみも喜びも無いですよ」
真面目な顔で語っていた麻奈の表情がふっと綻んで「それに」と言葉を続ける。
「私は、結人さんのことが好きです」
「えっ⁉」
驚きよりも衝撃が僕の全身を貫いていた。こんな悲嘆に暮れたタイミングで告白されるなど夢にも思っていなかった。
悲しみや驚きや焦りなど、あらゆる感情が心の中で渋滞する。たった一つしかない僕の顔は全ての感情を一度に消化できなかった。ただ一つだけわかるのは、この告白を受け入れてはならないということ。
しかし一縷の好奇心が僕の心の隅に転がっていた。
「どうして僕なんかを?」
「私の家で仮面を被った桜花に会ったことがありましたよね」
「ずいぶん昔ですけど、確かにありました」
「あれ、本当は私だったんです」
麻奈はにこやかに断言した。
どれだけ驚けば今日は終わるのだろうか。次々と現れる唐突な事実に座っていても立ち眩みがしてしまいそうになる。何回転も繰り返す世界の中、僕は右手を床に付けることで何とか姿勢を保った。
二転三転もする僕の様子に麻奈は面白可笑しく笑う。
「気づかなかったんですね」
「態度とか口調とかも全く違ったんですよ? 気付くわけないじゃないですか」
「練習した甲斐がありました」
まるで大きな賞でも獲得したかのような満面の笑みだった。しかし騙された側としては無駄なこととしか思えなかった。
「そんなことをして何になるんですか」
「普段の結人さんが桜花とどんな風に話してるのか知りたかったんです。ただの興味本位ですよ」
「で、何か収穫はあったんですか」
「結人さんが好きになりました」
とんでもないことを平気で言ってのける麻奈の心臓はどうなっているのだろうか。いや、よく考えれば桜花の心臓だった。事実も論理も跳躍しているけれど、なんだか自分の中で腑に落ちた気がした。
戸惑う僕を眺めて桜花は口端を上げる。
「祭りの楽しそうな笑顔とか、桜花が書いてくれる日記の内容からどんな人か気になってたんです。でも、仮面をつけて結人さんと会ったあの日、私は確信したんです。私はあなたが好きなんだって」
額が熱を帯びて彼の表面に伝導する。真正面から告白されたのは桜花以来の二年ぶりで、しかし何度やっても慣れるとは思えなかった。嬉しさと恥ずかしさが混じった感情はどう処理すべきか分からない。
告白という状況に慌てふためく僕。一方で麻奈は緩んでいた頬を急に引き締めた。
「だからこそ、私は消えなければならないんです」
弛み切っていた精神を強引に縛り上げる。
「どうしてそうなるんですか」
「私は結人さんのことが好きです。その事実には嘘偽りもありません。けれど、結人さんが隣に居て欲しいのは私じゃなくて桜花なんでしょう?」
「それは……」
「初恋の彼女ですから、見捨てたくないのは当たり前です。そんなに気を悪くしないでください」
純粋な笑顔が僕の心から大切なものを抉り取った。がっぽりと大きな穴が空いた後には大きな風穴が残った。優しく扱われれば扱われるほど、今の自分が惨めに思えてならなかった。
麻奈は長い息を吐きながら真面目な表情をつくる。
「桜花を助けるには私を消すしかありません。彼女の心臓を受け継いだ私の身体だけが、桜花の依り代としての役割を果たせるんです」
「……麻奈さんは消えてもいいって思ってるんですか」
明るく努めていた麻奈の目が陰った。
「消えるのが怖くない、なんてかっこいいことは言えませんけど、元は桜花から受け継いだ命です。ですから、この身体も桜花に返すのが普通だと思いますよ」
「京子さんは悲しみますよ」
「……私の人生なんですから、好きな人と彼女のために使わせてください」
京子さんには内緒でここに来ているらしい。姉に触れない話しぶりからなんとなく察しがついた。僕から目を逸らして俯くその顔からは、思慕する姉に対する後ろめたさがありありと感じられた。
京子さんに言うべきではないか。そう思う自分がいる。
京子さんに内緒にしておけば、桜花を取り戻せるのではないか。そう思う自分もいた。
相容れない二つの考えからの囁きに頭が痛くなる。いくつにも割れたガラスの破片が頭部に突き刺さっているようだった。
「僕のために、そう思ってくれる気持ちは素直に嬉しいです。でも、京子さんに内緒にはできません」
僕が首を横に振ると、麻奈は悲しそうな顔をした。
「姉に言えば、間違いなく反対されますよ」
「分かっています。でも、勝手に話を進めても桜花も納得しません」
「事後承諾は……」
「あの性格ですから、無理だと思いますよ」
麻奈は唇を結んで黙り込んだ。納得はしていないものの、僕を打ち負かせるほどの反論は思いつかないようだった。麻奈がスカートの端を両こぶしでぎゅっと握りしめると、緩やかなウェーブを描いた布に皺が刻まれた。
ふと陽介の顔が脳裏を過る。
麻奈が消えたと知ったら、陽介はどんな顔をするだろうか。考えたくもなかった。
話し合いが平行線になってしまうと、麻奈はスカートを払って立ち上がった。
「クリスマスまでに姉と桜花を説得してみます。それまで待っていてください」
「……わかりました」
僕はそう返事した。
桜花が戻ることに期待しているのか、麻奈が諦めてくれることに期待しているのか。どちらに向けた返事だったのだろう。それはわからなかったが。
麻奈は「お邪魔しました」と言って丁寧に礼をすると、寒空の下へと歩き出す。僕はその手を掴んで引き留めた。
「送っていきます」
「電車に乗ってすぐですから、大丈夫です。気持ちだけありがたく受け取っておきます」
麻奈は半ば僕の手を振り切って、慎ましやかな笑顔でそう言った。僕の脇を通り過ぎると、二度と振り返ることなく歩いていく。
街灯の明かりに照らされた麻奈の背中はとても小さく見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます