第26話

 一週間、桜花からも麻奈からも連絡は無かった。


 暇があればスマホに着信がないかチェックし、無いと確認するたびに落ち込む日々を送っていた。病室で見た笑顔が頭から離れなくて、今でも色を付けて鮮明な記憶として焼き付ていている。なにげなく思い出してしまうことが度々あったので、何かを考えて気を逸らしていた。


 相変わらず散らかったままの部屋を眺めてため息をつく。十二月に入って、一年の終わりが目の前に迫ってきた。だからといってなにかするわけでもないのだが。


 退屈しのぎに本を読んでいると、スマホに着信があった。


『テニスしようぜ』


 望んだ相手ではなく陽介だったことに肩を落とす。


「一人で行ってきて」


『おいおい、無茶言うなよ。一人でテニスするなんてできるわけないだろ』


「壁打ちとか」


『悲しくなってくるから嫌だ』


 かなり深刻そうな響きでそう言った。今さらながらに陽介には彼女がいなかったことを思い出す。ちょっとだけ傷つけてしまったかもしれない。


 陽介はわざとらしく咳払いをして声を元に戻す。


『とにかく、今日は土曜でお前の大学に行く用事はないはずだ。十二時過ぎに前に言ったテニスコートで待ってるから、必ず来いよ』


 言い返す暇もなく、一方的な要求を突きつけられて電話を切られてしまった。通話相手と通話時間を表示する画面を見て顔を顰めた。今からかけ直しても電話に出てくれそうにないと思ったので、やめにした。


 時計を見上げる。十二時はあと一時間後。今から何かをすることはできそうになかった。


 スニーカーを履いて家を出る。


 冬の突き刺すような寒さが全身を貫いた。


 あちこち寄り道をして約束の十分前にテニスコートの前に着くと、パーカーを着てジーンズを履いた陽介が街路樹に背を預けていた。暇そうに両手をポケットに突っ込んで流行歌の口笛を奏でていたが、僕を見るなり顔が華やぐ。


 軽やかな足取りでこちらに向かってきた。


「いきなり呼んで悪かったな。テニスをしようにも相手がいなくて困ってたんだ」


「テニス部の部員は?」


「誘おうかと思ったんだけど、みんな楽しそうな写真をネットに上げてるもんだから誘いづらくてさ」


「僕なら暇だろうと思ったわけだ」


 白い歯を見せて陽介は笑った。


「先週から塞ぎ込んでるみたいだし、こういうときには運動に限る。思いっきり身体を動かせば嫌なことも忘れるさ」


「そんなわけ……」


「やってみればわかるって。こんなところに立ってても寒いだけだぞ」


 僕の首筋を冷たい風がそっと撫でる。全身が氷で包まれたような極寒の感覚に全身の毛が逆立って身震いした。


 踵を返してテニスコートに向かう陽介の背中について歩く。秋の気配はどこにも残っていなかった。


 一時間ぐらいひたすら打ち合って、僕たち水分補給を兼ねて休憩を取っていた。


 陽介はコート横のベンチに思い切り腰を下ろす。


「疲れたー!」


「いくらなんでも本気でやりすぎだって」


「久しぶりに身体を動かすんだから本気でやりたくなるって」


 そう言いながら額に浮かんだ汗を拭った陽介は僕に向かってペットボトルを差し出してくる。手ぶらでやってきた僕は「ありがと」と受け取ることにした。一口飲むだけで砂漠のように乾燥した喉に潤いが戻ってくる。疲れ切った体が生き返った心地がした。


 ラケットを適当な場所において陽介の隣に腰かける。何時間も働きづめだった足を宙で揺らしてみた。


「なあ」


 陽介が声を掛けてくる。


「なに」


「麻奈さんと何かあった?」


「なんで急に」


「お前が病院に行ってから、ここ一週間スマホばっかり見てて話しかけづらかったんだぞ。ソシャゲにでも熱を上げてるのかと思えばメッセージ欄を凝視してるし、絶対に変に思うって」


 言われてみればスマホの画面を見ていた覚えしかない。充電の減りが異常に早かった気がするのは、ずっと画面を点けっぱなしだったからなのか。今週の疑問が府に落ちて少しすっきりした。


 陽介は隣のコートから転がってきたボールを打ち返した。二次関数の綺麗な放物線を描いたボールはやがて地面に落ちた。


「で、実際のところはどうなのよ」


 ラケットを振り抜きながら陽介は尋ねてくる。明るい笑顔を見ていると暗く淀んだ自分の心が焼き焦がされているようで、まともに直視できなかった。


「……桜花が、消えるって」


 痴話喧嘩ぐらいの話を想像していたのだろうか。悲しみと驚きが入り混じって陽介の表情が目まぐるしく変化する。結局落ち着いた先は、僕を慰めるような眉根を下げた同情の表情だった。


「宮瀬さんは本気で言ってるのか」


「ここ一週間まったく連絡してこなかったし、桜花も麻奈さんも真面目に考えてるんだと思う。今のこと、クリスマスの日が桜花にとって最後の日になるようにするって決めてるのは知ってる」


「結人はそれでいいのか? 彼女がまた居なくなるんだぞ?」


 陽介の声には熱が籠っていた。僕は項垂れて力なく答える。


「桜花は好きだよ。でも、入れ替わりは桜花と麻奈さんの問題で、僕が深く干渉できるようなことじゃない」


「解決策……は無いよな。その落ち込みっぷりからするに」


 陽介は察しが良くて助かる。必要以上に喋らなくて済むのはとてもありがたい。


 ラケットを空振りして陽介が息を吐く。冷たい空気に当てられた吐息が真っ白になってやがて溶けた。


 ふと、陽介が思い出したような疑問を口にする。


「宮瀬さんが藤宮さんの身体を乗っ取ることはできるのか?」


「できる……と思う」


「ま、乗っ取ったところでだから何って感じだけどさ。麻奈さんの人生を奪ったら罪悪感もずっと残るだろうし」


 麻奈を説得できれば、あるいは麻奈が消えることになれば、あの身体は桜花のものになる。そうなれば僕たちは死ぬまで離れることはなくなるかもしれない。しかし現実的な手段とは思えない。


 麻奈が生き残るにしろ、桜花が生き残るにしろ、どちらの選択肢も僕にとっては心を抉られるものには変わりなかった。桜花が戻ってきた頃に描いていた夢が真っ黒なインクで塗り潰されていく。黒い液体は高校生のときにつくった桜花との思い出までもシミを残した。


 目を上げると、木にとまった数羽のカラスが視界に映る。あんなに黒かっただろうか。そう自分に問いかける自分がいた。


「正直、俺は藤宮さんのほうに残って欲しい」


 隣から聞こえた声に耳を疑った。


「どうして桜花じゃないんだよ」


「俺が麻奈さんを好きだから。お前も知ってるだろ?」


 片目を瞑って陽介は決然と言い放った。悪びれる様子も一切なく、寂しげな双眸は真っ向から僕を見返していた。凍えるほどに冷たい空気を肺いっぱいに吸い込む。怒りで沸騰しそうになった頭が段々と冷えてきた。


 鬱屈した感情とともに真っ白な息を吐き出す。


「ま、俺は藤宮さんに告白もしてないから結人とは違って完全な第三者なんだけどな。俺はお前の話を聞いても何もしない。結人、お前と二人で納得する答えを探せ」


「見つからないのはわかってくるせに」


 些細な愚痴を吐く僕に陽介は呆れたように首を振る。


「どんな形にしろ、宮瀬さんとは居なくなる前にあと一回会うんだろ? 今度こそ後悔しないように過ごせよ」


「わかってるさ。わかってる」


 秋の残骸である木の葉がコートの上を風に運ばれていく。コート端に設けられた柵に引っかかって動きを止めた。


 陽介は深く息を吸い込むと「よし」と大声を上げて膝を叩いて立ち上がった。


 右手にラケットを持って左手にテニスボールを握りしめる。


「とりあえずテニスするぞ。暗い気分のときは運動してモヤモヤを晴らすしかない」


「お前、ホントに運動好きだよな」


「ありがとな」


「いやいや、褒めてない」


 陽介は僕の返事を鼻で笑ってコートの向こう側へと行ってしまった。ボールを握った左手を高々と突き出してこちら側に合図を送る。


「打ってこい」


 僕は叫ぶ。小さく頷いた陽介はボールを真上に投げて、おそらく最高点であろう場所で思い切り打ってきた。


 コートの使用時間ギリギリになるまで、僕たちはテニスを続けた。


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