第25話

「サイン、コサイン、タンジェント」


「いきなりどうした」


 舟をこぎながら数式の並ぶ黒板をノートに書き写していると、陽介の気持ちの籠っていない機械のような声が聞こえてきた。僕が横に顔を向けて目を細めると、陽介も横目で視線を合わせてきた。


「インテグラル、パーミテーション。で、どう?」


「だから何言ってるのかさっぱりわからないって」


 講義が暇すぎて、頭がおかしくなったのだろうか。しかし陽介の目には光があり、自意識を失った人間の目ではない。陽介の言い並べた数学の公式の数々に思いを馳せてみるが、何一つとして共通点が見当たらなかった。


 頭に浮かんだ数式たちから陽介へと目を戻す。


「で、結局何を言いたいわけ?」


 不思議そうに訊ねてみるが、陽介は眉一つ動かさない。


「別に何も」


 それだけ言い残して前を向いてしまった。


 二人してくだらないことにかまけている間にも、教授は次々と公式を書いては解説を続けていた。いつの間にか僕が書き写した公式は消されており、その上から新しい数式が掻き込まれていた。


 慌ててノートに書き写す。後から読めるかは後の自分に任せればいい。


「であるからして、これが証明できるわけです」


 必死にシャーペンを走らせる横で、いつの間にか公式の証明が終了していた。長々とした数式を書き終えた教授は自慢げな顔で証明された公式を棒で指さしている。


「リンゴが食べたい……」


 またしても隣から意味不明な訴えが聞こえる。


「食堂に行ってくれば解決するって」


「今日のメニューにリンゴは入ってない」


「なら自分で買えば?」


「正論だな」


 陽介は僕の意見を鼻で笑った。陽介も僕と同じ一人暮らしなので、食事のメニューについてはかなり幅が利くはずだ。別に講義中に食べたいものを語る必要もないと思うのだが。


 よくわからないことが起きた日には、続けてよくわからないことが起きる。そんな僕のジンクスは大抵当たっており、今日も例外ではなかったらしい。


 落ち着いた講義室に僕のスマホの着信音が響く。


 大学生たちの視線が一瞬にして僕を捉え、登壇していた教授が不愉快そうに鼻を鳴らした。周囲に向かって小さく頭を下げると、ノートを陽介に押し付けて講義室を出た。


 相手の携帯番号を確かめてから電話に出る。


「はい」


『結人くん?』


「そうですけど、今は講義中なんです。話は後にしてもらえませんか」


『それは分かってる。でも、急いで伝えなくちゃいけなかったの。その講義って抜けられない?』


 京子さんの声は切羽詰まっていた。ただならぬ様子を感じたので、とりあえず電話を打ち切らないことにする。


 少し不機嫌そうな声音で尋ねてみた。


「何かあったんですか」


『麻奈が倒れたのよ』


「……」


 言葉を失った。落雷のような衝撃が僕の脊髄を貫いた。驚きの声すら漏らすことを忘れていた。


 いきなりの事態に頭が混乱してしまう。京子さんは閉口した僕が話すまで待ってくれる。


 とにかく、まず浮かんだ疑問を尋ねることにした。


「今朝は話したときは元気そうでしたけど」


『朝は普通に元気だったみたい。でも、昼間に倒れたんですって。友達が救急車を呼んでくれたそうよ』


「すぐに行きます。病院の場所を教えてくれませんか」


『わかった。場所は……』


 ちょうど手持ちの紙が無かったので、メモは諦めて覚えることに専念する。幸いにも一度お世話になったことのある病院だったので、道に迷うということはなさそうだった。


「すぐ行きます」


『待ってる』


 スマホをポケットにしまって講義室に転がり込むように入る。すぐさま自分の席に散らばっていた荷物をカバンに詰め、隣で落書きに専心していた陽介の肩を叩いた。


「どした?」


「ちょっと病院に行ってくる」


「……麻奈さんか?」


 眉根を下げる陽介。僕は真剣に頷いた。


「わかった。課題とかは後で教えてやるから、早く行ってこいよ」


「頼んだ」


 こんなときに持つべきものは親友だ、と都合の良いことを頭の隅で思いながら、僕は講義室から姿をくらませた。


 電車と徒歩で病院についたのは、大学を出てから一時間後だった。


 老若男女が入り混じった待合室は混雑していて落ち着かない。用事があるのは病室のほうなので、僕は小走りで待合室を駆け抜ける。


 病院特有のリノリウムの床とモルタルの壁に蛍光灯の白い光が反射する。息を吸うたびに消毒液のつんとした臭いが鼻をついた。


 エレベータに乗り込んで指定された階に行く。麻奈の病室は降りて近くの場所にあった。


 秋の終わりなのに汗をかき、息も絶え絶えな僕を見て藤宮姉妹は目を見開く。けれどすぐに普段の落ち着いた調子に戻った。


「ちょっと来て」


 僕が口を開くよりも早く京子さんが腕を掴んでくる。乾ききった喉では抗議の声を上げることは叶わなかった。


 京子さんは僕を連れて病室を出ると後ろ手にドアを閉める。


「来てくれてありがと」


 開口一番にそう切り出された。


「電話越しに軽く聞きましたけど、一体何があったんですか」


「今日の午後なんだけど……」


 京子さんは話し始めた。


 午前の授業を終えた麻奈は、普段通りに昼休みを過ごしていたらしい。意識を失うまでは普段通り話せていたし、顔色も悪くなかったようだ。


 しかし昼休みの終わりごろ。麻奈は糸が切れた人形のように一瞬で意識を失ったらしい。座席に座っていたのが幸いして、転倒による怪我を負うことはなかった。その後は聞かされていた通りに病院に担ぎ込まれ、今に至る……らしい。


「体は大丈夫なんですか」


「医者に診てもらったけど、どこにも異常は無いみたい。指一本に至るまで健康体そのものよ。正直、どうして倒れたのか分からないって言ってたわ」


「健康なら良かったです」


「良くないわよ」


 すぐさま反論をぶつけられて僕は目を剥いた。腕を組んで頬を硬くする京子さんの声はやたらと耳朶に響いた。


「病気じゃないってことは、ただ偶然に気を失ったのか、もしくは……」


 僕は息を呑む。


「入れ替わりってことですか」


 京子さんは無言で頷いた。眉間に刻まれた皺がより一層深くなる。唇も固く結ばれて、不快感が包み隠すことなく現れていた。もう今朝の安堵は既に消え失せていた。


 思考の糸が絡まってほどけなくなる。京子さんが入れ替わりを毛嫌いしているのは知っているので、何か筋の通った反論を探す。


「一応、偶然倒れたっていう可能性もあるんですよね」


「それはないわ」


「どうしてですか。たまたま意識を失うこともあると思うんですけど」


 京子さんがため息を吐いた。呆れるような、怒りを晴らすようだった。


「今、あの身体に入っているのは麻奈じゃないのよ」


「えっ……」


「何度か話してみたけど、間違いなく麻奈じゃない。今の中身はあなたの彼女よ」


 憮然と言い放たれた言葉は、僕の心に突き刺さった。


 あれこれと考えていた反論が真っ白に塗り潰される。不機嫌な京子さんと視線が重なる。


 優柔不断な僕の態度に京子さんはまた長い息を吐いた。


「麻奈の健康状態も確かめられたし、私はもう帰るから。あとは二人で話し合って」


 何を、と言わないあたりが本心を伝えていた。


 京子さんは返事を確かめることなく延々と続く廊下を歩いていく。エレベーターのある場所で角を曲がると、じきにその姿は見えなくなった。


 立ちはだかる者が消えたことで、僕の前には大きな病室のドアがそびえ立つ。清潔感のために白く塗り潰されたドアは今にも倒れてきそうだった。ドアノブに掛ける手が震える。麻奈が居てくれれば万事解決なのだが、そんなことを期待するだけ無駄だろう。


 横滑りのドアを開く。ベッドで上半身を起こした麻奈か桜花がにこっと微笑んだ。


「結人、ごめんね」


「……桜花」


 眦に涙をいっぱいに溜めた桜花を見て、僕は言葉を失った。たった数メートルの距離を駆け寄って、華奢で小さな体を抱きしめる。間違うことなく桜花の体温で、桜花の心音が肌を通して伝わってきた。


 桜花も僕の腰に手を回し、ぎゅっと抱きしめてくる。


「ごめん、もう無理かもしれない」


 初めて吐かれた弱音だった。生きているときはどんなに辛い状況でも前向きだった桜花。けれど彼女の精神力でも今の状況は楽観視できないらしい。


 抱擁する両腕に一層力を込めると、それに共鳴するかのように桜花も僕を抱きしめてくれる。今は無性に手放したくなかった。


「桜花なら大丈夫。大丈夫だから」


 無根拠な僕の励ましに桜花は首を振る。


「ここ数日で私と麻奈が混ざり合ってる。記憶も性格もチョコレートみたいに溶けて合わさってるのがわかるの。来年になる頃には私たちは混ざり合って別の人になってるかもしれない」


「そんなことがあるわけないじゃん」


「本当に起こってるんだからどうしようもないでしょ」


 呆れと疲れを染みた声で桜花は言った。


 長々と続けた抱擁を解いて僕たちは二人に分かれる。心の奥にあった大切な何かも二つに割れてしまった気がした。


 ベッドに覆いかぶさる布団に付いたシミを見下ろしながら、桜花は本心を告白する。


「私、そろそろ消えようと思うの」


 頭より先に口が動いていた。


「そんなことあるわけない! 桜花が消える必要なんてどこにもない!」


 思わず勢いよくまくし立ててしまった。


 けれど、焦ってばかりの僕とは違って桜花は至って冷静だった。


「二人とも別人になるぐらいなら、どっちか一人残るべきだよ」


「そんなこと……」


 言い淀む僕。桜花は気にせず話す。


「それに、一つの身体に二人分の魂が入れるわけないでしょ。今までは奇跡的なバランスで成り立ってただけで、本当はイレギュラーなことだったんじゃないかな」


「解決策を見つければ、きっとなんとかなるって」


 桜花は顔を曇らせた。


「このままじゃ麻奈が可哀想でしょ」


「時間を掛ければ、いつか……」


「どれくらいかかるのか想像つく? 大学生のうち? それとも大人になってから?」


 大人になっても見つからない可能性はあった。老年になっても入れ替わりが解決しない可能性があることは、理性では理解していたつもりだった。


 話を終えた桜花は憔悴したように見えた。


「麻奈には麻奈の夢があるし、きっと結婚相手もできる。そのとき、私は邪魔な存在にしかならない」


「麻奈の結婚相手がどう思っても、僕にとっては大切な人だ」


「その気持ちは嬉しい、ありがとう。でもね、この世界は私たちだけで動いてるわけじゃないんだよ」


 世界の真理を悟ったような澄み切った声だった。


 僕にとって、桜花の存在は人生そのものだ。世界の人々のことは知らないが、少なくとも僕はそう思っている。人生に一度あるかないかのチャンスでせっかく取り戻した彼女なのに、簡単に手放せるはずもなかった。


 真っ白な病室は俗世から切り離された異空間のようだ。窓の景色は一枚絵で、外界の音はどこか遠くに聞こえる気がする。ここままどこか二人だけで行くことができたらいいのに。そう思わずにはいられない。


「もう十二月だね」


 壁のカレンダーに目を向けると、十二月一日に丸が付いていた。昨日までは紅葉が舞っていた季節なのに、時の流れは早い。


「とりあえず十二月二十四日。その日を目安に全部を終わらせようよ」


「終わらせるっていうと?」


「私の人格を消して麻奈の身体を元に戻すの。三回忌なんだし、ちょうどいいでしょ?」


 奥底に悲しみを湛えた笑顔を見せつけられる。僕は拒否という選択肢を取り上げられてしまった。


「麻奈にも私から言っておくから、結人は何もしなくていいよ。あ、でも、最後の日には会いに来てほしいかな」


「絶対に行く。どんなことがあっても」


「隕石が降っても?」


「行く」


「槍が降っても?」


「降ってくるわけないじゃん」


 桜花は軽口を真面目に返されて睨みつけてきた。僕は小さく肩を竦める。


「行くよ。何があっても」


「絶対に?」


「絶対。約束する」


 桜花は小指だけを立てた右拳を僕の前に差し出す。僕も右手の小指を出して指を絡ませた。指切りをしたのは幼稚園以来かもしれない。ただの口約束でも、信頼できる相手なら大きな意味を持っていると思う。


 一度大きく手を振り、「指切った」と言い合って指を解いた。


「私が消える用意は麻奈と一緒にするわ。最後に会う日もそのときに決めるから、それまで待っててくれる?」


 桜花と会えるのは、今日も入れてたった二日。唐突に突きつけられた数字に眩暈を覚える。背もたれのない丸のパイプ椅子から転げ落ちそうになって、すんでのところで意識を持ち直した。


 失神の緊張で止まっていた心臓が再び動き出し、数秒の遅れを取り戻すために急いで血を全身に巡らせた。押し寄せる動悸に呼吸が荒立った。


 桜花は滝のように冷や汗を流す僕の手を取り、そっと握りしめる。自然と心が落ち着いた。


「結人は私がいなくても生きていける。身体もあるし、心もある。きっと大切な人ができるよ」


「……桜花がいい」 


 桜花は嬉々として「もう」と呆れ混じりの息を吐く。


「私は死ぬんだから、他の人を探さないとだめでしょ」


 柔らかい掌が僕の頭をそっと撫でる。いつかの思い出に残ってるような、懐かしい温かさだった。


 僕たちは視線を重ねて微笑み合う。最後に見た桜花も同じ笑顔だった気がする。


 桜花は小さく手を振った。


「また今度ね」


「……また今度」


 終わりを迎える彼女に相応しい笑顔を作ったつもりだったが、上手くできただろうか。桜花にとって思い出深い笑顔になってくれればこの上ないけれど。あわよくば死んでも忘れないでいて欲しい。


 病室を出た僕は立ったまま涙を流した。


 涙を流した。

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