第24話
水曜の朝。スマホの電源を落として油断していた僕を起こしたのはインターホンだった。
続いてドアが叩かれる音。甲高い金属音が悲鳴のようだ。僕のアパートは築三十年を優に超えており、もしかしたら建付けの悪いドアは壊れるかもしれない。
朝の安寧を奪われたことに眉を顰めながら普段着に着替えて顔を洗う。
最低限の身だしなみを整えて来訪者を出迎えた。
「ちょっと!」
「僕のアパートのドアは古いんだから、本気で蹴らないで。壊れるから」
「それどころじゃないっての!」
無意識のうちに閉じかけた瞼を持ち上げて桜花の顔を見る。口ぶりからして焦ってきたはずなのに服も髪型も崩れていなかった。夢の世界に意識を持っていかれそうになって、反射的にドアノブを掴む。
桜花は不自然な動きをする僕に困惑の眼差しを送った。
「寝てたの?」
「まあ」
「スマホに連絡が付かなかったのも、もしかして」
「電源落としてた」
桜花の肩もがっくりと落ちた。ついでに肩からトートバックがずり落ちた。
「今すぐ連絡したかったのに、電話が通じないから結人に何かあったのかもって心配したのに……」
「ここ最近スマホで起こされてるから、今朝は鳴らないようにしたかったんだ」
「まあ、その気持ちはわからなくないけど、他の連絡手段は残しといてよ」
「ごめん」
小さく背を曲げて謝ると、桜花は深い溜息を吐いた。固定電話も置いていない僕の家にスマホ以外の連絡手段を求められても、実際のところはどうしようもないのだが。
ふと睡魔が寄ってきたので目頭を揉んで追い払った。
「でさ、ここに来たのはなんで?」
「忘れるところだった」
気怠そうな雰囲気を一掃して桜花が咳払いをする。
「今日も麻奈と戻れなかったの」
「となると、これで三日連続なわけだ」
「そう。一日二日のことなら適当に誤魔化せるんだけど、これ以上続くようならボロが出ちゃうかもしれないと思って。ねえ、どうしたらいい?」
切羽詰まった勢いてまくし立てられて、気圧されてしまって一歩後ずさる。お互いの顔が近くなって心臓が縮み上がりそうなほどびっくりした。適当に目を泳がせて視界に入らないようにする。
「とりあえずサボるしかないんじゃないかな」
「麻奈に迷惑が掛からない?」
「あの人は講義を一回や二回サボったぐらいで単位を落とす人じゃないから。そういえば京子さんは何か言ってた?」
「特段何も言われなかったけど、ちょっと悲しそうっていうか……話したそうな雰囲気じゃなかったから、挨拶しかしてない」
桜花は首を横に振る。藤宮家において桜花と京子さんの仲は上手くいっていないらしい。せっかくの顔見知り同士仲良くしてほしいと思うが、世の中思い通りにはいかない。悲嘆に暮れてもどうしようもないのだ。
「とにかく、今日は休んだ方がいいと思う。ホントのところ、講義に行っても寝てるだけなんじゃない?」
「バレたか」
桜花は可愛く舌を出して頭を小突く。素体が麻奈の身体のせいで知的な顔つきとあまりかみ合っていなかった。しかし今はそんなことはどうでもいい。
プリントやら教科書やらで荒れ放題の床の中から家のカギを探す。手のひらサイズの小さなカギだけれど、自分の存在を訴えるように鈍い銀色に輝いていたのですぐに目についた。邪魔な本を脇にどけて摘まみ上げる。
足場が無いのでその場で回転して桜花にカギを手渡しした。
「今日は僕の家で休んでて。今日受ける講義の一覧とか持ってる?」
「多分これだと思う」
麻奈のスマホに映された週間予定表を、僕のスマホで撮影する。今日の講義は午前と午後に一つずつ入っていたが、僕の講義の予定とは重なっていなかった。これなら走ればどうにかなるかもしれない。
「こんな写真を撮ってどうするの?」
「代返」
「それってズルなんじゃ……」
桜花の顔から血の気が引いていく。悪事に分類される代返は根が真面目な桜花にとっては禁忌らしい。
「麻奈さんのためだから」
「……」
「麻奈さんのためだから。仕方ないんだよ」
もの言いたげにしている口を強引に押しとどめた。下手をすれば停学もあり得るリスキーな手段だが、麻奈のためには致し方ない。いくら真面目に生きようとしても、嘘をつかなければいけないこともある。心の中でそんな言い訳をした。
「まあ、頑張って」
「任せといて」
引き気味の応援に自信を持って胸を叩く。勢いあまって気管から変な音がした。
桜花が据われる最低限のスペースを作っていると、そろそろ大学に行く時間になっていた。慌てて教科書や筆記用具をカバンに放り投げて玄関に向かう。
「カギ閉めといて!」
「わかったー」
「あと、人の私物を漁らないでよ」
「わかってるって。早く行かないと間に合わないんでしょ」
テレビを見ながらの平和そうな返事に若干の不安を覚えた。しかし突っかかってる時間は残っていなかった。
もう一度「行ってくる」と大声を出してから玄関を飛び出した。
桜花の笑い声しか聞こえてこなかった。
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