第22話
来たる月曜日。講義室の机と顔を密着させている僕を見て、陽介が肩を竦めた。
「覚悟を決めろ」
「でもさ……」
「宮瀬さんの前で言い切ったんだろ? 彼女の頼みを断ってどうする」
半導体の素材についての講義を聞き流しながら、僕と陽介は麻奈にどうやって謝るかを考えていた。陽介は泣き付いたり土下座したりとあまり見栄えが良くない方法ばかり提案してくるので、結局何の役にも立たなかった。
陽介は教科書で僕の頭を軽く叩く。
「ここで寝てても時間が過ぎてくだけだぞ。下手したら藤宮さんとの約束の時間に間に合わないし、それこそ最悪のパターンじゃないか」
頭痛で辛い頭を上げて黒板近くの壁掛け時計を見た。返信が来ていない一方的なメールで決めた麻奈と会う時間まではあと二時間あった。電車の時間を加味しても、藤宮家に着くには十分に余裕があるだろう。
時間について考えたせいで頭に茨が巻かれたように痛む。搾りかすほどの体力を使ったので、もう一度机と睨み合った。
「おいおい、寝るならせめて自分の家にしろよ。こんなところで寝ると腰を痛めるぞ」
「まだそんな歳じゃない」
「若いうちから気を付けないと後悔するぞ」
「現在進行形でしてる」
「それは取り返しのつく後悔だろ。早く行ってこい」
「……」
「宮瀬にチクるぞ」
「行かせていただきます」
先日にファミレスで恰好をつけて宣言したので、今の気力のない様子を桜花に聞かれたら振られるかもしれない。桜花の彼氏としてそれだけは避けたかった。
脅しで簡単に立ち上がる僕に陽介は溜息をつく。
「頑張って来いよ」
「それじゃ」
「じゃあな」
陽介に軽く手を挙げて講義室を後にした。
肌に刺さるような冷たい風が通るホームでも、人で溢れた電車の中でも、ひたすら麻奈に会うことばかり考えていた。時計の針が瞬間移動してしまったかと思うほどに藤宮家までの時間は一瞬だった。
一応、大学で今から行くという内容のメールを送ってみたものの、未だに返信は来ていない。もしかして家にいないのでは、という最悪の想像が脳裏を過ったが、頭を振って強引に打ち消した。
インターホンに手を伸ばす。来訪者を知らせる音が鳴り、部屋の中から足音が聞こえてきた。緊張で息を詰まらせながら待っていると、トートバックを肩に下げた京子さんが顔を見せた。
玄関前で立ち尽くす僕を見て目を瞠る。
「どうしたの?」
「麻奈さんと話したくて来たんですけど」
「麻奈ならリビングで本を読んでるわよ。私は今から買い物に行かなきゃいけないけど、上がって」
「お邪魔します」
肩を窄めて京子さんの脇を通ろうとすると、京子さんは細長い指を僕の右肩に食い込ませた。口を僕の耳元の近づけ、そっと囁く。
「何があったか知らないけど、ちゃんと解決して。宮瀬さんとの入れ替わりがあったとしても、あの子、最近変だから」
「わかりました」
「何かあったら私に電話しなさいよ」
破られたノートの切れ端を受け取る。十一桁の数字が並んでいて、おそらく京子さんの電話番号だろう。粉々に千切れないように慎重にポケットの中へ突っ込んだ。緊急の連絡先があるのはありがたいが、できれば使いたくない。
「それじゃ、ごゆっくり」
かかとの高いヒールを履いて京子さんは大学へ行ってしまった。
リビングに入っても人影は見えなかった。けれど、わずかに凹んだソファとテーブルの上に放り出された本があった。京子さんの言う通り、麻奈はここで本を読んでいたのだろう。しばらく棒立ちで待ってみるが、麻奈が現れる気配は無い。こちらから探さなければならなかった。
「麻奈さんが居るとすれば……」
寝室のドアノブに手を掛ける。カギはかかっていなかった。
少しずつ腕に力を込めてドアノブを回す。ドアは侵入者を妨害することなくすんなりと受け入れた。
南窓から日が差し込む寝室で、麻奈は窓際の椅子に座って階下の景色を眺めていた。憂いのような哀愁のような、あらゆる孤独を湛えた透き通った目をしていた。
麻奈は部屋に入ってきた僕を見て、視線を移してわずかに目を開く。そして口元が弧を描いた。
「バレちゃいましたか」
「京子さんが教えてくれました」
「姉さんは私の気持ちも考えてくれないんだから……」
ため息をついていても、わずかに嬉しそうな口角は上がったままだった。麻奈の左手側にあるベッドを指して口を開く。
「立っているのも辛いでしょうし、そこに座ってください」
僕は言われるがままに腰を下ろした。仄かに太陽の匂いのするシーツは温かくて、柔らかい反発で僕の体重を受け止めてくれた。大学から休むことなく立ち続けていた足が久しぶりに休めたことで、じんわりと痺れてきた。
桜花は椅子を窓の向こうからこちらに向けると、座ったままで深々と頭を下げた。
「先日は取り乱してすみません」
突然の謝罪に狼狽しながらも、僕は平静を取り繕う。
「麻奈さんが謝ることじゃありませんよ。僕も変な態度を取ったのが悪かったです。こないだのことはお互いに謝って終わりってことにしませんか」
「結人さんがそう言うなら……わかりました」
眉尻を下げながら桜花はそう言った。物分かりの良い彼女の態度に僕も安堵した。このまま泥沼に突入したら二度と戻ってくることができない予感がしていたからだ。
曲がっていた背筋を正して窓際に座る麻奈を見据える。
「桜花は麻奈さんのことを何も責めていませんでしたよ」
「日記でも読みました。結人さんが伝えてくれたんですよね」
「伝えたというより、誘導尋問に乗せられた感じでしたけど」
「上手く嘘をつく人より、彼女に隠し事をしない人の方が、私としては好きですよ」
大きな黒目を細めて桜花は微笑む。窓際で微笑む女性は西洋の絵画にありそうな構図だなと思った。それと同時に桜花以外の人に好きだと言われて気持ちが纏まらなくなる。他人の好きをストレートに受け止められるほど、僕は器量の大きい大人ではない。
「結人さんには桜花がいますからね」
「それは、その……」
「浮気する人はあまり好きじゃないですよ」
彼女もちの僕に好きだと言っておいて、浮気は嫌いだと言う。かみ合わない二つの発言に僕は辟易して溜まった息を吐いた。
「僕にどうしろって言うんですか」
「どうして欲しいなんて思いはありません。ただ、桜花さんが羨ましいな、って思っただけです」
「桜花が?」
「結人さんに恋い慕われ続けているなんて、羨ましいじゃないですか」
遠い故郷を思い出しているような声だった。
麻奈の中で過大評価されている気がして頬が熱を帯びてくる。慣れない褒め言葉にどんな対応を見せるべきなのかわからなかった。
「僕はそんなに立派な人間じゃないですよ」
「桜花さんを幸せにできるだけで立派な人間です。私には勿体ないくらいの人です」
まだまだ続く褒め殺しに頭が沸騰した。思っていることないこと何もかもが混ぜこぜになって、秩序を持たないまま言葉として生み出されていく。
「麻奈さんは美人ですし、きっと良い人が見つかります」
今度は麻奈が照れる番だった。陶器のように真っ白だった頬が桜色に染まった。膝に置かれていた本が動いて、ページを開いたまま床に落ちる。取り柄だった純真な雰囲気はどこかに消え、嘘がバレた子供のように動揺していた。
「私なんて誰の彼女にもなれませんよ!」
「飲み会ではすごく告白されてたじゃないですか」
「あれはそうかもしれませんけど……やっぱり、知らない男子と付き合える気がしないんです」
「僕のときはすごく積極的だったのに?」
桜花は終わりのない追及をする僕から目を背けた。
「なんというか、運命みたいなものを感じたんです」
「運命?」
「桜花さんが私の中にいたからかもしれませんけど、結人さんはきっと仲良くなれるかもしれないって思ったんです」
「うーん……」
筋が通っていそうで通っていない理論に僕は首を捻った。麻奈が桜花の心臓を持っていると知った今なら納得できないことはない。けれど潤んだ目で訴えかける麻奈を見て、複雑な感情を抱えながらも強引に納得しておくことにした。
「桜花の心臓のことも、結人さんのことも私の中で腑に落ちたつもりです」
「それならよかったです」
「これからもよろしくお願いします。桜花とも仲良くしてくださいね」
「もちろんです。僕は桜花の彼氏なんですから」
「そうでしたね」
口元に手を当てて桜花は頬を緩める。わずかに暖房が効いた部屋がさらに暖かくなった気がした。ほんわかとした空気に当てられたせいか、僕の気持ちまで緩み切っていた。自然と口角が上がって笑いを浮かべてしまう。
ベッドの枕元に視線を移すと、少し古ぼけた交換日記が目に入った。
「これ、読んでみてもいいですか」
「だめです」
「どうしても?」
「女の子同士の秘密が書かれてるんです。いくら桜花の彼氏の結人さんだとしても、見せるわけにはいけません」
手を近づけるたびに麻奈の眉間に皺が寄るので、後ろ髪を引かれる思いで交換日記を諦めた。
適当に話題を逸らして中身を聞こうと試みる。
「桜花はなんて書いてるんですか」
「言えません。いくら聞こうとしても無駄ですよ」
「やっぱりバレてますか」
「当り前です。桜花との約束は結人さんより大事です」
自分と比べられている対象が何とも言い難いもので、別に僕が貶められているような気分にはならなかった。なにより腕を組んで息巻く麻奈はわずかに桜花の態度と重なって見えた。
またしても無意識に麻奈を桜花として見ている自分に気付いて頭を振る。
今日やるべきことは済んだ。手持ち無沙汰のままで宮瀬家に残っていてもしょうがない。ベッドから重い腰を上げて立ち上がる。久しぶりの重力の存在に膝が曲がりそうになった。
「今日はもう帰ります」
「もう少しゆっくりしていてもいいんですよ」
「手土産も持ってきてないですし、今日は謝りに来ただけなんで」
「じゃあ許しません」
「さっき許すって言ったじゃないですか」
「言いましたけど、撤回します」
拗ねた子供のような理論を振りかざす麻奈。頬をわずかに膨らませてそっぽを向く様子は駄々をこねているようで、傍から見ていて面白かった。
そっと手を乗せて頭を撫でてみる。同じ人とは思えないほど柔らかな髪の感触が手のひらいっぱいで感じられた。
麻奈は頭を動かさず、視線だけを僕に向けてくる。
「なにしてるんですか?」
「ちょっと撫でてみたくなったので」
「そうですか……」
思っていたよりも案外大人しく受け入れてくれた。
「怒らないんですね」
「自分からやっておいて、それ聞きます?」
「確かに」
いつまでも撫で続ける僕の胸に、麻奈は小さな頭を預けてくる。日差しを受けて艶やかに輝く長い髪から新鮮な果実の甘い匂いがした。オレンジかグレープフルーツか。とにかく鼻に透き通るような心地よい気持ちがした。
「ずっとこうしていられたらいいのに」
「桜花に怒られますし、友達に浮気って言われるので困ります」
「その友達も私たちのことを知ってるんですか」
「僕と桜花の昔からの知り合いです」
「そうなんですか」
気持ち良さそうに目を瞑ったまま、麻奈は呟いた。僕はその小さな声に耳を傾けながら無心で頭を撫でた。さらさらと指の隙間を伝っていく感覚が愛おしくて、を撫でるようないつまでも撫でられていそうな気がした。
しばらく経ったところで、やっと自分が宮瀬家に来ているのかを思い出した。ちょうど玄関の開く音が聞こえる。
「桜花? 帰ったわよ」
大声で妹を呼ぶ京子さんの声が聞こえる。僕たちは慌てて密着させていた身体を離した。名残惜しい温かさに若干の後悔を覚えるが、目を瞑って気持ちを塗り潰した。
ふと匂う爽やかな香りに理性を持っていかれそうになるのをぐっと堪えて、顔に浮かんだ焦りの表情を笑顔で上書きする。
「桜花?」
リビングから買い物で溢れそうなトートバックを肩に下げた京子さんが顔を覗かせる。僕たちの関係を何も疑っていない純真な目だった。桜花も赤らめていた表情から一転して普段の妹を演じた。
「どうしたの」
「リビングに居なかったから、どこに行ったのかに気なっただけよ。こんなところで椎葉くんとなにしてるの?」
「ちょっと桜花さんの話をしてただけよ」
「桜花さんって、あの入れ替わりの?」
「そう。本当にそれだけ」
「ふうん」
麻奈の話に京子さんが眉尻を上げたものの、詳しく突っ込んでくることはなかった。
今度は僕と目を合わせる。悪いことをしたわけでもないのに背筋がピンと張った。
「椎葉くんは今日空いてる?」
「はい」
「夕飯食べていきなさいよ」
野菜やら冷凍食品やらがいっぱいに詰まったトートバックを持ち上げながらそう言った。横目で寝室の時計を見ると六時まであと数時間はある。このままダラダラと過ごしているといつまでも帰れなくなる気がした。
京子さんに視線を戻す。
「まだ昼間ですし、もう帰ります」
「せっかくだからいいじゃない。麻奈ももうしばらく話したそうにしてるし」
「えっ」
少し驚いて目線を下に向けると、捨てられた子犬のように見上げている麻奈がいた。さすがは姉妹。お互いのことは言わなくてもお見通しだ。
わずかに残っている課題のことを考えてみるが、言い訳になりそうなほどでもない。
仕方なく首を縦に振った。
「わかりました。お願いします」
「わかったわ。もうしばらくゆっくりしてて」
京子さんは口角を上げて寝室のドアを閉めた。軽やかなスキップの足音と共にドアの向こうにあった人の気配が遠ざかっていった。
床の軋む音が聞こえなくなったところで、麻奈が顔を上げる。
「桜花さんとの思い出を聞かせてもらえませんか」
「あんまり面白くありませんよ」
「関係ありません。聞かせてください」
しばらく黙って見つめているが、麻奈は梃子でも動かせそうになかった。
「桜花と会ったのは、中学二年のときでゲームセンターでした」
それから夕食ができるまで、僕たちは他愛のない話に花を咲かせていた。
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