第21話
無気力な顔で大学に行き、陽介に心配されるなど些細な事件はあったが、できるだけ普段通りの平日を過ごしていた。何を勉強して何を食べたのかも思い出せなかったが。
土曜の夜。深い意味も無く歴史ドラマを呆然と眺めていると、スマホに着信があった。
麻奈からのメッセージだった。
『明日は入れ替わります』
たったそれだけ書かれていた。
翌日。僕は重い足取りで大学に向かった。ちょうど校門の前で麻奈の姿を見つけた。茶色のコートに白のデニムパンツを着ているが、こちらに顔を向けていないせいで表情はわからない。もしかして桜花ではないのではないか。麻奈が来ているのではないか。意味のない想像が脳裏を掠めた。
鉄が詰まったように重い足を持ち上げて、極力足音を立てないようにしながら麻奈に近づく。けれど枯れ葉の擦れる音で麻奈は振り返った。
「なにしてんの?」
怪訝な眼差しを向けてくるのは桜花だった。僕の中で凝り固まっていた緊張が一気に溶けだした。
「なんでもない。ちょっと驚かせようと思っただけ」
「そういうのは二人っきりにしてよ」
「ごめん」
元気なく謝る僕を見て、桜花は眉尻を下げた。
「なんか元気ないけど、もしかして病気?」
「病気だったらここにいないって」
「なら、頭?」
「そんなわけないだろ」
生真面目に返事すると、桜花は声を上げて楽しそうに笑った。上品なお嬢様というより元気な子供のような笑い方は、やはり桜花なのだと思い直すのに十分だった。なんど見ても飽きそうにない。
「ここに居ても面白くないし、どこか行こっか」
桜花は僕の手を引いて歩き出す。身に沁みる秋風が冷たかったが、右手に繋がれた桜花の手は温かかった。ずっとこの手を握っていたくて、繋がれた右手を少し強く握る。
黙って二人で歩くのが気まずい。適当に思いついた話題を振る。
「桜花の三回忌、クリスマスイブだってさ」
デートで振る話題じゃないと言った後に思った。しかし桜花は振り返りもせずに「へえ」と呑気な声を出す。
「結人は私の家に行くの?」
「大輔さんに呼ばれてるから、行こうと思ってる」
「彼女の葬式に出ても悲しくなるだけだよ。行く意味なんてどこにもない」
「本人が言うか? それ」
他人から故人の気持ちを諭されるのと、故人から直接話を聞くのとでは説得力が大違いだ。桜花に言われて葬式に行くのを辞めようと思っている自分がいた。しかし大輔さんへの恩もあるし、顔を見せに行くべきだと思い直した。
桜花は歩みを止めることなく口を開く。
「まあ、結人がわざわざ私の実家まで言ってくれることは嬉しい。しっかり私の遺影を拝んできて」
「嫌だよ。本人が帰ってきたのに死人扱いはしたくない」
「遺影がイェイ」
「いきなり何?」
「私の遺影のことよ。ちょっとは笑ってよ」
振り返って桜花は頬を膨らませた。どうやら彼女なりの渾身のギャグだったらしく、僕相手に不発で終わってしまったことが不満で仕方ないと顔に書いてあった。しかしギャグに顔が明るくない僕は顔を逸らして誤魔化した。
だらしない彼氏の態度に桜花は溜息をつく。
「まあ、それはそれとして。親には私のことを言わないでね」
「どうして。言った方が喜んでもらえるんじゃないか」
「それはそうかもしれないけど、変な希望を与えたくないじゃん?」
「変な希望?」
聞きなれない言葉にオウム返しをする僕。桜花は小さく頷いた。
「そう。私の親は私の死を受け入れはじめてるのに、私が生きていたって知ったら喜んじゃうでしょ」
「それっていいことじゃないか」
桜花は「そうかもしれない」と話を続ける。
「でも、もう一度私が死んだとき、お父さんとお母さんはもう一度最初から私の死を受け入れないといけないのよ。そんなことをさせたら絶対ダメ」
普段の明るい調子を隠して語る桜花の背中はとても小さく見えた。桜花の言う通り、大輔さんや桜花の母である千夏さんは桜花が死んだ数か月は泣き続けていた。ひどいときは僕の顔を見ただけで目を赤くしてしまうほどだった。そんなあの人たちがもう一度悲しむ様子は僕も見たくなかった。
「ま、そういうことにしておいて。どんなことがあったとしても、私は一度死んだ人間。それは変わらないから」
「……わかった」
僕は頷いた。
右手にある桜花の手が、とても冷たくなったような気がした。
陽介と行ったテニスコートで遊び、ゲームセンターにも行って桜花が満足するまでお金を溶かし続けた。彼女が笑ってくれていたのは嬉しかったけれど、空になっていく財布を眺めていると自然と涙が出てきた。
散々遊びつくした後、僕たちはゲームセンターの近所にあったファミレスで休憩することにした。
パスタやドリアといった洋風の料理が並ぶメニュー表を眺めていると、疲れを知らない桜花の声がした。
「こないだ麻奈と喧嘩した?」
いきなり核心を突かれた僕は動揺していたかもしれない。
「どうしてそう思ったの?」
「交換日記が微妙に湿ってて、麻奈の字がすごく震えてたから、泣いたんじゃないかなって思って。日記に結人と会ったって書いてあったから、犯人はこいつしかいない! って思ったの」
「犯人って……」
まるで僕が悪いことをしたみたいじゃないか、と言おうとして口を噤んだ。桜花はマープルおばさんのような探偵が真実を見抜く鋭い目をしていた。
何も反論しない僕を見て、上がっていた口角がまた一段と上がる。
「お姉さんに相談してみなさいよ」
「同い年だろ」
「私の方が一ヶ月早く生まれたもん」
「ほぼ誤差じゃないか」
「細かいことはいいの。それより、私に話してみなさい」
ウエイターが水を持って来たので、僕たちは一瞬だけ黙り込む。お互いに注文を済ませて一緒に会釈すると、また会話を再開した。
桜花はメニュー表の上からじっと僕を見つめる。口元が隠されていても、生前の桜花と麻奈の差はハッキリとわかった。
乾燥した喉を冷水で潤して、向かい側の彼女を見据える。
「聞いたら後悔するかもしれない」
「トラックで引かれて死ぬ後悔より大きい?」
「わからない」
「じゃあ、言ってみて」
これだけ脅しを掛けても桜花の笑みは崩れない。桜花には敵わないな、と心の中で呆れ笑いを浮かべた。
机の上に手を乗せて、メニュー表に視線を落としながら口を動かす。
「桜花の心臓なんだけど……」
「……うん」
「麻奈さんが持ってるかもしれない」
桜花は黙り込んだ。さっきまで気にも留めなかった店内の音楽がやけに耳障りに聞こえる。何度も聞いたことのある懐かしい音楽のはずなのに、今に限っては邪魔で仕方がなかった。
ふーっ、と長い息が漏れる音が鼓膜に響く。
「なるほどね」
「納得できるの?」
机の上に頬杖をつき、窓の外を眺めながら麻奈は語る。
「入れ替わりの原因がそれだって考えたら、色々な辻褄が合うじゃない。元の心臓の持ち主の記憶を受け継いだドナーの話も聞いたことがあるし、魂ごと乗り移ったとしても別に変だと思わないわよ」
淡々と話す桜花は無感情で、何を考えているのかさっぱりわからなかった。しかしあらゆる感情がカオスに混ざり合っているのはなんとなくわかった。笑うでもなく、泣くでもなく事実を認識する桜花は、麻奈とは別の理由で声が掛けづらかった。
桜花が僕の視線に気づいて目を動かす。
「どうしたの」
「いや、なんて声を掛ければいいのかなって……」
桜花は声を上げて笑った。
「そんなにビクビクしなくていいわよ。麻奈が私の心臓を持ってるって話はちょっと驚いたけど、私は別になんとも思ってないから。麻奈さんは何か言ってたの?」
「桜花が死んだのは自分のせいだって思ってた」
「なるほどねぇ」
ストローを噛んだ桜花の口からぼやくような声が漏れた。
「私が死んだおかげで麻奈は生きてるから、それに責任を感じちゃってるってわけか」
「だいたいそんな感じ」
「それに結人が要らないことを付け加えたせいで、余計にややこしくなったわけだ」
「名推理はよそでやって」
ため息混じりに桜花に愚痴をこぼす。何かを勘違いした麻奈の話を僕が肯定してしまったのが関係のこじれた原因だ。桜花の顔を見ていると、あのときの泣き顔が思い出されて、かさぶたになっていた心の傷がまた開いた。
気まずくなったところでちょうど注文した料理が運ばれてくる。黙って料理を食べようと思っていた矢先、桜花がパスタ片手に尋ねてきた。
「で、どうして喧嘩したの」
「麻奈さんといるときも、桜花のことを考えてますよねって言われて……」
「認めちゃったわけだ」
ドリアを口に運びながら頷くと、桜花は今までにないほど大きなため息をついた。自分でも悪い対応だったと思ったが、すべては後の祭りだったのだ。桜花はミートソースのついたフォークで僕を指さして目を細める。
「女の子の前で他の女の子を褒めるなんて絶対にダメ」
「僕は桜花の方が好きなんだけどな」
僕の呟きに桜花の頬が桜色に染まった。一瞬だけ呆けていたが、我を取り戻すなりブンブン手を振り回した。
「今はそういう話をしてるんじゃないの! 気持ちは嬉しいけど!」
「嬉しいんだ……」
「彼氏に褒められて嬉しくないわけないでしょ! でも、それとこれとは話が別なの!」
机をドンと叩いて桜花は決然と言い放つ。怒っているのに口端が上がっているせいでただひたすら可愛いだけだった。麻奈の顔であっても、コロコロ変わる表情は桜花の自由奔放さが表れていた。
自分が劣勢になったことに気付いた桜花が咳払いをする。
「ともかく、どんなことをしてでも麻奈に謝っておくべきよ」
皿の縁で焦げたドリアを取りながら僕はぼやく。
「それはわかってるけど、どうやっても会ってくれないって」
「私からも麻奈を説得してみる。交換日記にそれとなく書いておいてあげるから、あとは本人同士でどうにかして。私だって、結人と麻奈が不仲になって身体を貸してもらえなくなるのは嫌だもん」
寂しそうに呟く桜花の目は、ここではないどこか遠い場所を見つめていた。寂寥の色が滲んだ声は僕の心にじんわりと沁みてくる。僕がなんとかしないといけない。これ以上桜花に迷惑を掛けるようなことをしてはいけない。そんな気がした。
空になったドリアの皿を押しのけて、目の前に手狭なスペースを作る。空いたスペースに覚悟を決めた両手を添えた。
「月曜にでも謝ってみる」
「頼むわよ。文字通り私の人生が掛かってるんだから」
「麻奈さんが居ないと桜花は生きられないもんな」
「その言い方だと私が依存してるみたいじゃない!」
「でも事実じゃん」
「まあね」
コーラを啜りながら片頬を上げる。桜花もミートソースのついた口で弧を描いた。
しばらく雑談で盛り上がった後、僕たちは解散した。
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