第20話
悶々とした気持ちを抱えたまま、僕は自分の部屋に籠って数日を過ごした。
「で、改まって話したいことってなんだよ」
「ちょっとな……」
大学から数駅離れたカラオケボックスの一角で、僕と陽介は向かい合っていた。室内には換気扇の回る音が聞こえるだけで、何一つとして音楽は聞こえない。
手を重ねて俯いている僕を見て、陽介は肩を竦めた。
「せっかく来たんだからさ、何か歌おうぜ」
「ごめん、そんな気分じゃない」
「それならさっさと本題に入ってくれよ」
語気をいら立たせて陽介は溜息をついた。
陽介は大事な友達だ。絶望の淵にいた僕を救ってくれたことに感謝しているし、心が通じているとも信じている。しかし、いざ秘密を打ち明けるとなると、想像以上に心にかかるハードルが高かった。
どう言ったらいいのか。どんなことを言ったらいいのか。解のない問いが頭の中で渦巻いて、終わりのない迷宮へと僕を誘い込む。
陽介はマイクを片手に音調を調べていた。
「まずは一曲歌ってからにしようぜ。もしかしたら気分が変わるかもしれないぞ?」
思考が疲れ切っていた僕は促されるままにマイクを受け取った。
「疲れた……」
五分間も熱唱した僕たちは思いっきりソファに腰を下ろした。マラソンを走ったように体力を使ってしまったけれど、心の重石は大分軽くなった。こんがらかっていた頭の中も綺麗に整理された気がする。
額に輝く汗を拭って陽介はニカッと笑った。
「気持ちよくなった今なら言えるんじゃないか」
陽介の言った通り、僕の気持ちの綱は緩んでいた。ほどけた糸を編みなおして、言葉として口に出す。
「実は……」
京子さんの家で知った事実を僕は語った。
陽介は、初めは驚いて目を丸くしていたものの、次第に真面目な顔つきになっていった。話が終わるころには眉が下がり、沈鬱な表情と化していた。
カラオケ室内がまた静かになる。今度は陽介も暗い顔をしている分、より暗鬱な雰囲気が部屋全体に広がった。
こんな事態に巻き込んだことが申し訳なく思えてきて、僕は無理やり口を開く。
「入れ替わりの原因も心臓にあるんじゃないかって思ってる」
「でもさ、わかってもどうしようもなくないか?」
「まあ……」
桜花の身体は死んで灰になってしまったし、麻奈の身体から心臓を奪うわけにもいかない。この事実を知ったところで手の打ちようもなかった。
「桜花と麻奈には?」
「言った方がいいのか悩んでる」
「まあ、事態が事態だからな。悩むよな」
京子さんに僕がドナーを知っていると話した後、麻奈と名前を伏して桜花との入れ替わりについて説明した。初めは思い切り笑われるほどに信じてもらえなかったが、僕が話していくうちに思い当たる節があったらしく、やがて納得してくれた。
「京子さんには打ち明けられたのに、今度は宮瀬さんと桜花に秘密を抱えたってわけか」
無言で頷くと、陽介はテーブルの上に頬杖をついた。深く息を吐いて、自分の考えを纏めているように見えた。
「俺は二人に教えてもいいと思うけどな」
「やっぱりそう思う?」
「宮瀬さんは普通に許してくれるだろうし、麻奈も心臓をくれた本人と話せるんだから、そんなに気に病まないと思うぞ」
あの快活な生活の桜花が怒る姿など想像できなかった。むしろ僕を励ましてくれるような気さえしていた。しかし、この事実は墓場まで持って行った方が良いと思っている自分がいるのもまた本心だった。
コーラのグラスに口を付けながら陽介はキッパリと言う。
「お前が悩んでたって仕方ないって。いきなりのことに混乱しすぎなんだよ。もっと落ち着いて考えてもいいんじゃないか」
「僕は落ち着いてる」
「いや、焦ってる」
横目に睨んでくるその顔は、嘘を吐ける人間の顔ではなかった。
陽介がテーブルにグラスを置くと会話が再開する。
「結人が二人の気持ちの変化を怖がってる気持ちもわかる。でもさ、俺の考えだと心臓が宮瀬さんと藤宮さんの入れ替わりの根本的な原因なわけだろ? 結人がずっと隠してたとしても、京子さんから聞いたり、自分たちで思い至る可能性もあるんじゃないか?」
「それは……」
未来のことなど凡人の僕には知りようがない。膝の上で作った握りこぶしを見つめても、どんな返答をするべきか教えてくれなかった。
陽介は僕の肩に手を添える。
「思い切ってやってみろ。どんな結果になっても俺が付いてやるからさ」
頼りにならない岩のような腕に、僕は呆れ混じりに笑った。信頼できるかというと微妙なのに、背中を押してもらうにはちょうど良い応援だった。人と話せたことで自分の気持ちが大分軽くなった気がする。今なら行けるかもしれないと思った。
スマホ片手に電話を掛ける。
『はい、藤宮です』
「麻奈さん?」
『結人さんですか?』
「はい。今すぐ話したいことがあるんですけど、今から会えませんか」
『大学の図書館なら、一時間後ぐらいには』
「できれば人のいない場所で話したいんです」
電話の向こうにいる麻奈は考え込んでいるのか、小さな唸り声がする。
『わかりました。私の家でいいですか』
「はい。一時間ぐらいで行きます」
『ゆっくり来てもらっても大丈夫ですよ』
「はは……」
なぜ笑ったのか自分でもわからなかった。とにかく電話を切って立ち上がると、陽介にカラオケ代を握らせる。やることが決まった僕の行動はさっきまでの自分とは大違いだった。
真剣な話し合いに臨む僕に、陽介は右手の親指を立てる。
「行ってこい。俺も外で待機してやるから」
「お前は桜花の家を知らないだろ」
「そうだったな」
二人して鼻で笑って、僕はカラオケ店を後にした。
ピンポーン、と何度聞いたのか分からない音を鳴らすと、ドアから麻奈が顔を覗かせた。
「どうぞ。姉は大学に行ってるので、私一人ですよ」
口端を上げて出迎える麻奈に、僕は思わず目を逸らした。今まではただの女友達としか考えていなかったのに、桜花の心臓を持っている人だと思うと複雑な気持ちに襲われた。
出来るだけ顔を合わせないように俯き加減に歩を進める。いつもは遠いリビングがやけに近く感じられた。
ジュースと小皿に盛ったクッキーをテーブルの上に置いて、麻奈はソファに腰かける。話があって来たはずなのに、何一つとして言葉を発することができない。喉が固まってしまっていた。
人見知りのよう硬直する僕より先に動いたのは麻奈だった。
「姉と何かあったんですか」
「どうして?」
「先日の飲み会で結人さんと姉が会っていたと聞きました。その日以降、姉の態度がどこかよそよそしいので。きっと結人さんと何かあったんじゃないか、って思ったんです」
「京子さんが、ですか……」
態度が変になってしまったのは、麻奈の心臓のことを話したからだろう。しかし麻奈に見抜かれるほどの変化ぶりだと、かなり気にしすぎているように思う。また会ったときに話した方が良いかもしれない。
「姉と恋仲になったのなら、それは結人さんの自由です。彼女の桜花さんはともかく、私には気を遣わなくても……」
「違います! そういう話じゃないですって!」
誤解がどんどん深まりそうな気配がして、僕は両手を振って否定した。わずかに目元を赤く染めた麻奈は突然大声を出した僕に目を瞬かせた。
「違うんですか?」
「違いますって。そういう話じゃないんです」
何度も繰り返して否定する。
あまりにも全力な否定っぷりに、泣きそうになっていた麻奈は信じてくれたらしい。眦に溜まった雫を拭って笑顔を作った。雨上がりの空のような清々しい表情だった。
「じゃあ、どんな話か聞かせてください」
好奇心に燦爛と瞳が輝いている。姉と僕の恋話でないと知り、明るい話だと勘違いしているらしい。真っ暗な重い話を持ってきているだけあって、心にできた深い傷が抉られたような痛みを感じた。
麻奈に不必要な誤解を与えても申し訳ないので、僕は腹をくくる。
「一度聞いたら引き返せない話です。それでも聞いてくれますか」
こんなに真面目な声が出るんだと自分でも驚いた。ふざけ調子の話に盛り上がっていたのに、麻奈はいきなりの僕の様子にきょとんとしていた。
ゆったりと崩していた足をまっすぐに揃えて腰をピンと伸ばす。
「聞きます」
「後悔するかもしれません」
「聞かなくて後悔するよりはずっといいです」
相好を崩す麻奈を見て、心にあった重石が少し軽くなった気がした。僕は深呼吸をして姿勢を正す。なんだか場違いなお見合いみたいだと思った。
思わせぶりに口を動かすと、麻奈は小さく縮み上がった。緊張しているのだろう。
「麻奈さんの心臓のことなんですけど……」
「姉から聞いたんですか」
「はい」
低くも透き通った声が聞こえて顔を上げる。形の良い眉がわずかに下がっていた。
「で、その心臓がどうかしたんですか」
喉を鳴らして息を呑んだ。握る掌が汗ばんでいるのが分かる。慣れない手の感触が気持ち悪いまであった。しかし今さら引き返すわけにもいかないので、怯える自分の心を叱咤した。
「その心臓は、桜花の心臓です」
麻奈は何も言わなかった。いや、何も言うことができなかった、という方が正しいかもしれない。無意識に空いてしまった口に手を当てて、黒真珠のように綺麗な瞳を大きく開いていた。麻奈の頭の中でどんな考えが巡っているかは知らない。しかし顔から血の気が引いているのを見て、信じられないと思っているのは推察できた。
京子さんから預かった手紙と大輔さんから貰った写真をテーブルの上に置いた。
「これはドナーの家族から貰った手紙の写真です。見てもらえばわかると思いますが、麻奈さんの字によく似てるます」
「間違いなく私の字です。便箋の色も書いた内容も記憶と全く同じです」
「やっぱり、そうですか」
「でも、こんな偶然があるなんて……」
手紙とスマホの間に何度も視線を往復させながら、麻奈はこぼすように言った。現に僕だってこんな偶然があるなど信じられない。たまたま知り合った女性が桜花の心臓を持っているなど、天文学的確率だろう。
麻奈の胸元に目を向ける。あそこにある桜花の心臓が、本来の持ち主から宿替えして今でも活動しているのだ。
心臓に思いを馳せている僕をよそに、麻奈は大きく息を吐いた。
「桜花に心臓のことは?」
「まだ言ってないです。今度入れ替わってもらったときに言おうと思っています」
「それなら、交換日記に書かないほうがいいですね」
「できればお願いします」
僕たちの視線は手紙と向かい側に座る相手との間を何度も往復していた。普段会うときは大学のことや桜花のことで盛り上がっていたのに、見知らぬ人間を前にしているように話しづらかった。
「私は、桜花のおかげで生きてるんですね」
「そうかもしれませんね」
桜花が死んでいなければ麻奈は死んでいた。桜花の死によって麻奈の命は生きながらえることができたのだ。麻奈が生きていることをおかしいと思う自分に嫌悪感が募る。
「私がいなければ、桜花さんは……」
「そんなことないです!」
このままだと麻奈の存在を否定しかねなくて、僕は叫んでしまった。
「確かに麻奈さんは桜花のおかげで生きてるのかもしれませんけど、桜花が死んだのは事故によるものです。麻奈さんがどうなろうとも、桜花は間違いなく死んでいました」
心臓が鋭い棘が刺さったように痛む。抜けば抜こうと言葉を重ねるほど、深く醜い傷口はどんどん広がっていった。
「麻奈さんが生きようと死のうと、桜花は死んでたんです。麻奈さんは関係ないんです」
「でも……」
「元はといえば、クリスマスの日に桜花を殺したのは僕なんです。麻奈さんは悪くないんです」
汚い言葉を垂れ流しにしている間、麻奈は何も言わなかった。
僕はゆっくりと顔を上げる。唇を噛んで俯く麻奈が嫌でも視界に入ってきた。涙に潤んだ眼差しで見つめられると、純真な気持ちに対する罪悪感が湧き上がってきた、
立ち上がって高説を垂れる僕に向かって麻奈が手を伸ばす。
悟りの境地だ。そう思った。
「もう、いいんですよ」
「何がですか」
「私の前に居たくないんですよね」
「そんなこと……」
「この身体を桜花さんの身体だと思いたいんですよね」
「……違います」
「大丈夫です。わかってますから。結人さんが好きなのは桜花さんですよね」
僕は閉口した。それが麻奈の質問を肯定することになると知っていたのに。
麻奈を通して見ていたのは桜花だった。最初に麻奈の身体に桜花が宿っていると知ってから、僕は麻奈といるときも桜花と一緒に居る気持ちになっていた。
僕は心の中から無意識に麻奈を排除していたのだ。
反駁することができなくて、何も言えないまま、面白くもないつま先を見つめる。すすり泣く麻奈の声が鼓膜に響いた。
「今日は帰ってください」
「ですけど……」
「週末には桜花と会えるようにします。ですから、今日は帰ってくださいよ」
声を押し殺して泣いている麻奈を見ていられなかった。
僕は彼女に背を向けて玄関へと歩き出す。リビングからとめどない号泣が聞こえてきて、目の前に映る何もかもが色を失っていった。まるで僕ではない誰かが自分を操っているように思えた。
それからどうやって家に帰ったのか思い出せない。気が付けばベッドに身体を横たえていた。時計を見る気にもなれず、どれほど時間が経っているのかもわからない。とにかく夜になっていることだけはわかった。投げ出されたスマホはさっきから迷惑な着信音を鳴らし続けている。こんなにしつこい相手は大方予想がつくので、あえて無視していた。
耳障りな音楽を聴きながら、僕は意識を手放した。
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