第19話
僕が読み終えるまで、京子さんは一度も口を挟まなかった。
「なんですか、これ……」
「ドナーから心臓をもらったときに麻奈が書いた手紙よ」
「どうして京子さんが持ってるんですか」
「私がコーディネーターに渡してるから。本当は何十枚もあるんだけど、全部ドナーの家族に渡してあるの。今結人くんが持ってるのは麻奈が先週書いたたもので、出す前の手紙よ」
「これを僕に読ませてどうしようっていうんですか」
僕は落ち着きを装って手紙から顔を上げる。京子さんは泣き出しそうな、嬉しそうな、あらゆる感情が混ざった表情だった。
「別にどうかしてほしい訳じゃないの。ただ、麻奈の彼氏になるなら、このことを知っておいてもらいたかったから見せただけよ。今の麻奈がどんな状況なのかと、ドナーさんのことを、ね」
黒に沈む夜景を眺めながら、京子さんはそう言った。テニスの一件で京子さんに心臓のことを言われたことがあったが、他の人から心臓をもらい受けているとは初耳だった。てっきり京子さんが軽い病気を過保護にしていただけだと思った自分が恥ずかしくなった。
手紙に改めて目を落とす。麻奈がドナーにどんな気持ちを伝えたかったのか、手に取るようにわかる気がした。
ぽつりと、呟くように声を出す。
「手術したの、二年前なんですね」
「ええ。私たちの親はもういないんだけど、親戚が別の県に住んでたからそこの病院で手術したの」
「親はいないんですか」
新しく降ってきた事実に僕は目を丸くした。そこで京子さんの話を遮ってしまったことを自覚して、なんだか申し訳ない気持ちになった。
京子さんは僕を怒るでもなく普段通りに笑ってみせる。
「母親は麻奈と同じ病気で死んだの。麻奈が生まれた後、父親はどこかに行ったわ」
「お父さんはどうして……」
「死んだ母親とそっくりな麻奈の顔を見るのが辛かったんじゃないかしら。少なくとも不倫の類じゃなわいわよ」
京子さんは微笑みながらも、どこか悲しげに過去を語る。頬を伝う雫が月明りに煌めいて、とても幻想的で美しかった。居酒屋で抱いた強い女性という僕の幻はことごとく崩れ去っていた。
話が脇道に逸れたことに気付いた京子さんが「そんなことはどうでもいいのよ」と本筋に戻す。
「年明けぐらいに、私たちが病室にいると、ドナーの方が見つかったって知らせが来たの。後から知ったんだけど、数か月でドナーが見つかった私たちは運が良かった。麻奈は心臓を移植されて、やっと普段通りの生活を送れるようになったの」
満天の星空を眺めながら、京子さんは感慨深くそう言った。しかし僕は別の想像に思考を巡らせていた。
二年前の心臓移植。いや、まさか。
偶然だと思いたかった。しかし考えれば考えるほど思い当たる節があり、事実であるような気がしてならなかった。
「すみません。ちょっと電話をしてもいいですか」
「誰に?」
「大事な人です」
「……わかった」
京子さんの了承を得て、僕はスマホの通話ボタンに指を伸ばす。京子さんは僕から離れて話を聞かないように配慮してくれた。連絡先を辿って一人の名前を見つける。今はもう深夜だから迷惑かもしれない。一瞬の躊躇いを経て、思い切って電話を掛けることにした。
何度か着信音が鳴り響き、やがて相手の声が聞こえた。
『はい、宮瀬です』
「大輔さんですか」
『そうだけど、結人くんから連絡してくるなんて珍しいね』
桜花の父は電話越しに声を弾ませた。時間は零時を過ぎているのに眠そうな気配は無く、ちょうど仕事中かもしれないと思った。
「彼女のことで訊きたいことがあるんですけど」
『言ってみてくれるかい』
「彼女はドナー登録をしていましたか」
電話の向こうで息を呑む音が聞こえた。僕も大輔さんも口を開かず、しばらく無言の時間が流れた。
『どうして、そう思ったんだい?』
「ちょっと気になることがあったので」
『君の言う通り、桜花はドナー登録をしていたよ。事故の後、心臓を誰かに移植したはずだ』
全身の毛が逆立つのを感じた。真冬でもないのに鳥肌が立ってしまう。スマホを持つ手が震えるのを必死にこらえながら、次に何を聞くべきなのか興奮冷めやらぬ頭で必死に考えた。
「レシピエントの方から手紙をもらいませんでしたか」
『年に数通ぐらいだけだけど、貰っているよ』
「何枚ありますか」
『ええと、多分五枚ぐらいじゃなかったかな』
京子さんが言っていた枚数と一致していた。高まる緊張に心臓が早鐘のように打つ。う裏返ってしまいそうな声を抑えながら、僕はスマホを握りしめた。
「その手紙なんですけど、写真にして見せてください」
『どうしてかな?』
「ちょっと気になることがあるので、筆跡を確認したいんです」
電話口の大輔さんは言い淀んだ様子だった。しかし僕のただならぬ雰囲気を察したらしく、大輔さんは低い声を出した。
『手紙を出してくるから、少し待ってね』
「ありがとうございます」
僕は一旦スマホを下ろして顔を上げた。京子さんは興味深そうに僕のことを凝視していた。話を聞いていて思った点があったのだろう。
「今の相手って、もしかして……」
「多分、ドナーの家族だと思います。名前は……」
「言わないで。私は知らないほうがいいと思うから」
「どうしてですか?」
「名前を知ってしまったら、もしその人に会ったときにどんな顔をして会えばいいかわからないもの」
両腕を組んだ京子さんの声は、仄かな悲しさを湛えていた。今にも泣きだしそうに唇が震え、頬が硬くなっていた。僕は掛けるべき言葉が見つからないまま、俯いて床を眺めることしかできなかった。
重苦しい空気で息が出来なくなる。ちょうどスマホから大輔さんの声がした。
『結人くん?』
「はい」
『手紙が見つかったから、メールに送っておくよ。後で確認してみてくれるかな』
「こんな夜遅くにありがとうございます」
『別にいいさ。あと、三回忌がクリスマスイブに決まったよ。来てくれるかい?』
「絶対に行きます」
『そう言ってもらえると桜花も浮かばれるよ。それじゃ』
「ありがとうございました」
スマホの通話を切ってメールアプリを立ち上げる。新着のメール欄に大輔からのメールがあった。写真をダウンロードして読みこむと、京子さんから見せてもらった手紙にそっくりな字が現れた。
手元のある手紙の字と、スマホに映し出された手紙の字。それに交換日記の筆跡を思い出す。どれも全て同じ文字だった。
僕の予想は証拠を以て確信に変わった。
明らかに態度が急変した僕を見て、京子さんは困惑気味に眉を寄せた。
「何かわかったの?」
「やっぱり、僕の思った通りでした」
京子さんと僕は息を呑む。星の瞬く夜空は二年前からずっと変わっていない。
「麻奈の心臓は、僕の彼女だった人のものです」
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