第18話
陽介に中ば引きずられるようにしながら、僕は麻奈と初めて出会った居酒屋に足を運んでいた。机の配置も楽しんでいる面子も記憶にある配置はほとんど同じだった。若干人数が増えている気がした。おそらくテニス部の侵入部員だろう。
宴の席に現れた僕たちを見て、テニス部の面々は一瞬だけ注視したものの、やがて友達との会話へ戻っていった。
「結人、頑張って来い」
励ましと共に背中を押されて、僕は振り返る。
「陽介も一緒に来ればいいのに」
「絶対に嫌だって。見ろよあれ。間違いなく酔ってるじゃん」
「ああ……」
僕たちの視線の先、大人数用の貸し切り部屋の隅で、京子さんは胡坐を掻いて酒を浴びるように飲んでいた。京子さんの前の机には枝豆や刺身の皿が大量に積まれていた。いつから居るのかは知らないが、相当飲んだのかもしれない。
最後の頼みとして親友に懇願の眼差しを向けてみる。陽介は僕から目を逸らすと知り合いであろう部員との会話に混ざっていった。
あとで折檻してやる、と怒りをエネルギーに変えて、僕は京子さんと机を挟んで向かい合える場所に腰を下ろした。
「京子さん」
僕の声に反応した胡乱げな瞳がこちらを向く。上気した頬や湿った唇が妙に色っぽくて、僕はつい目を泳がせてしまった。
京子さんは泡だらけのグラスを思い切り机に叩きつける。
「まあ、座って」
ドスが利いていた。
生徒指導の先生が悪事ばかり働く生徒を叱る前のような、嵐の前の静けさがあった。
京子さんは俯いているせいで表情がわからない。僕はとりあえず座布団の上で正座しておいた。
どこからともなく現れたビールを一気に飲み干してから、京子さんは口を開く。
「ねえ」
「なんですか」
「結人くんはさあ、麻奈のことが好きなの?」
「……はい」
少し悩んで答えた。
「はあ……。どうしてこんな男に惚れちゃったんだろうねえ」
「僕に言われても困りますよ。それは麻奈さんに言ってください」
「わかってる。わかってるわよ」
京子さんは僕ではない誰かに向けて話していた。二つの黒瞳は焦点が合っておらず、かなり酔っぱらっているようだった。
糸が切れたように京子さんの身体が傾く。その様子を見て放っておくわけにもいかず、僕は立ち上がって京子さんの頭を抱えた。絹のように滑らかな髪が僕の腕に掛かって床に流れ落ちた。
「京子さん、飲みすぎです」
「飲んでない」
「飲みすぎですって。立てないじゃないですか」
近くにあったボトルから水を汲み、グラスに注いで京子さんに手渡しする。京子さんは酔いが冷めたらしく、ゆっくりと上体を起こした。
「疲れた」
「僕を呼び出しておいて、それはないと思うんですけど」
「ああ……そう言えばそうだった。ちょっと話しておきたいことがあるんだけど、私の家に来てよ」
「今からですか」
「いいじゃない」
京子さんの言い方は公式や過程をすっ飛ばした証明のようだった。僕の事情にまったく配慮していない。ふつふつと苛立ちが募り始めていたが、酔っ払い相手に怒るほど、僕は子供ではない。けれど、無駄な時間はできるだけ最小限に抑えたかった。
僕は京子さんの手を取って立ち上がる。
「用事があるなら早く帰りますよ」
「もう一杯だけ飲ませて」
「これ以上飲んだら立てなくなりますって。大人しく一緒に帰ってください」
「つれないなぁ」
京子さんは渋々立ち上がる。僕が陽介に早退する旨を告げると、またか、と驚いた表情をされた。しかし酔っている京子さんを見て事情を察したらしく、同情の眼差しを向けてきた。
「行ってこい。お前の分まで俺が楽しんでやる」
「おい」
意味を成さない陽介の宣誓に僕は突っ込んでしまう。酒の回った陽介の笑い声は盛大だった。
一通りのやり取りを終えた後、僕たちは京子さんの荷物を纏めて居酒屋を後にした。
電車に乗って藤宮家に着く頃には、京子さんの酔いは冷めきっていた。赤かった顔も普段の白色を取り戻し、千鳥足だった歩みも普段通りに戻っていた。
玄関のドアにカギを差し込みながら京子さんは口を開く。
「ごめんなさい。ちょっと飲みすぎたみたい」
「実害は無かったので別にいいですよ。あと、どうしてあんなに飲んでたんですか」
「妹に彼氏ができたっていうのに、私だけ独り身なんて飲んで気を紛らわすことしかできないじゃない」
「その……なんかすみません」
「いいのよ。別に結人くんが悪い訳じゃないもの」
京子さんは棘のない声で謝罪を否定する。酔っていたときとは全く違う対応だった。
真っ暗な部屋に明かりを点けて僕たちはリビングに入る。京子さんはリビングには目もくれず、その奥の寝室へ行ってしまったので、僕も慌てて後を追いかけた。
寝室も明かりがついておらず、月明りだけが照らしている。
「麻奈さんは?」
「今日は友達の家に泊ってるわ。心配しなくても帰ってこないわよ」
薄い笑みを浮かべながら京子さんは僕に近寄ってくる。その右手には紙切れが握られていた。
「これ、読んでみて」
「手紙ですか?」
「そう。麻奈が描いた手紙よ」
勝手に手紙を読むことへの好奇心と申し訳なさが僕の中でせめぎ合った。片頬を上げて笑っている京子さんを見ていると、一緒に悪さを背徳感が背中を伝った。
「心配しなくていいわよ。私は絶対に言わないから」
悪魔の囁きのように京子さんは告げる。麻奈に罪悪感を覚えながらも、手紙の封を切った。
『ドナーのご家族へ
何度も繰り返しになりますが、感謝と謝罪を申し上げます。ドナーの方から心臓を戴きありがとうございました。そして、大切な方の心臓を私が頂いてしまいすみませんでした。
五歳の頃、母系の遺伝で受け継いだ先天性の病気で心臓が不調になって以降、私は病院と家を往復する日々でした。真っ白な箱のような病室と、何の飾り気のない私の部屋が私にとっての世界でした。学校に通うことなどできるはずもなく、ただ無為に死を待つのだろうと思っていました。
二年前、体調が悪化して死ぬかもしれなかった私に心臓を下さったことは、感謝してもしきれません。私は今、とても幸せに暮らすことができています。ドナーの方が居てくださったからこそ、今の私がいます。大切なご家族の心臓を戴き、本当にありがとうございました。精一杯生きていきたいと思います』
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