第17話
その後、桜花から昼休みに会いたいという旨の連絡を受けた僕は、あまり人目につかない大学の部活棟の裏で待ち合わせをすることになった。講義の都合で昼休みから十分過ぎに部活棟の裏に向かうと、人気のない雑草だらけの土地で花占いをしている麻奈の後姿が目に入った。
僕の足音を聞くなり桜花は顔を上げる。凛々しい目が細められた。
「遅い」
「講義があったんだから、十分くらい許してよ」
「それなら仕方ないね」
スカートの裾についた草を払いながら桜花は立ち上がった。拘泥すると思っていたのだが、割とあっさり許されて肩透かしな気分だった。
大きく右肩を回しながら桜花はだらけた声を上げる。
「大学って疲れるね」
「高校の授業とは違って講義は九十分だから、桜花が疲れるのも無理ないよ」
「あと、話が抽象的すぎてよくわかんない」
「それはどうしようもないって」
その後も不満を垂れ流しにしている桜花の言葉は呪詛のようだった。話の中で特に大変だったのは麻奈の友達との付き合いだったらしい。名前もわからない相手の一方的な話を受け流すだけで精一杯だったようだ。
長々と文句を言った桜花は一息つく。
「麻奈って毎日大変なのね」
「麻奈だけじゃなくて、大学生みんながそんな感じだと思う。桜花がいきなり高校生から大学生になったから特に大変なだけだよ」
「そうかなぁ?」
「そうだって。あと、京子さんはどんな様子だった?」
「起きて慌てたときはすっごく怪訝な目で見られたけど、前もって麻奈に聞いてた通りにして誤魔化した。多分、私の存在はバレてない」
長い髪を揺らしながら桜花は首を振る。
僕と桜花、麻奈の三人は京子さんに未だに入れ替わりの件を何も言っていなかった。時勢を見て話を切り出そうと決めていたのだが、僕たちはなかなかタイミングを掴めずにいるのだった。
巨大な爆弾が不発で済んだことに僕は胸を撫で下ろす。
懸念材料が消えたところで、僕と桜花はやっと本題に入った。
「どうして今日に限って入れ替わったんだ?」
桜花は細い顎に華奢な指を当てて考え込む。顔を上げても表情は暗いままだった。
「それが、まったく思いつかないの」
「交換日記からは?」
「全然だめ。大学のこととか、結人と話した、みたいなことしか書いてなくて、変な内容は見つからなかった」
僕たちの推理はいきなり暗礁に乗り上げてしまった。お互いに顔を見つめ合っても手掛かりは見つからないままで、虚しく時間だけが過ぎていった。
秋風に身を震わせながら、近くを通る自動車の音に耳を傾けた。赤色や茶色の木の葉が風に舞って落ちてきた。雲一つない真っ青な空を見て、本格的に秋がやってきたんだな、と思った。
僕は肺に溜まった空気を吐き出す。
「今日はとにかく頑張るしかないよ。僕が麻奈さんから話を聞いておくから、原因を考えるのはそれからにしよう」
「そうね。また今度にしよっか」
「午後からの講義は?」
「一応、途中で寝ても受けておく。最低限のことだけやっておくつもり」
「頑張って」
「言われなくてもわかってるって」
人気のない部室裏で僕たちは笑いを交わす。スマホで時間を確かめると、そろそろ講義に向かわないといけない時間だった。
軽く手を挙げて別れの挨拶を交わす。
「じゃあ、また明日」
「うん」
時間差で部活棟の裏から出て、僕たちは別々の場所へと向かった。
その日の夜は桜花と麻奈のことが頭から離れず、気持ちよく寝ることができなかった。
十分に疲れの取れていない頭を持ち上げて、壁掛け時計に視線を向ける。時刻はまだ午前五時。普段より早く起きてしまったらしい。中途半端に目を瞑っていても時間の無駄な気がしたので、ベッドから起き上がって昨日のことを思い出していた。
どうして不意に入れ替わりが起きたのか。麻奈の話では自分の意思で制御できると言っていたが、何故このタイミングで制御不能になってしまったのか。
考えは堂々巡りで答えが見つかりそうにない。やがて鋭い頭痛がして顔を顰めた。
もう一度壁掛け時計を見据えると、大学の講義までは少なく見積もっても二時間はある。
暇つぶしにスマホの連絡アプリを開くと、ふと麻奈の名前が目に留まった。
もしかしたら迷惑かも、と思いながら『起きてますか』とメッセージを送ってみる。すぐに『起きてます。今、時間ありますか?』と返信が来た。
『はい』と送ると、スマホが震えて着信音が鳴り響く。
「おはようございます」
『おはようございます、結人さん。早起きなんですね』
「ちょっと考え事で眠れなかっただけです。それより、僕に何か用ですか」
『昨日のことで訊きたいことがあるんです』
予想通りだった。
『昨日の記憶が無いんですけど、昨日の私はどうなってました?』
「桜花でした。初めての大学で困ってたみたいです」
『それは……今度謝っておきます』
「麻奈さんだけの責任じゃないんですから、謝る必要なんてありませんよ。それより、課題とかは大丈夫ですか?」
『期日もありましたし、今日は早起きして勉強したので大丈夫です』
僕は胸を撫で下ろした。不意打ちの入れ替わりだったが、大きな問題にはならずにすみそうだった。安心してくると心に余裕が生まれて、僕は本題を切り出した。
「昨日の入れ替わりについてなんですけど、麻奈さんに心当たりはありますか」
電話の向こうで麻奈が大きく息を吐いた。どんな表情でどんなことを考えているのか、僕からは窺い知ることはできなかった。
しばらく小さな唸り声が聞こえると、やがて麻奈の口が開かれる。
『やっぱり、心当たりはありません』
「そうですか」
『桜花さんは何か言ってませんでしたか』
「何も分かっていないようでした。心当たりも無いみたいです」
『わかりました』
確固たる証拠もなしに無理に聞き出そうとして嫌われることは避けたかった。適当な相槌を打って話を打ち切る。結局、電話を掛けた成果は何も得られなかった。
「そろそろ切ってもいいですか」
どうやら桜花も同じことを考えていたらしい。僕は手短に返事をする。
「はい」
「さようなら」
ラジオの導線がいきなり切れたように、耳に聞こえていた音が突然消失した。通話時間は二分程度。長話になると思っていたのに、案外早く終わってしまった。突然の入れ替わりについての新たな情報が得られず、心に靄がかかって晴れないままだった。
適当に朝食を取って大学に向かう。徒歩で数十分の距離は毎朝の運動にちょうどいい距離だ。部活に入っていない僕にとって身体を動かすことは欠かせない。風を引かないように長袖を着てきたが、思っていたより寒くなかった。もう少し薄着にしても良かったと考えていると、冷たい秋風が首筋を撫でてきた。
脈が止まったように冷たい指先をすり合わせながら構内を歩いていると、同じ講義に向かう陽介の姿を見つけた。僕の駆け足を聞きつけた陽介が振り返る。
「よっ」
軽い挨拶と共に左手を上げる陽介。僕は右手を上げて返事した。
「今日の夜って空いてる?」
「いきなり何?」
「いや、またサークルの飲み会があるからさ。結人も来てくれないかなって誘っただけだ」
「無理」
僕の中では最短の拒否の意思を示すと、結人は目を丸くしたものの、やがて素の表情にもどった。前に誘われた飲み会では陽介に下世話を焼かれ、知らない女子からは憐みの目で見られるなどで散々だった。麻奈を通して桜花に出会えたことは感謝するべきかもしれないが、そんな偶然にもう一度巡り合えるとは思えなかった。
顔を背ける僕に向かって陽介は両の掌を合わせて頭を下げる。
「サークル長に連れて来いって言われてるんだ! 一生のお願いでいいから来てくれ!」
「何度目の一生のお願いだよ……」
少なくとも両手では数えきれないと思う。
「なんでもいいから来てくれって。支払いはサークル費から出すからさ」
「本当に?」
「ほんとにほんとだって」
陽介は必死に頼み込んでくる。一人暮らしの学生にとって、毎日の食事作りは中々面倒なものだ。一食とはいえ、それがサボれるのは魅力的な話だった。それに、お金を出さなくていいというのも嬉しい。
メリットとデメリットを天秤にかけて量っていると、陽介が上目遣いに僕を見る。
「実を言うと、京子さんが結人と話したがってるだけなんだ。他に目的は無いから安心してくれ」
「それって不安要素でしかないんだけど」
「そんなこと言うなって。どうせ妹の彼氏に話を聞きたいだけなんだからさ」
「……わかったよ。行くよ」
「さすがは俺の親友だな!」
嬉々とした表情で笑顔を輝かせる陽介が僕の肩に手を回す。友達の情に流されてしまったような気がして、自分自身に少し嫌気が差した。
講義室への道すがら僕は京子さんとの話について考えてみる。僕と麻奈が親しくなってから京子さんと面と向かって話す機会はあまりなかったように思う。時々絡まれることはあったものの、麻奈との関係について詳しく説明していなかった。
そう考えると、今回の飲み会は区切りを入れるのにちょうどよい機会かもしれない。
しかし、麻奈と桜花の関係を説明しないといけないと思うと、少々気持ちが沈んだ。
肩に掛かった腕をほどきながら、陽介に声を掛ける。
「なあ」
「どした?」
「実はさ、桜花のことを京子さんに話してないんだけど、もし聞いたらどんな反応すると思う?」
「自分の妹を使って他の女と付き合ってると思われるだろうから、間違いなくキレる」
「だよなぁ」
「小鉢とかグラスが飛んでくる」
「痛そうだなぁ」
「間違いなく許さないだろうな」
「知ってた」
頭の中で想像していた光景と陽介の言葉は一致していた。
もしも僕が京子さんの立場だったら、間違いなく僕のことを許さない。何度顔合わせの場面をシュミレートをしても成功の道筋が見えなくて、無意識にため息が漏れてしまった。
暗澹たる気持ちが心の底に湧き上がる。僕の身体に働く重力が大きくなったように感じた。
陽介が僕の肩に手を置いて、そっと慰めの言葉を口にする。
「頑張れ、俺は隣の席から応援してるからさ、女子と一緒に」
言葉尻に本心が詰まっていた。わざわざ倒置法で言ってくるのが気に障ったが、下らないことをかまける余裕は僕に無かった。たどり着いた講義室の机に教科書を広げながら、ふと窓の外を眺める。
秋の青空に雲が一つ浮いていた。
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