第16話
『結人?』
「桜花?」
平日の午後。講義も無かったので家で読書に勤しんでいると、突然スマホに電話がかかってきた。声の抑揚から察するに向こうは桜花のようだった。
平日は文学部の講義があるので、麻奈と桜花は入れ替われないのではないか。そんな僕の考えを見透かしたようにスマホから笑い声が漏れた。
「今日は文学部の講義が無かったから、特別に変わってもらったの。今から会えないかな」
「どこで?」
だらけきっていた上体を起こして返事をする。
「私の家というか、麻奈のマンション」
「わかった。すぐに行く」
「待ってるね」
スマホの通話を切って、読みかけの分厚い本を閉じた。財布など最低限の荷物だけ整えて、足早に我が家を後にした。
数度も来るようになったおかげで、宮瀬家を訪れることは苦にも思わなくなった。最初は高いと渋っていた電車賃もいつの間にか当たり前の値段だと思っていた。慣れは怖いものなのかもしれない。
宮瀬と書かれた木彫りの表札を横目に、僕は深く息を吸った。
平日に桜花と話すのは何気に初めてのことだった。どうして今日なのか、と思わずにはいられないが、初めてに違和感を覚えるのは皆同じだと思った。
インターホンを鳴らすと機械的なベル音が鳴る。
ドタドタと騒がしい足音と共に桜花が……。
「なにしてるんだ」
いつかの秋祭りに買った狐面を被った桜花がいた。
「よっ」
軽く右手を上げて挨拶を試みる桜花。僕は状況についていくことができずに脳がフリーズしてしまった。
「どうしたの?」
「どうしたの、じゃないって。何でお面を被ってるんだよ。今日はどこにも行かないって言ってたのに」
「気分転換、みたいな?」
自分自身のことなのに、桜花はわざとらしく首を傾げた。仮面を被っても気分がすっきりするとは思えないのだが、元々僕と桜花は性格が全く違うので、これ以上尋ねても解は得られそうになかった。
「とりあえず入って」
「お邪魔します」
僕たちは部屋に上がった。お茶とクッキーを用意して、向かい合ってローソファに腰を下ろした。
「姉は外出してるから、楽にして」
「姉?」
桜花が京子さんを姉と呼んだことを聞いたことがない。僕は思わず突っ込んでしまった。
狐面の上から桜花が口に手を当てる。
「麻奈が交換日記にいつも姉って書いてるから、間違って言っちゃっただけ。そんなに責めなくてもいいでしょ」
「別に責めてるわけじゃないけど……」
「なら、この話はおしまい」
桜花は思いっきり手を叩く。鼓膜を破りかねない破裂音が部屋の中に響き渡った。どこか無理矢理に話を打ち切られたようで釈然としないが、僕が口を開くことはなかった。
桜花は狐面で顔を覆ったまま、僕の隣に腰を下ろす。
「なにしよっか」
「遊ぶ内容はいつも桜花が決めてるだろ。桜花がしたいことでいいんじゃないかな」
「じゃあ、文学について語る?」
「もしかして頭打った?」
いくら勉強が出来ようとも、あくまで勉強したくない態度を貫いていた桜花とは思えない発言だった。死んでも勉強しないと言っていた彼女はどこへ行ったのか。
いや、よくよく考えてみれば桜花は死んでいた。
僕は桜花の華奢な両肩を逃がさないようにぐっと掴む。
「桜花、僕に言いたいことがあるなら言って。体調が悪いならすぐに帰るし、機嫌を損ねるようなことをしてたのなら、ちゃんと謝るから」
「別にそんなのじゃないって。結人……のことは大好きだよ」
お面をあらぬ方向に背けながら、桜花はそう言った。仮面の下でどんな表情をしているのかはわからないが、照れているのだと僕は思った。
しばらく経って、狐面がもう一度を見つめる。
「今日は結人のしたいことをしようよ」
「僕がしたいこと?」
「そう。何か一つぐらいはあるでしょ」
顎に人差し指を当てながら天井に空想を思い描く。桜花に振り回されてばかりだった僕には、桜花としたいことを簡単に思いつくはずもなかった。
視線を下げると、仮面の下から上目遣いで僕を覗き込む桜花がいた。
テストよりも頭を絞って考え抜く。出てきた答えは表示抜けするほど単純なものだった。
「桜花、目を瞑って」
「こう?」
桜花は大人しく両目を閉じる。無防備な彼女の身体に、僕は両腕を回した。
彼女の体温が僕の肌に直に伝わってくる。秋の冷たい空気に当てられた肌が段々と温まり、やがて熱を帯びていた。桜花は恥ずかしさに身体をよじりながらも、僕の抱擁を素直に受けて入れてくれていた。
「桜花が居てくれれば、それでいい」
腕の中にいる桜花に語り掛ける。
「他には何もいらないの?」
「死んだ彼女が帰ってきただけで贅沢なのに、それ以上のことは望めないよ」
「そんなことないのに」
「そんなことあるって」
照れが混じった桜花の声は全く棘が無くて、ただひたすら優しかった。静かな部屋で抱き合っているだけなのに、とても心が安らいだ。愛しい彼女に抱き着いていると桜花も僕の背中に手を回す。
「あったかい」
桜花は嬉しそうに呟く。
「いつまでもこうして居られたらいいのに」
「それだと桜花がダメになるだろ」
「一理ある」
「ダメダメな彼女なんて絶対に嫌だから。桜花は僕を引っ張る側じゃないか」
「そうだった」
僕たちは名残惜しくも互いのハグを解いた。肌が触れ合うことがなくてもその熱はしっかり僕の身体に染み込んでいる。秋の冷えた室温はいつの間にかどこかに消えていた。
桜花は仮面の位置を整える。
「私って愛されてるんだね」
「そんなこと言うなよ。今さら言われると背中がむず痒くて仕方ない。恥ずかしくて死にそう」
「私と一緒にあの世に行く?」
「遠慮してこの世で仲良くさせて頂きます」
「うむ、よろしい」
溌溂とした声で桜花は返事した。腰に手を当てて胸を張る姿は背伸びした中学生のようで、おかしく思った僕は吹き出してしまった。
「私のこと馬鹿にしたでしょ!」
「してないって。つい面白くて笑っちゃっただけ」
「それって馬鹿にしてるじゃない」
「そうかもな」
「認めないでよ!」
やたらとノリが良い桜花が面白くて、僕もつい悪ノリで楽しんでしまった。桜花が狐面の下で頬を膨らませているかと思うと、お腹の底から笑いが込み上げてくる。
笑いの残滓に頬を支配されながらも、僕は右手を前に出す。
「ごめん。謝る」
謝罪の意味を込めて桜花の腰に手を回した。
桜花は抵抗の素振りを見せることなく受け入れてくれた。未だ冷めやまない熱が新しい肌の感触と共に更新される。思い出にある熱の温度より、肌で感じる熱の温度の方がずっと温かかった。
「いいなぁ」
ぽつりと、桜花の声が耳朶を打つ。
僕にはその言葉の意味が分からなかった。
夢とうつつの間を気持ちよく彷徨っていると、大音量のアラームが僕の耳に何かを訴えかけてきた。起きる時間だと思って鉛が流し込まれたかのように重い体を持ち上げようとするが、想像以上に力が入らない。微睡んだ目で携帯の画面を見る。
時刻は七時半。火曜日。着信相手は麻奈だった。
電話をしてくるにしては絶妙に非常識な時間帯だな、と思いながら、僕は緑の通話ボタンを押す。
『おはよう!』
突然の大音量に鼓膜が破れるかと思った。てっきり麻奈の相手をするつもりでいたのに、相手は桜花だったらしい。
晴天の霹靂に動揺しながらも、僕はスマホをもう一度耳に当て直す。
「いきなり何? まだ寝起きなんだけど」
僕の質問は華麗に無視して一方的な話が展開される。
『今日って平日だよね』
「火曜日だから、そうだけど」
『火曜日って平日だよね』
「うん……って、え⁉」
誰もいない部屋で僕の素っ頓狂な声がこだました。端から見れば変人みたいだと頭の隅で考えながら、他の部分は別のタスクにフル稼働させる。話が長くなりそうな予感がしたので、通話をスピーカーモードに切り替えてからテーブルの上に置いた。
「今日って大学あるよな?」
『京子さんにそれとなく聞いたんだけど、文学部なら多分あるって言ってた。あと、体調が悪いなら休めば、って』
唐突に変な質問をする麻奈を気遣ってのことだろう。
「桜花はどうするつもり?」
『麻奈に迷惑を掛けるわけにはいかないから、とりあえず麻奈が取ってる講義にはでるつもり。さすがに課題は無理だろうから、明日にでも麻奈さんに頑張ってもらうしかないと思う』
妥当な選択だと僕は思った。
身体は麻奈のものとはいえ、桜花と麻奈は記憶や知識の共有をしていない。こっそり講義を受けることはできても、高校生の頭脳では課題をこなすのは至難の業だろう。
「麻奈さんが受けてる講義ってわかる?」
『スマホにスケジュールがあるから、なんとかなると思う。最悪京子さんに聞けばどうにかなるんじゃないかな』
「ならよかった」
安堵の息を吐く僕。しかし桜花は『あ、でも』と言葉を続ける。
『万が一のことになったら結人に電話するかも。その時はお願い』
「わかった。できることはするよ」
『ありがと』
不穏な雲行きを感じるが、今の僕にできることは何もない。喉に詰まっている無数に近い心配の言葉を振り切って、通話を終了する赤いボタンを押した。
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