第14話

 白い夜が黒く染まる。秋祭りの夜空には赤青黄色たくさんの色の華が咲き乱れ、観客たちは感嘆の声を漏らしていた。


 堤防の斜面には数えきれない人々が腰を下ろして花火を鑑賞している。遅れてやってきた僕たちに居場所は残されていなかった。座す場所はもちろん、立っている場所を見つけるのも難しい。


「どこか座れないかな」


 桜花は手で庇を作りながら辺りを見回す。僕はやる気のない声で口を開いた。


「地元では大人気の祭りだから、座りたかったら一時間前には来てないとダメなんだって。今から探しても空いてないと思う」


「それなら早く来ればよかったじゃない」


「せっかくのデートで一時間待ちなんて嫌だったんだよ。桜花と一緒にいる時間は大事だし」


「……なるほど」


 桜花はきょとんとした顔をした。まるで花火の熱を吸い取ったようにみるみると顔が赤くなり、やがて頭から湯気が吹き出しそうなほどになっていた。


 何がそんなに恥ずかしいのか、と考えて、自分でとんでもないことを口走っていたことに気付く。覆水盆に返らずというのはまさにこのことだろう。僕まで気恥ずかしくなって必死に言い訳を考える。


「別に深い意味じゃなくて、単に彼女としての話だから」


「そうよね、そうに決まってるよね」


「そうそう!」


「うんうん、そうだよね!」


 合わせ鏡のように、僕たちはそろって顔を逸らした。


 冷たい秋風が吹き抜けて、オーバーフローした僕たちの頭を急速に冷やした。桜花への恥ずかしさは理性と共に心の底へと沈んでいた。


 けれども顔を見るのは恥ずかしいので、そっと左手を伸ばして桜花の指を絡めとる。ずっと外にいたせいか、桜花の指先はひんやりと冷たかった。


「……ん」


 桜花も僕に応えるかのように吐息で返事した。


 二人で外出したのはいつ以来だろう。ああ、そうか。桜花が死んだクリスマスの夜が最後だったんだ。


 苦い過去は桜花が帰ってきたことで、ただの思い出へと色褪せていた。


 僕たちは黙って、けれど手をつないだまま花火を眺める。二度とこの思い出を失うことがないように、瞼の裏に今の景色を鮮明に焼き付ける。


「綺麗だね」


 狐面を顔に掛けた桜花がそう呟いた。


「うん。今まで見た花火の中で一番綺麗かも」


「見惚れてるのもいいけど、麻奈に写真を撮らないといけないんでしょう? 早く撮らないと手遅れになるわよ」


「忘れてた!」


「最後ぐらいしっかりしてよ……」


 桜花が呆れ混じりにそう言った。


 僕は慌ててポケットからスマホを取り出してカメラを立ち上げる。笑ってポーズを向けてくる彼女にフォーカスを合わせると、花火が綺麗に弾けるタイミングを狙ってシャッターを切った。


「どう?」


「こんな感じ」


 桜花に撮れたての写真を見せる。


「悪くないんじゃない? 今日撮ったなかで一番綺麗に写ってる。これなら麻奈さんも満足してくれるんじゃないかな」


「そうだと嬉しいな」


「きっと大丈夫よ。安心しなさい」


 花火を背景に笑顔を浮かべる麻奈の写真を眺めながら、僕たちは笑い合っていた。




 祭りの後、僕は麻奈に写真を渡すために例のマンションを訪れることになっていた。


「ちょっと」


 眠かったプログラミングを乗り切って大学を出ようとしたところで、京子さんに呼び止められた。ほっそりとした眉が吊り上がり、頬は痙攣したようにぴくぴくと動いていた。ただならぬ雰囲気であることだけは伝わってきた。


「僕に用ですか」


「これのことでね」


 スマホの画面に写っていたのは、僕と麻奈(おそらく桜花)の写真だった。


 薄暗くて場所は特定できないが、麻奈のほうが着物を着ていることから秋祭りのときの写真だろうと推測できた。


 誰が撮ったものか分からないが、少なくとも僕たちではない。おそらく祭りに来ていた同じ大学の人間が撮ったのだろう。


 目を凝らしている僕をよそに、京子さんが一歩前に出る。


「これ、いつの写真?」


「こないだの秋祭りの写真だと思うんですけど……」


「どこの祭り?」


「県外ですが……」


 京子さんは一旦黙り込んだ。一歩間違えれば殺意になりそうなオーラを全身から解き放ちながら、僕の襟首を掴み上げた。


 突然の展開に意味の分からない僕。どう振舞うべきかわからなくて、大人しくされるがままになっていた。


 怒りの形相で歯ぎしりしながら手に一層の力を加えてくる。


「付き合うのは麻奈の自由だから何も言わない。でも、寒い夜に外を歩かせないで。あの子を大切に扱って」


「大切にしてますよ。話が全く見えないんですけど」


「ふざけないで! 麻奈から聞いてないの⁉」


 京子さんはほっそりとした腕なのに、とんでもない力だった。校門の壁に容赦なく身体が押し付けられて、肺から空気が絞り出される。気道が締まっているのが実感できた。


「本当に麻奈から聞いてないの?」


 僕はまたしても同じセリフを繰り返す京子さんを睨みつける。


「何も聞いてませんよ。僕からしてみれば、いきなり首を絞められてる状態なんですが」


「そうだったの⁉ 本当にごめんなさい」


 京子さんは僕の襟首から手を離すと、深々と頭を下げて謝罪してきた。どうやら本気で怒っていたものの、入れ違いがあったらしいことは伝わってきた。乱れた呼吸を整えながら、口を開いた。


「麻奈さんと大切に扱えってどういう意味ですか」


 京子さんはまっすぐに僕の目を見つめてきた。嘘を言うような人の目ではなかった。


「麻奈は心臓が弱かったの」


「心臓が?」


「そう。一度手術して完治したんだけど、あまり激しい運動とか、身体に負荷の掛かることはなるべく避けないといけないの」


 京子さんの話は初耳だった。麻奈本人から聞いたこともなければ、日記を通して桜花から聞いたこともない。おそらく麻奈が意図的に黙っていたのだろう。そう考えるほかになかった。


 僕は首を横に振る。


「やっぱり、そんな話は麻奈さんから一度も聞いてません」


「そうだったのね、わかった。なら、これから覚えておいて」


「ちなみに聞いておきたいんですけど、どんなことは避けた方がいいんですか」


「激しい運動や、極端に暑かったり寒かったりするところ。あとは強いストレスがかかるようなことは避けて」


「わかりました」


「絶対よ」


 しつこく念押しされると、なんだか信用されていないような気がして腹が立つ。


 僕はそっぽを向いてわざと低い声を出した。


「十分わかりました。もう何も言わないでくださいよ」


「信用していいのね」


「信用してください」


 京子さんは唇を結んだまま僕の目を凝視した。蛇のような、圧倒的な強者というか、相手のものを言わせない目をしていて、見ているだけで息が詰まりそうだった。


「すみません、この後麻奈さんと会う予定なので、もう行ってもいいですか」


「どこで?」


「藤宮家です。一応言っておきますけど、今日は外に連れ出すつもりは無いので、安心してください」


「……わかった」


 僕と京子さんは背を向けて歩き出す。校門を通り過ぎて横断歩道を渡ろうとしたところで、後ろから「ちょっと待って」と声がかかる。


 何度も後ろ髪を引っ張られることに嫌気が差しながらも僕は振り向いた。


「なんですか」


「私がここで言ったこと、麻奈には言わないでね」


「どうして」


「本人が隠したがってたのに、勝手に話したって知られたら、姉としての立場が無くなっちゃうもの」


 京子さんは笑いながらそう言った。僕は思わず息を呑んでしまった。


 嬉しそうに見えて、それでいてどこか寂し気な笑み。姉としての立場が京子さんにとってどれほど大切なのかが伝わってきた。


 嫌味の一つでも言おうとしていた口を閉じ、代わりに口角を上げる。


「わかりました。大事にさせてもらいます」


「ありがと」


 僕たちは軽く手を振って別れた。


 藤宮家のあるマンションに来るのは何度目だろうか。なんだかんだで毎週呼ばれているような気がした。たった数ヶ月の付き合いなのに、もう覚えていない。


 インターホンを押すと誰かを確認することなく麻奈がドアから顔を覗かせた。


「待ってましたよ」


「誰が来たか確認した方がいいんじゃないですか」


「こんな時間に来るのは結人さんの他に誰もいません。それに、なんとなく結人さんが来たってわかるんです」


「すごいですね」


「これはきっと運命なんですよ」


 星を閉じ込めたような瞳をキラキラと輝かせながら、麻奈は嬉々とした口調で言った。


 美人に顔を近づけられると、何もされていなくても気恥ずかしくなってしまう。息ができないような感じがして、無意識にあらぬ方向を見てしまった。


 顔が赤い僕を見て、麻奈は細い首を傾げる。


「どうしたんですか、顔が赤いですよ」


「なんでもないです。それより、約束の写真を持ってきました」


 僕が差し出した紙袋を受け取ると、麻奈の表情が一層華やいだ。


「本当に撮ってきてくれたんですね」


「約束でしたから。あんまりうまく取れてないですから、期待しないでくださいよ」


「そんなに謙遜しなくても大丈夫ですよ。どうぞ入ってください」


 紙袋を胸に抱えた麻奈に促されて、僕は慣れた藤宮家の床を踏んだ。


 藤宮家のリビングは相変わらずで、ホコリ一つ被っていないテレビにローソファが整然と並べられている。しかしキッチンの棚に安いお菓子が増えているのが目についた。おそらく桜花が買ったのだろう。


 よくよく見てみると、本棚にも流行の漫画が並んでいた。


「立ったままじゃ辛いでしょうから、座ってください」


 僕は黙って腰を下ろした。


 麻奈は紙袋から写真を撮り出し、秋祭りの写真を一枚一枚丁寧に眺める。


 その仕草は犯罪の証拠を探す探偵のようで、何も悪いことをしていないのにものすごい緊張を覚えた。


 何十枚にも渡る写真に目を通した麻奈が大きく息を吐く。


「すごいですね」


「……どういう意味ですか?」


「なんだか幸せそうだなぁ、っていう意味です。私が私じゃないみたいな笑顔ですね」


 うっとりと自分を眺めている麻奈は、夢見心地な目をしていた。まるで映画のポスターに写っている綺麗な女優を眺めているような羨望の眼差しだった。


 麻奈が手にしている写真はもちろん麻奈本人の写真だ。しかし中身は桜花なので、ある意味別人と言える写真でもあった。 


「それは間違いなく麻奈さんの顔です」


「でも、笑い方とかはしゃぎ方が全然違います。私もこんな風に笑いたいです」


「練習すればできるんじゃないですか」


「笑うのを練習するって、なんだか違う気がします」


「確かに」


 僕もにこやかに返事した。


 楽しくて笑っているのと、空気を呼んで笑っているのでは外面が同じでも内面が全く違う。他人からはわからなくても、本人の心情は誤魔化しようがない。


 机に散らばって写真の中から一枚を手に取って眺めてみる。やはり桜花と麻奈の笑顔は別物だった。


「結人さん、ちょっと私にくっつきすぎじゃないですか?」


 麻奈が差し出してきた写真を見ると、桜花が僕の腕に手を回している写真だった。秋祭りの会場で撮ったものだ。


 僕は言い訳をしようと顔を上げた。写真と全く同じ顔が頬を膨らませていた。


「結人さんと桜花が楽しそうにすることに文句はありません。むしろいいことだと思います。ですが、私の身体で変なことはしないでくださいよ」


「あれは桜花からくっついてきたんです。僕に言われてもどうしようもありません」


 麻奈はほっそりとした眉を寄せた。僕の言っていることは信じてもらえたようだ。


「交換日記で注意しておくことにします」


「できるだけ厳しく言っておいてください。そういうことは人目につかないところにしてくれ、って書いておいてください」


「わかりました。付け加えておきます」


 麻奈は寝室に戻った。再び僕の前に現れたときには右手にノートを持っており、いつか見た交換日記だった。相変わらず表紙は綺麗なままで保たれていた。


 写真の上でノートを広げると、麻奈はシャープペンシルで桜花への苦情を書き込んでいく。僕の知らないところで交換日記は何回か行われていたらしく、数ページに文字が並んでいた。


「これで大丈夫でしょう。もし効果がない感じでしたら、結人さんから言ってください」


「彼氏の僕が言っても付け上がるだけですよ。あんまり意味があると思えません」


「物は試しっていうじゃないですか。とりあえずやってみてください」


「そこまで言うなら、言っておきます」


 前向きな返事を聞いて麻奈は口角を上げた。


「今さらの話にはなりますが、麻奈の私にも友達がいるので、桜花と遊ぶときは大学の人たちに見つからないように注意してくださいね」


「元から気を付けてるつもりです」


「それなら良かった。さすがは彼女もちの結人さん、配慮ができるんですね」


「褒めるか貶すかどっちかにしてくださいよ」


「褒めてるに決まってるじゃないですか」


 口元に手を当てながら、麻奈は楽しそうな表情を作った。


 上品で高貴な知性を感じる笑みは麻奈の身体とぴったりで、桜花の笑みとは似ても似つかなかった。


「秋祭りの写真、貰ってもいいですか」


「大丈夫ですよ。うちのパソコンにデータは残ってますから」


 スマホにだけに残しておくとなんだか心許ないので、僕は帰ったその夜にパソコンにデータを移し替えておいたのだ。ちょっとした不手際でデータが消えてしまうと怖いので、ある意味僕の心配性によるものかもしれない。


 桜花は大事そうに写真を手に取る。宝物を見つけた子供のような嬉々とした表情だった。


「ありがとうございます。大事にします」


「いつでも複製できますから、そんなに貴重な写真じゃないですよ」


「私にとっては大切な写真です」


 桜花は写真を天井に掲げ、写真の向こうの世界を見入っていた。


「いいなぁ……」


 その小さな呟きは、僕に聞こえることはなかった。


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