第12話

 僕たちの不思議な入れ替わり生活は当たり前の出来事になっていた。麻奈が土日を過ごすことはほとんどなくなり、桜花として生活するようになった。


 そんな平日の午後。僕はスマホから麻奈の連絡を受けて、久しぶりの大学の図書館に足を運んでいた。


 麻奈は先日と同じ席で本を読んで待っていた。この間読んでいた本とは厚みが違うので、おそらく別の本だろう。


 麻奈は僕を見るなり微笑んだ。


「こんにちは」


「こんにちは。平日に僕を呼ぶなんて珍しいですね」


「久しぶりに結人さんと話してみたくて。ご迷惑でしたか」


 こくりと首を傾げる麻奈。僕は別のところに引っかかりを覚えた。


「どうして僕を結人って呼ぶんですか」


「桜花にそうした方がいいって日記で言われたんです。私たちは桜花と麻奈って呼び合う関係にしようって。それに、私が結人さんのことを統一した呼び方で呼ばないのは不自然でしょう?」


「じゃあ、どうして『さん』を付けるんですか。桜花は付けてませんが」


「それは……」


 麻奈は頬を赤らめて目を逸らした。


 桜花は僕のことを結人としか呼ばない。初めて会ったときは『結人くん』と呼ばれていたものの、一週間で呼び捨てになっていた。


「桜花には呼び捨てにするように言われたんですけど、さすがに恥ずかしくて……」


「なるほど」


 そんなに恥じらいを見せられると、心なしか僕も恥ずかしくなってしまう。確かに僕たちは出会って一ヶ月を少しの関係で深い付き合いとはいえないので、親しく呼び捨てにする間柄ではなかった。


「じゃあ、麻奈……って、やっぱり恥ずかしいですね。僕はさん付けにします」


「そうですね。こんなことを平気で出来る桜花は凄いと思います。私にはとても真似できません」


「僕も彼女にするには荷が重いといつも思います」


 僕はそう言いながら麻奈の前に腰を下ろした。


「最近は桜花とどうですか」


「遊びに行ったり僕の家で本を読んだりっていう感じですね。今度の週末に日帰りで県外に行こうと思ってるんですけど、麻奈さんは予定とかあります?」


「何もないので安心して行ってきてください。あ、でも、一つだけお願いをしてもいいですか」


「僕にできるなら」


「桜花と結人さんが映っている写真が欲しいんですけど、構いませんか」


 意外な頼みに僕は目を丸くした。


「僕たちの写真なんて面白くないですよ」


「そうじゃなくて、私じゃない私がどんな笑顔をしているのか見てみたいんです。日記だけじゃどうしてもわからなくて」


「日記にはどんなことが書かれてるんですか」


「結人さんと遊んで楽しかった、とか、結人さんが変なことをしてて面白かった、みたいな感じですね」


「僕のことばかりじゃないですか」


「それほど桜花が結人さんを好きでいるってことですよ」


 桜花は口元に手を当てて、ふふっと笑った。桜花が僕のことを書くのは当然だと思っていたが、まさかそこまで書いているとは。できれば麻奈に引かれるようなことは書いていないことを願った。 


 そんなに楽しそうに書かれていたら、日記だけではどんなことをしているのかわからなく、気になってしまう麻奈の気持ちもわかった。写真を取るだけならスマホで簡単にできるので、手間はかからないだろう。


 図書館に鳩の鳴き声がこだまする。鳩の人形が壁掛け時計から顔を出してせわしなく頭を動かしていた。


 この日に残っている予定を頭に浮かべていると、麻奈が先に口を開く。


「もう三時ですね。私は特に用事がないですけど、結人さんはどうですか?」


「あと講義が一つあるんですけど、今から向かわないと間に合わないかもしれません。そろそろ帰ります」


「そうですか」


 呟きながら麻奈は本を畳んだ。表紙をのぞき見してみると、今年最も売れているとネットで話題になっていた恋愛小説だった。


 カバンに一通りの荷物がまとまっていることを確認する。席を立って図書館の外に身体を向けた。今から小走りで行けば講義に十分に間に合うだろう。


 歩き出そうとしたところで、後ろ髪を引くような麻奈の声が背中越しに聞こえる。


「写真の件、よろしくお願いします」


「できるだけ綺麗な写真を取れるようにします」


 桜花は微笑んで僕を見送った。僕は足音を響かせないように細心の注意を払いながら図書館の廊下を走り抜けた。


「おっ、結人」


 図書館を出たところで、呑気に歩いている陽介に出くわした。僕と同じ講義を受けているはずなのに、どうしてそんな余裕があるのか尋ねてみたいが、僕の方にその余裕がなかった。


 僕の焦燥感など知るはずもなく、陽介は下心がありそうな笑みを浮かべる。


「結人が図書館で勉強なんて珍しいな」


「勉強じゃない。ただ、麻奈さんと会ってただけだから」


「何の話で?」


「今度桜花と遊ぶときに写真を撮ってきて欲しいんだってさ。僕たちの様子が知りたいんだと」


「へえ。藤宮さんも変わってるな。人の色恋沙汰なんて面白くもないだろうに」


「自分の身体だから気になるんじゃないか」


「なるほど」


 陽介はとりあえず納得してくれたようだった。と、今は立ち話に花を咲かせている場合じゃない。陽介に講義のことを尋ねると、完全に忘れていたと答えた。


 僕たちは小走りに講義室を目指す。


「藤宮さんも大変だなあ」


 陽介の呟きは僕の耳に届かなかった。


 


「あっ、結人!」


 桜花との日帰り旅行を約束した日。電車のホームで僕を見つけた桜花は元気に手を振っていた。スマホの時間を確認するとまだ午前七時前。約束の時間は七時半なので、三十分以上前に来ていたことになる。


 電車は定刻通りしか来ないので、早く来ても待つしかないのだが、僕たち二人は特に気にならなかった。桜花はリュックを担ぎ、白シャツにジーンズというオシャレよりも機能性を重視した格好だった。足元もスニーカーで、遊ぶための完全装備といった感じだ。


「お待たせ、待った?」


「そういう気障な台詞は似合ってない」


「会っていきなりそれ?」


 朝からテンションが高い桜花に肩透かしな気分を食らう。寝起きでそんなに元気になれるのがちょっと羨ましかった。


 リュックほどの荷物を持った桜花とは違い、僕はポケットに財布やスマホを入れている。そのため、ほとんど手ぶらに近い状態だった。


 僕たちは並んでホームに立つ。延々と続いていそうなレールの先を眺める。


「麻奈が楽しんできてって」


「図書館で聞いた」


「学校で会ったの?」


「僕と桜花がどんなことをしてるのか知りたかったんだってさ。今日の旅行の写真が欲しいって頼まれた」


 僕がスマホのカメラ機能を見せると、桜花は「へえ」と言って笑顔でピースサイン。早速僕はボタンを押してシャッターを切った。旅の一枚目ができあがった。


「いい感じに撮れた?」


「まあまあ」


 僕が撮った写真を見て桜花は眉を寄せる。


「私じゃないみたい」


「写ってるのは麻奈さんだから、当たり前だよ」


「すっかり忘れてた」


 写真の中では溌溂とした麻奈が笑顔でピースサインをしていた。 知性ある落ち着いた雰囲気と快活な笑顔はどこかアンバランスで、ちょっと面白かった。


 気持ちが顔に出ていたと気付くが、後の祭り。


「……馬鹿にしたでしょ」


「してない」


「嘘。顔が笑ってる」


 桜花が頬をつついてくる。唇を尖らせても美人は崩れなくて、僕は心臓を握られたような感覚だった。頭の芯がかっと熱くなり、理性が警告音を鳴らす。公衆の面前でなかったら勢いに任せて押し倒していたかもしれない。


 僕のスマホを持った桜花ごと向こうへと押しやった。


「ほら、下らないことで揉めてないで写真撮らないと。さっきの一枚しか取れてないんだからさ。適当にポーズ取って」


「まったく、結人は都合いいんだから。あとで私がちゃんとチェックするからね」


「はいはい」


「もっとやる気出してよ」


 文句を垂れ流しながらも桜花は笑ってポーズを取り、僕は何枚も写真を撮り続けた。


 いつの間にか三十分が過ぎて、スピーカーから電車の到着を知らせるアナウンスが響く。たった三十分で何十枚もの写真を取っていた。


「電車の中で検閲するから、スマホ貸して」


「僕がするからいいよ」


「結人だと恥ずかしい写真とか撮ってそうだからだめ。大人しく渡しなさい」


「わかったよ」


 しつこい桜花に僕のスマホを渡す。桜花は一枚目を見るなり嫌そうな顔をした。


 ゴミ箱のマークに華奢な人差し指が何度も伸びた。僕の三十分が無意味になった。


「はい。これだけあれば十分でしょ」


 手渡されたスマホの写真アプリを立ち上げると、両手で数えられるぐらいの写真しか残っていなかった。


「勿体ないなあ」


「角度とかポーズが悪いからしょうがないの。もっときれいに撮ってよ」


「素材が良ければ綺麗な写真になるのに」


「あっ、今のこと麻奈に言ってもいいの?」


 迂闊な台詞にはっとする。しかし桜花は聞き逃していなかった。人の弱みを握っている桜花の顔は、なんて意地の悪そうな顔なのだろう。とても麻奈には似合わない。


 半目で桜花を睨んで見るが、更に増長させるだけだった。


 僕たちが気まずい空気になっていると、頭に響く金属音を立てながら列車がホームに入ってきた。


「ほら、早く来ないと置いてくぞ」


「そんなに拗ねないでよ。麻奈には内緒にしててあげるって」


 早足で電車に乗り込む僕に、桜花は気の抜けた声を出しながらついてきた。


 電車の中で、桜花はずっと僕の機嫌を取ろうと必死になっていた。


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