第11話

 もともと適当に街を練り歩いて遊ぶだけのつもりだったので、僕の予定など真っ白に等しいのだ。陽介の提案に反対する理由はどこにもなかった。


 陽介が先頭に立ってテニスコートへ向かう。その道すがら、僕は桜花の横に並んだ。


「今さらなんだけど、桜花か麻奈さんは入れ替わりのことを京子さんに伝えたの?」


「ううん。私も麻奈さんも言ってない」


「どうして麻奈さんのことが分かるんだ?」


「このノートで分かったの」


 桜花は白の革のカバンから真新しいノートを取り出す。表紙には『交換ノート』とマジックで書かれていた。


 僕は桜花からノートを受け取ると、最初のページを捲った。昨日の日付と麻奈のものらしき文字が並んでいて、桜花宛てに掛かれたものだった。


『桜花さんへ


 このノートにお互いの意識が無い間の出来事を残してくださると嬉しいです。桜花さんが次に起きるときは土曜日で、九時に大学前に椎葉さんと待ち合わせをしています。


 心配をかけないように、姉には入れ替わりのことを伝えていません。もし桜花さんから伝えるのなら、その前に私に教えて下さると幸いです』


 それ以降、家での振舞い方や、万が一大学で入れ替わってしまったときの対処法などが長々と説明されていた。できるだけ読みやすい文章を意識してはいたのだろうが、あまりにも分量が長すぎるせいで僕は読む気になれなかった。


「桜花も返事を書くつもり?」


「せっかくだし、書いてみようかなって思ってる。交換日記とか面白そうじゃん」


「変なことは書かないでよ」


「わかってるって」


 真っ白のページに思いを馳せる桜花の笑顔は、とても信用できる気がしなかった。


 僕たちは二人そろって並木道を歩く。道路の植え込みに咲いているコスモスが自動車の風に揺れていた。


 麻奈の長い髪が風に煽られた。生きていた頃はポニーテールで髪を縛っていた桜花は長く下ろされた髪の扱いが分からないらしく、せわしなく手を動かして髪を抑えていた。


「なんで麻奈は髪を結ばないの?」


「さあ。けど、麻奈さんはポニーテールよりも下ろした髪のほうが似合うと思うから、そのままにしておけばいいんじゃないかな」


「こんなに髪が長いと色々面倒なのに」


「勝手にいじると後で怒られるぞ」


 僕の諫めるような口調に、桜花は肩を竦めた。


 いくら桜花が支配権を握っているとはいえ、その身体は麻奈のものだ。桜花が勝手に手を加えることはできないし、傷つけることもできない。あくまで僕たちは麻奈のおかげで話すことができているのだ。 


「二人とも、こっちだ」


 前を向いて歩いていた陽介が、振り向きざまにそう叫ぶ。指さす方向を見てみれば、低木の間から緑の長方形のコートがあった。ここがテニスコートらしい。


 土曜だからということもあってか、お年寄りのグループや社会人らしい男女が健康的に汗を流していた。誰もが楽しそうな表情に見えた、


 僕たちは貸し出しのシューズやラケットを借りてコートに入る。人工芝の感触が足裏から伝わってきた。


「一応、俺は経験者だから、宮瀬さんと結人の二人対俺ってことでいいかな」


「うっわー、私たちのこと舐めてるでしょ」


 あからさまな態度で毒を吐く桜花に、陽介は両手を体の前で振った。


「そういうことじゃないって! 一人だけ見てるもの良くないし、これが一番公平なチームわけだと思っただけだよ」


「そんなに必死にならなくてもわかってるって。ね、結人」


「僕に振られてもどうしようもないんだけど」


「つれないなあ」


 桜花は肩を竦める。陽介はテニスボールを何度かバウンドさせて調子を確かめ終えると、コートの向こう側にいる僕たちへと声を掛けてきた。


「そろそろ始めないか?」


「ルールはどうするの?」


「別に真剣勝負じゃないんだし、コートから出るか二回バウンドしたら負けってことでいいんじゃないか」


「わかった」


「結人も大丈夫か?」


「うん」


 僕が前衛、桜花は後衛となって配置につく。陽介はボールを頭上に高く投げ、ゆっくりと落ちてくるところをラケットの中心で捉えた。


 陽介の腕力で加速されたボールが僕たちへと迫ってくる。ボールはブレることなくサービスボックスに入り、大きくバウンドした。


 後衛で待機していた桜花はボールの後ろに回り込んだ。ラケットを大きく後ろの引くと、「はあっ!」と掛け声と共にボールを陽介のコートへと打ち返す。


 再び帰ってきたボールを難なく打ち返しながら、陽介は口を開いた。


「宮瀬さんってテニスやったことあるの?」


「高校の体育で触っただけ」


 桜花もボールを打ち返す。


「それにしては上手いと思うよ。もっと練習すれば間違いなく上達すると思う」


「お世辞ありがと」


「お世辞じゃないって。マジで言ってるの」


「陽介くんこそ上手だよ」


「俺は毎日練習してるからで、そんなに上手くないから」


 二人の言葉とボールのやり取りに耳を傾けながら、僕はラケットを片手にネットの前で立ち尽くしていた。


 前衛としてボールを打ち返せそうな場面は何度かあったが、二人の会話を止めてしまう気がして打ち返す気になれなかった。


 まるで僕の胸の内に気付いたかのように、陽介が僕に向けてボールを打つ。


「結人はどう思う?」


「ごめん、話を聞いてなかった」


 僕はそう言いながらボールをネット前に落とす。


「宮瀬さんが上手いかどうかって話だよ」


「もともと桜花は運動神経が良かったし、普通に上手いんじゃないかな。少なくとも僕よりは」


「それはある」


 顔は笑っているのに、容赦ない力加減で陽介はボールを飛ばしてきた。僕の目の前にきたボールなので、僕が取らなければならない。


 ラケットの中心でボールを捉えたつもりだったのに、ボールの速度が速すぎるせいでラケットが持っていかれた。上手く跳ね返らなかったボールは向こうに返されることなく僕の足元に転がった。


「あちゃー」


「ごめん、油断してた」


「気にしなくていいよ」


 コートの後ろから飛んでくる桜花の声に手を合わせて謝る。


「真面目に大学でも運動してないと今のボールは取れないぞ」


「桜花に打つときは手を抜いてて、俺に打つときだけ本気でやってるだろ」


「バレたか」


「いくら何でも速度が違いすぎる。僕にも手加減してくれ」


「彼女の前で八百長をしてもみっともないだけだぞ。かっこよく打ち返して見せろよ」


「できるわけないだろ」


 しゃがんで拾ったボールを陽介に投げ渡す。陽介は「サンキュ」とラケットにボールを乗せると、反対側のコートの端へと歩いて行った。


「いくぞー」


 間延びした声と共にボールが打たれる。僕と桜花は必死に走り回ってボールを打ち返した。


 


 近くのファミレスで昼食を挟んで、僕たちは一日中テニスコートにいた。体力の衰えていた僕は途中でリタイアしたが、桜花と陽介は時間ギリギリまでずっと打ち合っていた。


「久しぶりに運動したー!」


「宮瀬さんに喜んでもらえたならよかった」


「もちろん楽しかったよ。陽介くん、誘ってくれてありがと」


「そんなに褒めると彼氏が嫉妬するぞ」


 コートにいた間、いいところを見せられなくて拗ねていた僕を横目に陽介が言った。


「ごめんね、結人」


「別にいいよ」


 返事をした僕は仏頂面になっていたと思う。


 僕と桜花のチームのミスの九割以上が僕のせいだった。陽介が僕にだけ手を抜いていないのもあったが、そのハンデを考慮しても僕が下手で、何度もラリーを止めてしまっていた。


 今日を悲観していた僕の右手を、桜花は左手で包み込む。


「結人はクレーンゲームとかメダルゲームとかが得意だし、テニスができないくらいで落ち込むことないんてないわよ」


「それは慰めになってない」


「どうして」


「いくらゲームが得意だとしても、桜花は運動が得意な男子の方が好きだと思うから」


 夕日で輝いていた桜花の瞳にさっと影が落ちる。


 告白の一件を聞いて、やっぱり桜花も陽介と付き合った方が幸せだったんじゃないか、そう思わずにはいられなくなっていた。


 僕は運動もできないし、性格も明かるとは言い難い。それに比べて陽介はどんな人とでも交われるような社交性を持っていて、運動神経も桜花と五分五分ぐらいだと思う。


 それに――。


 桜花は僕の唇を指で押さえた。


「私は結人が好きで死ぬまで付き合ったの。そんなに自分を卑下しないで。彼女の私に恥をかかせるつもり?」


「そんなつもりじゃない」


「なら、堂々と胸を張って生きるんだよ。結人の良いところは私がたくさん知ってるから、安心して生きて」


 夕日をバックに微笑む桜花は、本当に綺麗だった。


 腰までありそうな長い髪。西洋の人形のように真っ白で傷一つない肌。ほんのりと弧を描いている唇。たとえそれらが麻奈さんのものだったとしても、今は桜花の笑顔の一部になっていた。


 死人に生きろと言われると、説得力が全く違う。


 見えない両手に背中を押されたように、僕は桜花の隣に並んで歩いた。


「今日のこと、麻奈さんに教えてもいい?」


「桜花の好きにすればいいんじゃないか。でも、僕について変なことだけは書かないでよ」


「さあ、どうしよう」


「麻奈さんに変なことを言われたら絶縁するから」


「そんなことできないくせに」


 桜花は人差し指で僕の右頬をつついてくる。僕の虚勢を張った脅しは全く意味を成していなかった。


「二人とも、足が止まってるぞ」


 いつの間にか距離が離れていた陽介が、交差点の向こう側から僕たちを呼んでいる。


「ごめんごめん」


 桜花は両手を合わせて謝ると、疲れを知らない動きで横断歩道へと駆け出していく。桜花が歩道から道路に出る直前、点滅していた青信号が赤信号へと切り替わった。


 ハッと息を呑んで陽介の方へと走っていく彼女を見る。信号に気付いている様子はない。


「桜花!」


 通りすがりの人の目などすっかり忘れて、僕は大声を叫んで桜花の腕を掴んだ。


 通行人のいない道路をトラックが通り過ぎていく。黒煙を排気口から巻き上げて、やがて視界の外へと消えていった。


 あと一歩間違えれば轢かれていたかもしれない。そんな考えが脳裏を掠めた。


「……ごめん」


 僕に手を握られた桜花は気弱に項垂れていた。


「僕こそもっと早く信号に気づくべきだった。なにはともあれ、桜花に怪我が無くて良かったよ」


「ありがと」


「うん」


 僕たちは歩道に並んで青信号を待った。何台もの車が僕たちの前を通り、騒音と煙をまき散らしていった。


 赤の信号から光が消えて、鳥の鳴き声のような青信号を知らせる音が鳴る。


「今度は気を付けて」


「わかってる」


 交差点を渡り終えるだけなのに、普段より神経をすり減らした気がした。


 横断歩道の向こう側にいた陽介は重苦しい僕らの距離を察しなかったらしく、相変わらず明るい表情だった。


「信号ぐらいちゃんと見とけよ」


「ごめん。二人で話し込んでて気づかなかった」


「大事な話だったのか?」


 僕の言い訳に陽介は眉を寄せる。


「ぜんぜん、面白くもない世間話だよ」


 陽介は桜花に水を向ける。しかし桜花も僕と同じように答えるばかりで、うやむやのままに追及は終わった。


 どこか釈然としない表情のまま、陽介は「まあいいか」ととぼけた声を出した。


「もうすぐ夕方だけど、宮瀬さんは用事とかある?」


「別にないわよ」


「じゃあ、三人でどこか食べに行かない?」


「私はいいよ。結人はどう?」


「僕も行くよ」


「じゃあ決まりだな。ちょうどこの辺りにいい店を知ってるんだ。ついて来てくれ」


 迷いのない足取りで陽介は歩き出した。僕と桜花は手をつないで親友の背中を追っていった。

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