第10話
あくる日の晴れやかな午後。陽介が溜まりに溜まっていた課題に追われている間、来週の土曜にある桜花とのデートに妄想を膨らませていた。
「なんか楽しそうだな。いいことでもあったのか?」
「ちょっと」
「なんだか彼女ができたっていう顔してるぞ」
「惜しいけど、微妙に違う」
「どういうことだ? まさか麻奈さんとお試しで付き合ったとか」
「麻奈さんとは付き合ってない」
僕の否定を聞いて、陽介が首を傾げた。どうやら陽介にとって僕の知っている女性は麻奈だけのようだった。しかし桜花を除けば実際その通りなので、特段嫌な気持ちも湧くことはなかった。
曖昧に質問を躱していると、陽介が課題の手を止めて詰め寄ってくる。
「なあ、ほんとに教えてくれよ。一体何があったんだ」
「桜花が戻ってきたんだ」
「桜花? あの宮瀬さんのことだよな?」
「そう」
何の抵抗もなく答える僕に、陽介は眉を顰める。
「あの人は三年前に死んだんだろ」
「でも、麻奈さんの身体に戻ってきたんだ」
「……そうか。良かったな」
しばらく間をおいて答えは陽介は、悲しくて泣きじゃくる子供を慰めるような、そんな優しい声だった。僕のことを変な奴だと思っているのかもしれなかった。
陽介はペンを机に放り投げると、その大きな両手でがっしりと僕の肩を捕まえる。
真剣に話したいつもりなんだなと、第三者のように思った。
「結人、お前が宮瀬さんのことを好きだったのは知ってるが、藤宮さんに昔の彼女の姿を重ねるな。後で絶対に後悔することになるぞ」
「だから違うって。本当に麻奈さんの身体に桜花が宿ってるんだって」
「お前、自分の言ってる意味が分かってるのか?」
「僕が現実離れな話をしてることは自分自身で分かってる。でも、本当なんだ。信じてくれ」
「そんなオカルトじみた話を信じられるわけないだろ」
陽介の主張は至極真っ当なものだった。他人の意識が人間に乗り移るなど、簡単に信じられるものではなかった。
「じゃあ、今度の土曜に桜花と会わないか。そうすれば信じてもらえると思う」
思案顔で陽介は黙り込む。いきなり変な提案をされたら誰だって了承するかを躊躇してしまうだろう。僕だってそうする。
「何時だ?」
「午前九時。大学前で会う予定」
「それなら俺も行ける。でも、お前と藤宮さんのデートを邪魔してもいいのか?」
「そもそもデートじゃないし、桜花も昔の知り合いに会ったら喜ぶと思う」
「なるほどな」
信用半分、疑い半分な曖昧な返事をして、陽介はまた課題の山へと戻っていった。桜花に興味があるというよりは、頭のおかしくなった僕を心配しているという感じだった。
陽介が本気で課題に向き合うと、僕は話し相手が居なくなって手持ち無沙汰になる。ふと窓の外に目を向けると、仲良く並んで歩く藤宮姉妹が目に入った。
京子さんは四年、麻奈は僕と同じ二年だ。同じ講義に向かっているわけではなく、たまたま会ったのだろうと推理してみた。
通りすがりの学生の注意を引いても、些細なことだと気にすることなく藤宮姉妹は話に夢中になっていた。端から見ても麗しい姉妹愛だった。
京子さんが口を開くたびに、麻奈の表情はころころと変わる。明るい感情だけの七面相は何度見ても飽きそうになかった。
五分ほどして二人は両手を上げ、おそらく「さよなら」ぐらいの挨拶でもしたのだろう、お互い別々の場所へと向かって歩いていく。やがて建物の陰に入って僕からは見えなくなった。
「おい結人」
陽介の声で、僕の意識はガラスの手前へと引き戻される。
「どうした?」
「さっきから窓ばっかり見てるからさ。何か面白いものでも見つけたか?」
「ちょっと藤宮姉妹がいたから見てただけ。姉妹で仲良さそうにしてたから、ちょっと興味があった」
とりとめのない僕の話に、陽介は普段と変わらない口調で「そうか」とだけ言った。
「テニス部でも、京子さんがたまに現れてはよく妹のことを言ってるぞ。仲が悪いよりは仲が良いよりはいいんじゃないかな」
「それなら、どうして麻奈さんは京子さんと一緒にテニス部に入らなかったんだろう」
「京子さんから聞いた話だが、麻奈さんは身体が弱くて運動が出来ないらしい。理由は聞いてないけど、たぶん病気だろうな」
「今はどうなんだ?」
「普段通りに生活できるそうだ」
それは良かった、と心の中で呟き、僕はさっきまで麻奈がいた場所へと目を向けた。もちろん彼女の姿が見えるはずもなく、誰とも知らない人々が行き交っている光景だけが目に映る。なんの変哲もない日常の一ページだった。
地面に落ちていた木の葉がそよ風に吹かれて、大学と道路の境目にある柵に引っかかる。
ふと、僕の中にも引っかかる疑問が生まれた。
「どうして麻奈さんは運動できないことを黙ってたんだろう」
「言う必要が無かったからじゃないか」
「命に関わることだったらどうする」
「そうじゃないから言わなかったんだろ。お前に迷惑を掛けたくなかったんじゃないか」
「なるほど」
陽介の話は筋が通っていたので、僕はそれ以上突っかかることはしなかった。
しばらくして、持ってきていた課題が終わったらしい陽介が立ち上がった。使っていた席を軽く掃除すると、僕の方へと向き直る。
「宮瀬さんと会うのって土曜の九時だっけ?」
「九時に大学前」
「了解」
陽介はスマホを取り出した。画面と反対側に座る僕からは何を書いているのかは見えないが、どうやらメモを取っているようだった。
「それじゃ、またな」
「うん」
何の情も残すことなく陽介は僕の隣を去っていく。ぽつんと残された僕の周りには誰もいなくなった。
侘しい雰囲気を纏いながら講義室を後にして、肌に染みる冷気を伴った秋の空気へと身を晒す。さっきまで晴れていた空はどんよりと曇っていた。
土曜日は晴れて欲しい。なんの脈絡なしにそう思った。
長い四日間を乗り越えて、土曜の大学前で僕と陽介が立ち話をしていると、軽快な足音が僕たちへと近づいてきた。
「お待たせ」
振り返ってみると、黒のワンピースの上からベージュのジャケットを羽織った麻奈が立っていた。笑い方といい息の弾ませ方といい、麻奈本来の品格が落ちていて、代わりに元気が有り余っているような雰囲気だった。
「こんにちは……麻奈さん?」
「違う。こいつは桜花だ」
「さすが結人。よくわかってる」
桜花は相好を崩して賞賛する。陽介は驚きと不信が入り混じった表情になった。
「宮瀬さん、こんにちは。牧村陽介です」
「陽介くん⁉ たしか高校で一緒だったよね?」
「そうだけど……」
食い気味に体を寄せる桜花に、陽介は気圧されていた。
「一年の春ごろに体育館で私に告白したこと、覚えてたりする?」
「んなっ……どうしてそのことを⁉」
「私が宮瀬桜花だからに決まってるじゃん」
「本当に宮瀬さんなのか?」
「それ以上疑うつもりなら、結人にあることないこと話すけど」
「……わかった。信じる」
告白の秘密を暴露され、ようやく陽介は桜花の存在を認めた。
陽介が桜花に告白していたなど、僕は知らなかった。誰に対しても明るかった桜花に告白が来るのは当然のことだと思う。けれども、陽介が桜花に告白したという事実を、文字通りに受け止めることはできなかった。
これが嫉妬なのかもしれない。親友と彼女の関係にやきもきする気分が嫌になった。
暗い気持ちを抱く僕などいざ知らず、桜花が明るい眼差しを向けてくる。
「ねえ結人、今日はどうしよっか」
「陽介もいるんだし、三人で遊べるとこがいいんじゃないかな」
「公園で走るとか、ぶらぶら散歩するとか」
「なんだよそれ」
「ちょっと、馬鹿にしないでよ」
お子様みたいな発想に陽介が吹き出すと、桜花は負けじと頬を膨らませた。
お金のかかる遊びを極力避けるあたり、桜花の精神が高校生のときと変わらないのだと実感させられる。けれどもそれは桜花の時間が三年前から動いていなかったことを暗に意味していて、少し寂しい気がした。
なかなか良晏が出なくて三人で頭を突き合わせていると、陽介が手を叩く。
「テニスとかどう?」
「テニス?」
桜花がおうむ返しに尋ねた。
「俺、大学でテニス部に入ってるんだ。宮瀬さんは高校で運動部だったし、三年ぶりにっ身体を動かしたいんじゃないかって思って」
「それはいいかも。結人はどう?」
「桜花がいいなら」
「それじゃ決まりだな」
陽介は白い歯を覗かせて眩しく笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます