第9話

 僕たちが雑談に耽っていると、いつの間にか夕方になっていた。窓から差し込む光は茜色に染まり、青かった空を真っ赤に塗り替えている。


「桜花、そろそろ帰った方がいいんじゃない?」


「どうして?」


 僕の提案に驚いた桜花が顔を上げた。


「今の桜花って麻奈さんの身体を借りてるわけだから、最低限は麻奈さんとしての生活を送らないと迷惑になんじゃないかな。だから、今日は藤宮さんの家に帰った方がいいと思って」


「なるほどね。身体のこと、すっかり忘れてた」


「今日は一度帰って、また麻奈さんに迷惑を掛けない範囲で会えばいいんじゃないかな」


「それもそうね」


 桜花は首を縦に振った。しかし「でもさ」と言葉を続ける。


「私が寝たら、この身体の意識は麻奈さんに戻るんじゃない?」


「どうして?」


「なんとなくというか、心で感じるというか……とにかく、そんな気がするの」


「でも、二度と会えないってことはないんだろ?」


「うん。きっと戻ってくれる気がする」


「それならいいよ。今日は帰って」


「わかった」


 桜花は立ち上がり、スカートを二、三回払った。僕から帰りの電車賃だけ受け取ると、手ぶらで玄関に向かう。


「僕もついて行こうか」


「いいよ。帰り道は覚えてるし、一人で大丈夫」


「気をつけて帰ってね」


「もちろん。トラックに轢かれないように注意する」


 笑顔を見せる桜花にしてみれば冗談のつもりだったのだろうが、彼女をトラックで引かれている僕には冗談に聞こえなかった。


 背中から冷たい汗が流れ、目の前から消えていく桜花の腕を掴みたい衝動に駆られる。しかしそれは桜花への信頼を裏切るような行動な気がして、足を動かすことはできなかった。


 三年ぶりに会った彼女が去った今、部屋には僕一人だけがぽつんと立っていた。騒々しかった部屋のボリュームが一気にゼロになったようだった。


 立っていても座っていても、桜花が頭から離れずにいる。電話を掛けそうになるものの、麻奈に戻っている可能性を考えると安易にはできなかった。


 散らかった部屋を何周も回る。僕の思考も終着点が見えないまま、ぐるぐると渦を巻いている。


 桜花が去ったその夜、不安のあまり一睡もできなかった。


 


 翌日の六時頃。夢か現実かもわからない中途半端な意識でベッドに横たわっていると、何の前触れもなくスマホの着信音が鳴り出した。急いで画面を明転させて確認する。相手は藤宮麻奈だった。


 本人が掛けてきているのか、桜花が掛けているのか。


 少し話せばわかることなのに、僕は通話ボタンを見つめたまま固まっていた。過度の緊張のあまり、心臓が早鐘のように打っていた。


 無為に時間だけが過ぎていく。このまま電話に出なければどうなるのだろうか。いや、きっとどうにもならないだろう。


 僕は深く息を吸い込むと、ゆっくりと吐き出してから通話ボタンを押した。


 耳に電話を当て、その時を待つ。


『椎葉さんですか』


 電話に出たのは麻奈だった。桜花ではなかった。


 失望感が乗らないように注意しながら、平然を装った口調で話す。


「こんな朝早くにどうしたんですか。まだ六時ですよ」


『ご迷惑でしたか』


「いえ。ちょうど眠れなかったとこなので」


『そうですか。私は日付が変わるぐらいぐっすり寝てました』


「えっ」


『……椎葉さん、何か隠してますね』


 麻奈の発言が僕を引っかけるものであったことに、遅れて気付いたのだった。


 スマホを握る手が震える。とりあえず謝らなければならないことは分かる。だが、桜花のことをどう説明するべきかが分からない。


 僕たち二人の間に沈黙が横たわる。自分の喉が鳴った音がはっきりと聞こえた。


 折を見て、先に会話を切り出したのは麻奈だった。


『昨日、私と椎葉さんが一緒に出ていったと姉から聞いたんです。私には記憶が無いので、もしかしたらと思って電話したのですが……当たりだったようですね』


「ちょっと複雑な事情があって……」


『それは理解しているつもりです。電話口では説明も難しいでしょうし、一度大学で合いませんか』


「……はい」


『正午に大学の図書館はどうでしょうか。今日は日曜で大学が休みですし、人気が少ないと思います』


「わかりました。時間通りに行きます」


 それだけ言い残すと、スマホの上にある赤い通話ボタンを押した。ツー、ツーと無機質な音が鼓膜に響く。普段は気にならないのに、今日はやけに高い音のように感じられた。


 昨日の出来事を、まだ麻奈は何も知らない。


 話しぶりからして僕を責めているわけではなさそうだった。だが、麻奈の身体に桜花が宿ってました、などと説明しても信じてもらえるだろうか。


 時計を見上げる。約束の正午まではあと五時間はあった。移動の時間を考慮しても、昨日の出来事を説明するだけの時間がある。


 机に広げたノートに麻奈への言い訳を書き散らしながら、できるだけ話の通った説明を組み立てていった。


 


 授業が一切ない日曜に大学に来たのは、今日が初めてだった。


 構内ですれ違うのは大学生よりずっと年上の大人ばかりで、僕のような若者の姿はあまり見かけられなかった。


 一年の夏にレポートの参考書を探したきり一度も来ていなかった図書館に足を踏み入れる。絶妙な空調が効いた本の森が僕を出迎えた。


 アルバイトであろう眠たげな大学生の司書以外に人影はなく、本当に静かな空間だった。


 話し声もしなければ、物音もしない。どんなことが起こっても、この図書館だけは永遠に無音を保っていると思えた。


 そびえたつ本棚の群れを潜り抜け、図書館の奥にある読書スペースへと向かう。


 僕よりも先に来ていた麻奈がテーブルに座って本を読んでいた。


「こんにちは」


「まだ十分前ですよ。もう少しゆっくり来ても良かったのに」


 麻奈は未読の物語に惜しげもなく本を閉じる。


「十分前行動って小さい頃に習ったじゃないですか。あの頃の癖が抜けてないだけです」


「先生によく言われましたね」


 麻奈は口角を上げて微笑んだ。


 どこか上品な知性を感じるその笑みは桜花とはけして相容れないもので、僕の目の前にいるのが麻奈なのだと再認識させられた。


 僕はテーブルを挟んで向かい側の椅子に腰かける。中学校の三者面談に向かう生徒のような緊張が心の中にあった。


「昨日、何があったのか教えてください」


 唇を結び、揺れることのない双眸が僕を映し出す。嘘を付けない圧迫感に思わず目を逸らしてしまった。


「……桜花に会ってました」


「私が知らない人ですね」


「僕の彼女だった人です」


「でも、椎葉さんの彼女って……」


「死んでます。いや、正確には死んでいるはずです」


 麻奈の大きな黒瞳がさらに大きく見開かれた。いかにも言葉が出ないといった様子だった。


「一昨日の夜、僕は麻奈さんと寝ていました」


「それは覚えています。間違いありません」


 麻奈は相槌を打つ。


「昨日の朝、僕が先に起きてテレビを見ていると、麻奈さんが起き上がってきたんです。それで、僕のことを『結人』って呼んだんです」


「それがどうかしたんですか?」


「僕のことを下の名前で呼ぶのは、家族の他には数人の男友達と、それに桜花だけなんです」


「なるほど。それで、私が桜花さんになっているのでは、と考えたんですね」


「はい。僕と桜花にしか知らないはずの思い出を知っていたので、間違いありません」


「私が私でなかったのなら、記憶が無いのにも納得がいきます」


「信じてくれるんですか」


 すんなりと理解の意を示す麻奈に、僕は思わず声を抑えることを忘れてしまった。


 自分で言うのも憚られるが、僕が語った出来事は何の根拠もない話だと一蹴されても文句を言えない内容だ。麻奈に嘘をついていると疑われると覚悟していた身としては、こんなにあっさり信じてもらえることが信じられなかった。


 驚き固まっている僕に、麻奈は首を横に振る。


「疑う意味もありませんし、昨日の私が姉にあなたの彼女だって言ったらしいじゃないですか。その件も私に椎葉さんの彼女が乗り移っていたのなら辻褄が合います」


「ですけど、僕が嘘をついている可能性は考えても……」


「椎葉さんの話が嘘じゃないことは、なんとなくわかるんです」 


 麻奈は胸に手を当てて、大切な宝物を抱くようにしながらそう言った。


 あまりにも僕に都合の良すぎる展開に、感謝を通り越して呆れを感じてしまう。今なら思いのままにサイコロの目を指定できそうだ。


 複雑な気持ちで視線を中空に投げかけていると、麻奈が口を開く。


「桜花さんとはどんな話をしたんですか?」


「中学や高校の思い出話とか、桜花が死んだ後のこととかですね。それと、僕が大学に通っている話とか」


「色々なことを話していたみたいですね」


「気づいたら一日が終わってるぐらいには楽しかったです」


 子供のようにはしゃいで話す僕を見て、麻奈も頬を柔らかくする。


「そんなに喜んでもらえたのなら、身体を貸した甲斐がありました」


「とっても嬉しかったです……って、え?」


 聞き捨てならない言葉が飛び出して、浮かれていた僕の気持ちは一瞬で冷えて固まっていく。


 麻奈は身体を貸したと間違いなく言った。その発言を辞書通りの日本語の意味では理解できる。しかしそれ以上は理解できなかった。


 図書館に来たばかりのときの緊張など、僕の心には残っていなかった。


「身体を貸したって、どういう意味ですか」


「そのままの意味ですよ。夢の中で、そのときは誰かわかりませんでしたけど、桜花さんに身体を貸して欲しいって頼まれたんです」


「そんなことあるわけないじゃないですか」


「事実だったことは、桜花さんにあった椎葉さんが一番理解していると思いますよ」


 得意げな笑みを見せる麻奈。僕の中で荒れ狂う疑問の嵐は留まることを知らなかった。


 どうして麻奈の身体に桜花が宿ることができたのか。どうして他の誰でもなく、麻奈の肉体が選ばれたのか。


 浮かんでくる疑問は口に出そうとしても、喉に引っかかって出てこない。


 そんな食い気味な僕に対して麻奈は右手を上げて制した。


「聞きたいことが山ほどあるのはわかります。ですが、私にも突然のことなのであまり詳しいことは分かっていないんです」


「一つだけ聞かせてください」


「なんですか?」


「また桜花に会うことはできますか」


 僕たちは黙り込む。麻奈が答えるまでの一分一秒が長ったらしく感じられて、心臓だけがせわしく脈を打っていた。


 何千秒も過ぎたと思ったとき、麻奈の口がゆっくりと開かれた。


「おそらく、できると思います」


「方法は?」


「私が眠ったとき、桜花さんが夢の中に出てくれば交代できると思います。昨日の要領でやってみればいけるかもしれません」


 麻奈の口調は力強かった。僕に希望を与えるには十分だった。


 二度と話すことができないと思っていた彼女に会うことができる。夢のような現実を前にして、僕の胸に芽生えた喜びはどんな言葉でも表しきれなかった。


 数分経って冷静になると、僕はある一つの問題点を思い出した。


 桜花が僕と話せるようになるには、必然的に麻奈の身体に宿らなければならない。つまりは麻奈の協力なしに僕の望む逢瀬は実現しないのだ。


 気まずそうに麻奈に目を向けると、麻奈は普段と同じように笑った。


「心配しなくても、用事のない土曜や日曜に交代しますから。そんな泣きそうな顔をしないでください」


「ありがとうございます」


「いまさら畏まらなくてもいいですよ。他の人と一緒に身体を使う経験なんてなかなかできませんし、実は、私もちょっと面白そうだなって思ってるんです」


 まだ見ぬ世界への好奇心に目を輝かせる麻奈は、とても魅力的に見えた。


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