第8話
僕が一人暮らしをしているアパートは大学から徒歩十分で、なにかと便利な立地だった。セキュリティもそこそこで、十畳のリビングにキッチンとお風呂等々という物件だ。
僕が暮らしている部屋を見るなり、桜花は叫び声を上げた。
「汚い、汚いよ!」
桜花の目の前に広がっているのは、大学の教科書が散乱した床、着替えで埋もれたシングルベッドだった。さらには文庫本で埋もれた机というおまけもついていて、桜花からすれば見られたものではなかったらしい。
「こんな部屋でよく生活できるね」
「始めはちょっと抵抗が合ったけど、慣れれば割と楽なんだ。掃除しなくても気にならなくなる」
「私が死んでる間にこんなことになって……」
意地悪な姑みたいな台詞を吐く桜花に、僕は不快感を込めた目を向けた。桜花は軽い調子で「ごめんごめん」とだけ言って朗らかに笑うと、足の踏み場もないリビングへと一歩踏み入れた。
いつ読んだか思い出せない教科書たちが足蹴にされて部屋の隅に追いやられていく。桜花は邪魔な障害物を撤去して、なんとか座れるスペースを作り上げた。
「実家にあった結人の部屋は綺麗だったのにな」
過剰なほどに生活感の溢れた部屋で、桜花はそう呟く。
「母さんが掃除してくれてたから」
「自分ではやってなかったの?」
「最低限はしてた。それに、桜花が遊びに来るから適当に掃除できなかったし」
「へえ、私のためにねぇ」
「うるさい」
僕は照れ隠しも兼ねて戸棚にあったクッキーの菓子袋を投げつける。放物線を描いて宙を舞った菓子袋は、桜花の両手の中にすっぽりと収まった。八割方の速度で投げたつもりなのに、難なくキャッチされて少し悔しい。
キッチンでコップを二つ用意してから荒れたリビングに行くと、桜花は菓子袋をじっくりと眺めまわしていた。
「ちょっと見ない間に包装が変わってるね」
「そう?」
「うん。ここにマークがハート型になってる」
桜花に顔を近づけ、パッケージを覗き込む。三年前は星型だった菓子の焼き印がハート型に代わっていた。
僕は「たしかに」と声を出した。桜花に言われてみるまで気付かなかった。
「三年生きた結人でも気付かないものなんだね」
「僕だって毎日気を張って生きてるわけじゃないから。割といい加減に生きてる感じだし、こんな些細な変化に気付くわけないよ」
「それもそうね」
桜花はクッキーを摘みながら呟いた。
僕は充実した人生よりも平穏な人生を送りたいと思っている。毎日神経を尖らせていれば精神は擦り減っていくし、いつかは疲れてしまう。のんびりとした人生を送りたい僕にとって、桜花が思っている人生の在り方は受け入れられないものだった。
彼女とクッキーを食べながら、テレビから垂れ流しになっている音楽に耳を傾ける。
のんびりとした曲は僕たちの部屋の雰囲気にかみ合っていた。
「あれって写真立て?」
二人して黙々とクッキーを口に運んでいると、桜花が机の上を指さした。
「どれのこと?」
「文庫本の下に埋もれてるやつ」
「そこには文庫本しかないから、どれかわからないんだけど」
「あれよ、あれ」
「だからわからないって」
僕の態度に業を煮やしたらしく、桜花は立ち上がってラッセル車のように床の障害物をかき分けていく。見ていてたくましい後ろ姿だった。
桜花が机の上を触ると、居場所を失った文庫本たちがメダルタワーの如く机の上から溢れ出し、床に散乱していった。
「これよ」
桜花の手に握られていたのは、僕が三年前に買った木製の写真立てだった。
ダークブラウンの木枠に、カバーはガラスを使っていて、小遣いしか収入源のない高校生には少し高い買い物だった記憶がある。
「それは……」
言い終わるよりも早く、中に収められていた写真を見た桜花が口を開く。
「まだ私の写真を持ってたの?」
「……忘れられなかったから」
「そう……」
どうやら僕の反応は桜花が想像していたものと違ったらしい。桜花は毒気を抜かれたようにきょとんとすると、頬を赤くしながら目を逸らした。
口元を動かして何かを言いたげにしているが、声となって僕に伝わることはない。
油断していると、突然の問いかけが飛んできた。
「ねえ」
僕は座ったまま姿勢を正した。
「なに」
「私が死んだあと、私の親と結人はどんな生活してたの?」
生前の写真を見つめながら、思い出したように桜花は尋ねてきた。
部屋の空気が質量を増したように重くなる。思い出したくない過去に触れることへ重圧が僕たちにのしかかっているように感じられた。
死人に向かってその人の死後の話をした経験がある人など、きっとこの世にはいないだろう。少なくとも僕の知る範囲では。
桜花にどう答えるべきか悩みに悩み、慎重に言葉を選んで紡いでいく。
「桜花が死んだって聞いて、あの人たちは大泣きしてた。でも、一年ぐらいから少しずつ元気になって、たまに僕に会いに来てくれてる」
「結人は?」
「一週間ぐらい学校を休んで、そのあとは普通に通ってた」
実際はもっと引き摺っていたが、ここで言うべきだとは思わなかった。
桜花は大きく息を吐き、
「意外と早く立ち直ったのね」
「いつまでも泣いてばかりじゃどうしようもないし」
「今の台詞はちょっとかっこいいかも」
「茶化すところじゃないだろ」
「だって、真顔で語ってる結人が面白かったんだもん」
「そんなに真顔だったの?」
「うん。初めて私と話すときよりも真面目な顔だった」
最初の頃は緊張していたので、どんな顔をしていたのかはもう思い出せない。とにかく全身がガチガチに凍り付いて、笑いかけてくる桜花に片言をしゃべるのが精いっぱいだった。
桜花は写真立てをそっと机の上に置く。木枠を優しく撫でると、ほんのりと唇が弧を描いた。
「この写真、絶対に大切にしてよね」
「絶対に捨てないし、失くさない。約束する」
「ところで、高校の卒業アルバムって持ってる?」
「あんなの見ても面白くないよ」
「私が見たいの。いいから持ってきて」
ぐいぐいと迫る桜花に、僕は重い腰を上げてクローゼットの中を探索する。まだ使えそうな冬用の毛布や季節外れの服に埋もれて、居場所が無い卒業アルバムを見つけた。卒業してから一度も触れていないせいか、表紙はまだ新しかった。
僕は軽く埃を叩いて桜花にアルバムを渡す。桜花は初めて見る卒業アルバムに興奮していた。
「私の写真を探さねば!」
「ゆっくり捲らないと指を切るよ」
僕の注意などどこ吹く風。桜花は床にアルバムを置いて凄まじい勢いでページを捲り、何ページにもわたって目を走らせた。
傍目で開かれているアルバムのページを覗き込む。
とっくに記憶から消えていたと思っていた過去が色づいて、写真にいる人物の声がありありと思い出せる。意外と記憶は無くならないものなんだな、などと考えていた。
「これだ!」
ついに桜花は目的のページを見つけることに成功したらしい。僕たちのクラスの集合写真を見て息を弾ませていた。
「みんな大きくなって……」
「桜花が死んでから三か月ぐらいしか経ってないから、そんなに変わってないでしょ」
「そんなことない。みんな真面目な表情で、口元が引き締まってる。立派な大人になったみたいだよ」
「そうなの?」
「そう」
僕も興味が引かれてアルバムを見ようとすると、ふと桜花の顔が目に入った。感傷に浸っている表情に言いえぬ魔力を感じて思わず息を呑んでしまう。視線の先には、集合写真の外に張られた桜花自身の写真があった。
「私だけ卒業式を欠席したみたいでひどい扱いじゃない?」
「いや、本当に欠席してたじゃん」
「失礼だなあ。幽霊としてちゃんと写ってるわよ。ほら、ここ」
「そんなの僕たちにわかるわけないだろ」
桜花の指さす場所は集合写真の左隅にある桜の木の下で、そこには誰の姿も見えない。
「私の扱いが不当だって高校の先生に抗議してやる」
「幽霊に苦情を言われてもどうしようもないって。時間の無駄だからやめといた方がいいよ」
「残念だなあ」
桜花は寂しそうにそう呟く。そしてアルバムの隅にいる高校生の自分をそっと撫でた。
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