第7話

 何度も繰り返される問いかけに、さすがの麻奈も躊躇したようだった。しかし肯定の返事をして、まっすぐに僕を見つめてくる。


「こっちに来てください」


 僕は麻奈の手を引いて、ベッドルームへと入った。落ち着いた内装に、白のシングルベッドが二つ。おそらく藤宮姉妹のものだろう。部屋の電気を消してデスクライトの明かりだけにすると、麻奈の腕が振るえるのが暗闇の中で感じられた。


 迷うことのない動きで麻奈を左側のベッドに押し倒す。馬乗りになって両腕を抑えて麻奈を拘束する。


「抵抗しないんですか」


「これが椎葉くんの望むことなら」


「好きでもない男に奪われようとしてるんですよ」


「それでも構いません。確かに椎葉くんは好きな人じゃないけど、悪い人じゃないって知ってますから」


「……後悔しないんですね」


「……はい」


 そっと顔を近づけて、パジャマのボタンに手を掛ける。レースの入ったブラを脱がせると、たわわな双丘が明かりに照らされた。


 僕は胸に手のひらを乗せる。手のひらの冷たさに反応して、麻奈の身体が大きく跳ねた。


 吐息が荒くなり、形だけの理性が崩壊する。湧き上がる情欲に流されるまま、麻奈のズボンにも手を掛けた。


「椎葉くん」


 麻奈の声が鼓膜に響かない。下着を脱がせ、麻奈の大事な部分が露になった。


 女性と行為に臨むのはいつ以来だろうか。


 そんな疑問が頭に浮かぶと、ふと桜花のことが脳裏を過って、僕はわずかな思考を取り戻す。


 顔を上げると、涙目で震えている麻奈が目に入った。


「怖いですか」


 麻奈は涙目で首を横に振る。しかし全身の震えは止まっていなかった。


「気にしないでください」


 僕を求めるでもなく、だた無感情に麻奈はそう言った。


 途端に全身の熱が冷えているのを感じる。僕の中にあった醜い欲望はすでに消え失せていた。


 裸に近い麻奈から目を逸らし、僕は倒れ込むようにベッドに横たわる。


「もういいんですか?」


「やる気がなくなりました」


「そうですか……」


 どんな声で訴えられても、僕の気持ちが麻奈に傾くことはなくなっていた。麻奈はデスクライトを暗転させると、僕のとなりに身を横たえる。


 真っ暗な部屋の中に二人。背中越しに互いの体温が伝わってきた。


「おやすみなさい」


「おやすみなさい」


 まるで夫婦のようなやり取りを交わして、相手の顔も見ないままで目を瞑る。もう日付は変わっているかもしれない。


 麻奈の寝息だけが虚しく響く部屋で、僕は眠りに落ちた。


 


 今朝の寝起きはあまり良いものではなかった。


 慣れない寝床だったせいで、浅く眠ることしかできなかった。麻奈が寝返りを打つたび警戒で意識が覚めてしまい、幾度となく起きてしまった。意識が無かった時間を寝ていた時間とするならば、二時間もなかったかもしれない。


 肩を上下させて寝息を横目で眺め、僕はベッドから起き上がる。男女二人同じベッドで寝ていたはずなのに、満足感は全くなく、むしろ虚無感がつま先まで染みわたっていた。


 リビングに出てテレビをつける。虚ろな意識のまま、今朝のニュースを眺める。


 誰かが結婚したとか、名前も聞いたこともないような街で犯罪が起こったなど、僕には関係のないニュースが画面の向こうで報じられていた。


 ローソファに体重を預け、ガラスの窓の向こうに広がる街並みに目を向ける。


 マンションの二十階から見える景色は素晴らしかった。眼下に広がる街を一望でき、遠くに白い冠を戴いた山脈が見えた。道行く人が小さな人形のようで、生きているようには見えなかった。


 ふと、ドアノブが回される音がする。


 寝室から現れたのは麻奈だ。長い黒髪は無造作に荒れていて、とろんとした目は寝起きであることを伝えていた。それでも美しい容貌は損なわれておらず、むしろ野ばらのような野生の美が秘められているような姿だった。


 麻奈は僕を見て目を瞠ると、乱れた着衣のままその場で動かなくなってしまう。


「……結人?」


 麻奈の発した一言に、僕は耳を疑った。


 


「結人? 結人だよね?」


「麻奈さん?」


 右手で僕を指さし、まるで居なくなった子犬を見つけたような表情で、麻奈は僕を見て瞳を煌めかせる。突然の状況に僕が混乱していると、麻奈は清楚とはかけ離れた動きで僕に抱き着いてきた。


 昨晩とは全く違う麻奈がそこにいた。


「ねえ、結人なんでしょ?」


「そうですけど、麻奈さん、様子がおかしいですよ」


「麻奈? 誰よそれ」


「あなたの名前ですよ。覚えてないんですか」


「結人こそ変なこと言わないでよ。私の名前は宮瀬桜花に決まってるじゃあない」


 空いた口が塞がらないとは、まさに今の僕のことだった。麻奈さんは堂々と僕の彼女の名前を名乗ってみせたのだ。


 ふざけているのか本気なのか、目の前の女性を見ているだけではさっぱりわからない。


 動揺しながらも確固たる証拠を探す。


「桜花だとしたら、僕が彼女のどんなことを聞いても質問に答えられますよね」


「だから私だって言ってるじゃない。まあ、受けて立つわ」


 堂々と立ち、胸を叩く麻奈さん。その剛腹な態度からは嘘の気配を感じられなかった。


「桜花と初めて会ったのは?」


「中学一年。右斜め後ろの席」


「国語の先生は?」


「頭が光ってた年寄りの先生」


「……初めてキスしたのは?」


「中二のクリスマス……って、恥ずかしいこと言わせないでよ。それよりもう本物だって信じてもらえた?」


「疑いようもない。信じるしかないだろ」


 僕が白旗を上げると、麻奈の外見をした桜花は嬉々とした表情を作った。目の前の女性が桜花であることは間違いない。だが、どうして死んだはずの桜花がここにいるのか。


 目を凝らしても擦っても、麻奈の身体に宿った桜花はこちらを見つめている。


「ねえ結人」


「どうした?」


「今年の年号ってなに?」


「令和だよ」


「平成じゃないの⁉」


 さも当然という風に答えた僕に、桜花は口に手を当てて驚いていた。


「私が死んでる間に歳を取ってたなんて……」


「死んでるなら歳は取らないんじゃないかな」


「肉体は無くても、魂の年齢っていうか、精神は歳を取ると思うのよ。結人もそう思うでしょ」


「さあ」


 僕は死んだ経験が無いので桜花の理屈は理解できなかった。桜花は唇を尖らせると、不満そうに唸り声を上げる。


 顔も髪も身体も麻奈であるのに、瞳に籠った光だけが桜花だった。


「どうしたの」


 桜花が僕の顔をまじまじと覗き込む。


「いや、なんていうか……桜花が帰ってきたっていうのが信じられなくて」 


 照れくさくなって頬を掻く。


「私が死んだって言いたいの?」


「目の前で血まみれの桜花を見たらそう思うに決まってるだろ」


「私は意識が無かったら知らないんだけど」


「そのときには死んでたからね」


「人を死んだことにしたらダメでしょ」


 桜花は頬を膨らませる。


 久しぶりに彼女と話せた幸福感に、僕は言いえぬ安堵に満たされていた。


「葬式や桜花の名前が刻まれたお墓まで立てたんだぞ」


「でも死んでないかもしれないじゃん」


「火葬して骨まで見たんだけど」


「それは間違いなく死んでる」


 自分の身体は灰になっていると聞いて、桜花は肩を竦めた。桜花の葬式には僕も参列させてもらったので、この目で遺影をはっきりと見ている。


 目の前にいる桜花は紛れもない本物だが、身体は死んでいるのは確実だ。


 桜花は麻奈の全身を眺めまわし、そして首を傾げた。


「私の身体が灰になってるなら、この身体は誰のなの?」


「藤宮麻奈っていう大学生。桜花は知らないんじゃないかな」


「うん。全く知らない人みたい」


「一応、学生証や日記とかを確認してみれば?」


「人のプライベートを除く趣味はないから、やめとく」


 桜花は首を振る。たとえ身体が変わっても、桜花の魂は何一つ変わっていなかった。


 二人で和気藹々と会話を重ねていると、玄関のインターホンが鳴る。


 突然の来訪者に僕たちは顔を見合わせる。


「誰か帰ってきたみたい」


「多分、京子さんだ」


「誰それ?」


「桜花が身体を借りてる麻奈さんの姉だよ。昨日は友達のところに泊ってたらしい」


「ということは、今帰ってきた感じね。どうしよう?」


 桜花は僕に助けを求めてきた。


「僕が知るわけないだろ」


「見知らぬ男女が自分の家に居たら誰だって怪しむわよ」


 妹が男友達を連れ込んで、その男友達が妹を放っておいて他の女性と家で仲良くしている。第三者から見れば、僕たちはそんな状況だ。


 いくら明るい性格の京子さんとはいえど、看過できる状況ではないだろう。


「麻奈?」


 ドア越しに京子さんの声が聞こえる。


「どうしよう。このままじゃバレちゃうわよ」


「抱き着かれても思いつかないって」


「私の彼氏でしょ⁉」


「そうだけどさ」


 僕は胸に縋り付く桜花を見下ろした。麻奈さんの清楚な雰囲気に、能天気な桜花が宿っているのはとても奇妙な感覚だった。


「麻奈……桜花?」


「いきなりなに?」


 唐突に単語を呟く僕に、桜花は首を傾げた。


 小さな麻奈さんの肩を掴み、桜花とまっすぐに向かい合う。


「ちょっと頼みがある」


「……え?」


 素っ頓狂な声が部屋に響いた。


 


 身長にドアを開くと、白シャツにジーンズという服装の京子さんが仁王立ちしていた。


「あら、まだいたのね」


「麻奈さんに泊っていけと言われたので。昨晩は泊まらせてもらいました」


 それを聞くや否や、去子さんは僕の肩に腕を回してそっと耳打ちする。


「どこまでいったの」


「言ってる意味が変わらないんですけど」


「鈍いわね。恋のABCのことに決まってるじゃない」


 京子さんは眉を下げながらそう言った。


 姉妹揃って迷惑なことを聞いて、どうして僕を困らせてくるのか。ほぼ初対面の女性に手を出すほど、僕が落ちぶれているように見えるのか。


 去子さんの顔を見ても真実は書かれておらず、僕はため息混じりに答えた。


「Aにすら入っていませんよ。あと、その言い方は古いです」


「そんなこと初めて聞いたんだけど」


「京子さんって、意外と恋愛に疎いんですか」


「うっ……」


 図星だった。京子さんは後ずさりして顔を真っ青にする。


 飲み会のあたりから恋愛に対していい加減だと思っていたが、自分自身の経験が無かったことに由来しているようだった。 


 僕が半目で睨むと、京子さんはわざとらしく咳払いした。


「私のことはどうでもいいのよ。それより、麻奈はどこにいるの?」


「家の中にいますが」


「入るわよ」


 京子さんは僕の身体を押しのけて、堂々と玄関に入っていく。リビングにいる人物のことを考えると、心臓が緊張で早鐘を打った。


 背中に冷や汗を伝わせながら、僕も京子さんの背中を追った。


 ローソファに腰かけながらテレビを見ていた麻奈は、京子さんが帰ってくるなり顔を綻ばせた。


「おかえり」


「ただいま、麻奈。昨日は椎葉くんに変なことされなかった?」


「私の彼氏が変なことするわけないでしょ」


 麻奈の一言で、部屋の空気が凍り付く。


「今、彼氏って言ったわよね」


 京子さんの一言で、時は再び動き出す。


「どういうことなの!」


「襟首を締めないでくださいよ」


「説明しなさい」


 玄関の会話は冗談で、まさか一夜で僕が麻奈の彼氏になるなど思ってもみなかったのだろう。鬼の形相に睨まれて、僕は麻奈のいる方向へと目を逸らした。


 京子さんが部屋に来る前、僕が桜花に頼んだ作戦は桜花が麻奈の振りをするというものだった。内面が入れ替わったとはいえ、外見は何一つ変わっていないので、口調さえ誤魔化せば乗り切れると踏んだのだ。


 しかし口裏を合わせる余裕が無く、京子さんの彼氏発言によって作戦は見事に失敗した。


 僕は麻奈の姿をした桜花に目配せする。桜花は申し訳なさそうに頭を下げると、片目を閉じて頭をこつんと叩いた。


「ちょっと、話を聞きなさいよ」


「僕に聞かずに麻奈さんに聞いてくださいよ」


「麻奈?」


「やだなぁ、お姉ちゃんに冗談を言っただけよ。私がいきなり男の人を好きになるわけないでしょ」


「そうだったの。ごめんなさい」


 京子さんは僕の襟首から手を離すと、頭を下げて謝罪した。


「お姉さんが妹さんを大切に思う気持ちはよくわかります。仕方ないことですよ」


 今は別人だけど、と心の中で独り言つ。


 いきなりの修羅場を潜り抜けたところで、桜花は話を切り出した。


「今から椎葉さんと買い物に行きたいんだけど、お姉ちゃんも一緒に来る?」


「やめておくわ。昨夜は友達と飲んでちょっと頭が痛いの。今日は午後まで寝かせてもらうわ」


 言われてみれば、京子さんの口は酒臭かった。


 京子さんは着替えないままベッドルームの方へと姿を消した。向こうで大きく伸びをしているらしく、間延びした声が聞こえてきた。


 目下の問題に対処できたと悟や否や、桜花は僕を目の前へとやってくる。憎たらしい桜花の笑みは、麻奈さんの顔によって清楚なものと化していた。


「どうだった、私の名演技」


「最初からボロ出してたじゃないか。俺を彼氏呼ばわりしたら怪しまれることぐらいわかるだろ」


「ごめん、つい、いつもの癖で言っちゃった。でも、他は完璧だったでしょ」


「まあな」


 声の抑揚や表情の変化は、麻奈にしっかりと寄せられていたと思う。急場しのぎの演技としては文句なしだった。


「ねえ」


 桜花の一言で、僕は現実に引き戻される。


「なに」


「これからどこ行きたい?」


「とりあえず屋内だろうな」


「どうして? 私、久しぶりに外で遊びたいんだけど」


 今さらながらのパジャマ姿で、桜花は両手を胸の前で合わせて頼み込んできた。


「今の桜花って麻奈さんの身体だろ。僕と桜花が一緒に歩いてると、他人からは俺と麻奈さんが一緒に居るように見えるんだよ」


「それは良くないね」


「だろ?」


 僕の問いかけに桜花は鷹揚として頷いた。


 桜花と一緒に外を歩きたいのは僕も彼女と同じ気持ちだった。しかし桜花の外見が麻奈である以上、大学のテニス部の部員などに見られたら、僕が麻奈と付き合っているという変な噂が立ちかねないのだ。


 藤宮家に迷惑を掛けるわけにはいかないので、外歩きは遠慮することにしたのだった。


「じゃあ、割と行ける場所って少ないよね」


「映画館とか、図書館とか、考えてみれば割とあると思うけど」


「私がずっと座ってられると思う?」


「無理だな」


「よくわかってるじゃん」


 嬉々とした表情で桜花は相好を崩した。


 中学校で陸上部だった桜花は、机に座って勉強するより体を動かすことが好きなタイプだった。帰宅部だった僕には運動の楽しさをあまり理解できなかったが、彼女の望みということで、デートでは背伸びして頑張った。


「結人のスマホ貸して」


 僕はロックを解除したスマホを桜花に渡す。桜花は「ありがとう」とだけ言うと、スマホのディスプレイに指を滑らせた。


「うわあ、二年の間に結構変わってるね」


「そうか?」


「中学の周りとか、もうマンションだらけになってるじゃん。私が生きてた頃は一軒家がいっぱいあったのに」


「桜花が通ってた中学校のあった市は人口が増えて、一軒家だけじゃ足りなくなったらしい。それでマンションが建設されたって聞いた」


「少子高齢化社会なのに、すごいことだね」


 桜花はどこか遠い目をして、寂しげにそう言った。


 僕にとってはゆっくりと移り変わっていった二年だが、死んでからいきなり意識を取り戻した桜花にしてみれば、この二年は一瞬なのだ。


 タイムマシンのように、桜花の時間は前後のつながりを無視して今へと続いていたのだった。


「桜花……」


 掛けるべき声が分からず、空に漂っているような呼びかけをすると、桜花は振り向いて僕と視線を重ねる。一瞬だけ、瞳の奥に哀愁の感情が垣間見えた気がした。


 しんみりとした雰囲気の中、桜花は手を叩き、場の空気を無理やり明るくする。


「ねえ、結人の家に行ってもいい?」


「別にいいけど、僕はもう一人暮らしだから」


「へえ、いいこと聞いた」


「なにが?」


「なんでもない。早く行かないと時間がもったいないわよ」


 背中を押し玄関へと向かう桜花に、僕は振り向きながら口を開く。


「まずはパジャマ姿をどうにかしないと、さすがにその格好じゃ外出できないぞ」


 言われて初めて気づいたらしく、桜花は自分の身体を見下ろす。だらしない自分の恰好に気が付いて、みるみるうちに頬が紅潮した。


「着替えてくる!」


「着替えの場所は分かるの?」


「勘でどうにかする!」


 いい加減だな、と思うと同時に、昔の桜花らしい考えだとも思う。また桜花が生き返ってきたという事実が肌で感じられて、現実なのに夢見心地の気分だった。


 スマホを弄って待つこと数分、紺色のひざ丈程度のスカートに、白の半袖のブラウスという動きやすそうな服装の桜花が現れた。どこかで見たことのあるような服装に、僕は記憶の引き出しを開け閉めしていると、やっぱり見覚えがあって思わず声を上げた。


「高校生の制服だ」


「嘘⁉」


「いや、だって、赤のネクタイを締めればどう見ても高校生だよ」


 全身鏡の前で一回転して、桜花は項垂れる。


「言われてみれば……どうして気付かなかったんだろう」


「無意識のうちに高校生にでもなってたんじゃない?」


「やっぱりかぁ。高校の時に死んだから、今でも高校生の気分なのかも。もう一度着替えてくる」


 ちょっと暗めの雰囲気を纏いながら桜花はとぼとぼと歩き出す。僕は寝室に戻ろうとする桜花の手を引いた。


「せっかくだし、そのままで行こうよ」


「結人はオシャレな彼女の方がいいでしょ?」


「それはそうだけど、今の桜花の身体は麻奈さんのものだから、あんまり気にしなくていいんじゃないかな」


「うーん……」


 しばらく逡巡する桜花。右手を顎に当てて考える仕草は桜花が考え込むときの癖だ。もう見られないと思っていたのに、また見られようとは。


 桜花は数秒考えて、雨上がりの空のような晴れやかな顔を向けてきた。


「結人がいいって言うならこのままでいいや。早く行きましょ」


「ちょっと待って!」


「早く行かないと時間が勿体ないよ!」


 桜花は僕の手を握ったまま走り出す。もう九時になっているせいで、中途半端な位置にある朝日が僕たちを出迎えた。


 眩しい光に手で庇を作りながら、桜花は感慨深そうに目を細める。


「私、生きてるんだ」


「憑りついてるの間違いじゃないか?」


「茶化さないの!」


 僕たちはじっと見合って、二人で一緒に笑った。二年越しの彼女との再会に、僕の心は浮足立っていて、見慣れた世界が色づいて見えた。


 吸い込まれそうな空の色、柔らかそうな雲の色。日差しを反射するビルも輝いているようで、全てが僕たちを祝福してくれている。


 京子さんが寝ていることを再度確認した僕たちは、零時の王子様とシンデレラのようにマンションの階段を降りていく。足取りが軽くて、今なら飛べそうな気分だった。


「ねえ結人」


「なに?」


「私たち、また付き合えるかな」


「絶対に付き合える。僕が保証するよ」


「結婚はどうしよっか」


「それは後々ゆっくり考えればいいさ」


「そうね。楽しみにしてる」


 踊り場に降りた桜花は振り返り、後ろで手を組みながら僕に笑顔を見せつける。麻奈の身体をしているはずなのに、僕には桜花の笑顔としか思えなかった。


「さっそく結人の家に行こう!」


 桜花はすぐさま身を翻すと、数段飛ばしで階段を降りていく。


「ちょっと待って!」


 あっという間に消えてしまった彼女に、僕も転がり落ちるように追いかける。


 一度消えた僕たちの恋は、再びこうして始まったのだった。


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