第6話

 金曜の夕方の電車は、帰宅するサラリーマンや学生で賑わいを見せていた。隣の男性に押し倒されないように気を付けながら、麻奈のメールを確認する。


 自宅だと書かれていた場所は、大学から電車で三十分のマンションだった。インターネットで詳細を調べてみると、部屋の大きさの割に家賃はかなり高い。大学生の一人暮らしにはいささか豪華な住居だった。


 アナウンスが響き、次の停車駅を告げられる。僕が降りる駅はそこだった。


 熱気のこもった車内から解放されると、肌で感じる温度が一気に低くなる。まだ残暑の時節にも関わらず、夕方の駅のホームは涼しかった。


 十分ぐらい歩いたところで、僕は目の前の建物を見上げる。


 一階の部分は赤レンガ模様の壁で出来ており、二階からから上は真っ白な壁という、どこかヨーロッパを連想させる外観だった。おそらく二十階は優にあるだろう。


 入口はオートロックで、左の壁には住人を呼び出すためのインターホンが付いている。


 インターホンであらかじめ聞いていた部屋番号を選択すると、聞き覚えのある声が鼓膜に響いた。


『どちら様でしょうか』


「椎葉結人です」


 僕がそう言うと、インターホンの向こうが騒々しくなった。


『今開けるので待っていてください』


「はぁ……」


『ちょっと待っててくださいね』


 気まぐれな動物でも引き止めるかのように、麻奈は大慌ての口調でまくし立てる。


 やがて入口のロックが開く音がした。


『入ってきてください』


「わかりました」


 言われた通りにロビーに入ると、案の定、高級そうに黒光りするエレベーターが僕を出迎えた。非常用らしい階段も隣にあったが、せっかくのエレベーターに乗らないのは勿体ない気がして、階段は選択しなかった。


 ボタンを押してから数十秒で十八階へとたどり着く。もう麻奈の部屋は目と鼻の先だ。


 赤いカーペットの敷かれた廊下を歩き、麻奈の部屋の前まで来る。一応、部屋番号を確認し、またしてもドアの隣のインターホンを鳴らす。


 ドアの隙間から麻奈が顔を覗かせた。


 白半袖のシャツに、グレーのフリンジスカートを履いている。自然に口角を上げて笑う彼女の笑みは、変わることのない煌びやかさが秘められていた。


「お越しいただきありがとうございます。どうぞ入ってください。お姉ちゃんは外泊しているので帰って来ませんよ」


「そうですか。お邪魔します」


 藤宮姉妹は二人暮らしらしい。だが、京子さんが居ようと居なかろうと、僕には関係のないことだった。


 案内された二十畳ほどのリビングの他に、キッチンやバスルームなどの部屋があった。リビングにはテレビやチェスト、それにソファーが置かれている。一人暮らしには十分すぎるほどの家具の量だろう。


 特に壁掛けの全身鏡は男性の僕にとっては珍しいもので、少し興味を引かれた。


「そこに座ってください」


 促されるままにローソファへと腰を下ろす。目の前にある背の低いテーブルにウーロン茶の注がれたグラスが置かれた。


「えっ」


 僕は驚いて思わず声を上げてしまう。


「もしかして、ウーロン茶は苦手でしたか?」


「そうじゃなくて、むしろ逆です。僕たちはほとんど初対面のはずなのに、好みを当てられたのでびっくりしたんです」


「言われてみれば……確かにそうですね。普段はお客様には緑茶かコーヒーを出すんですけど、椎葉さんにはなんとなくウーロン茶が良いような気がしたんです。不思議ですね」


「もしかして、僕のことを見たり調べたりしたんですか」


「そんなことはしてません。単なる偶然ですよ」


 少し厳しく問い詰めるような僕の言葉に、麻奈はゆっくりと首を横に振る。その言葉だけで疑いが晴れたではないが、証拠がないのに追及することもできなかった。


 麻奈はテーブルを挟んで向こう側のローソファに腰を下ろし、香ばしい液体で満たされたコーヒーカップに口を付ける。


 ほっと息をつく様子は見事な一枚絵になりそうで、思わず見惚れて息を呑んでしまった。


 卑しい僕の視線に気づいて、麻奈はそっと微笑み返す。


「私は静かな場所が好きなんですけど、椎葉さんはテレビをつけた方がいいですか」


「僕も静かな方が好きです」


「わかりました。このまま話しましょうか」


 ゆったりとした動作でカップを置き、顔を上げた麻奈は僕と向かい合う。柔和な笑みのままで、しかし瞳に宿った光は揺らぎないものだった。


 麻奈は張りつめた空気に鋭い切れ込みを入れる。


「私はあなたのことが気になっています」


「それってどういう意味ですか。飲み会のときにも言われましたけど、記憶では麻奈さんと知り合った覚えがないんですよ」


「私も椎葉さんと面識は知りません」


「じゃあどうして」


 加速度的に進む会話の中、麻奈は自分の胸にそっと手を当てた。


「飲み会の席で見た椎葉さんのことを思い出すと、ずっと胸が苦しくなるんです」


「ただの病気じゃないんですか」


「先日、病院に行ったときも異常は見つからなかったので、間違いなく病気ではありません。断言できます」


「麻奈さんがどう思っていようと、僕には解決できないし、原因も知りません」


「でも、この胸の高鳴りは本物なんです」


「どんなに口で言われても、第三者には証明できない他人の胸の内なんてわかりませんよ」


「もし証明できるとしたら?」


 まさかの問いかけに、僕は口を開けたまま固まってしまう。


 麻奈にぐっと右手を引かれ、テーブルの上に倒れそうになる。身の危険よりを感じるよりも早く、僕の手は麻奈の胸に触れていた。


 柔らかくて、暖かい感触が肌を通して伝わってくる。さらに胸の奥から高鳴る心臓の鼓動もはっきりと感じられた。


 一瞬呆けていた僕だが、今の状況を理解するなり強引に手首を掴んでいる麻奈の手を振り払う。


「馬鹿なことしないでください」


「馬鹿じゃないです」


「そういうことは彼氏にやってもらってください。赤の他人である僕に胸を触らせてもただの犯罪ですよ」


「だって、この気持ちを証明したかったから」


「証明できたところで、僕にどうして欲しいんですか」


「……わかりません」


 麻奈はそう言うと、俯いて黙ってしまった。


 正直、僕は麻奈の気持ちを甘く見すぎていたのかもしれない。街角での一目惚れのようなメルヘンチックなストーリーに憧れて、僕を呼び出したのだと思っていた。


 視線を落として麻奈の表情を俯瞰する。


 今にも泣き出しそうな眼差し。気持ちを表せる言葉が見つからなくて、小刻みに震える口元。膝の上で握られた両手には力が籠っていた。


 嘘でこの演技をしているのなら、麻奈は役者のプロなのかもしれない。だが、先日と今日話してみて、そんなことはあり得ないと思った。


「顔を上げてください。僕も強く言い過ぎました。謝ります」


「私こそ変な頼みごとをしてごめんなさい」


 二人で謝り続けそうな雰囲気だったが、このままでは会話が進まない。僕はちょっと強引に話題を逸らすことにした。


 部屋中を見回して、僕でも知っていそうなものがないか探す。小さな写真立てが目に留まった。


「京子さんとはどんな関係なんですか」


「お節介が好きな姉です。何をするにしても、とにかく誘ってくるんです」


「京子さんは大学のテニス部に入ってるそうですけど、テニス部には誘われなかったんですか?」


「ちょっと事情があって……誘われてません」


 声のトーンがはっきりと落ちた。触れてほしくない話題なのだろう。


 僕は慌てて話を変える。


「京子さんは何時頃に帰ってくるんですか」


「今日中には帰って来ません。友達の家に泊まるそうです」


 期待していたものとは違う回答に僕は目頭を押さえた。


 京子さんが帰ってくることを言い訳に、一刻も早くこの場から去りたいと思っていた。しかし帰ってこなければ話は変わる。早速、逃げの口上を失ってしまった。


 僕の失望はいざ知らず、麻奈は気楽そうに笑っている。


 藤宮家を出るタイミングが掴めなくて、僕は気持ちが落ち着かなかった。


 まるで状況を悟ったような質問を麻奈は投げかける。


「椎葉さん」


「なんですか」


「今日や明日の朝は忙しかったり、用事があったりします?」


「いえ全然」


 そう答えて、僕は自分の失態を悟った。


 麻奈の瞳に期待が宿る。柏手を叩いて頬を綻ばせた。


「もしよければ、今日だけ一緒に居てください」


「嫌ですよ。見知らぬ他人の家で、ましてや女性家に泊まるなんて無理に決まってます」


「私は気にしませんけど」


「僕が気にするんですよ。わかってください」


「そうですか」


 麻奈は残念そうに肩を竦めた。自分でも心の内がわからないと言っていたが、第三者の僕からすれば本当に謎だ。


 そもそも、僕がここに来たのは今後関わらないようにと忠告するためで、親しく話すためではない。そう思い始めると、今までやってきたことが徒労だと思えた。


 太いため息をついて、重い腰を持ち上げる。


 玄関に向かおうとしたところで、また左手を引かれた。


「もう少しだけ待ってください」


 追いすがる女の子を足蹴にできたらどんなに気持ちよいことだろうか。そんなことを考えるものの、僕には麻奈を蹴り飛ばす勇気は持ち合わせていなかった。


「なんだかんだで、もう夕方なんですよ。ずっと僕を引き留めておいて、いざ帰るときになって終電を過ぎてたら責任とれるんですか?」


「泊っていっても大丈夫だって言いましたよ」


「だから止まるのは無理ですって」


「一日だけ待ってください。それで無理だったら諦めます」


 麻奈は椅子から立ち上がり、僕に頭を下げてきた。


 どうして、くだらない感情にここまで真剣なのか。とても凡人の僕には到底理解できない。軽く頭痛のする頭を左右に振る。


「わかりました。一日だけ泊らせてもらいます。ですけど、あなたと深い仲になることは絶対にありませんから」


「私のことが嫌いになったんですか?」


「僕の彼女のためです」


「彼女さん、いらっしゃったんですね」


 今まで言い出せなかった真実に、麻奈は目を丸くした。


 僕は首を横に振る。


「生憎ですが、もう生きてません」


「ごめんなさい。深く聞き過ぎました」


「謝られてもしょうがないですよ。別に感情的になるつもりはありませんし、気にしないでください」


 頭を上げた麻奈の目には、うっすらと涙が溜まっていた。僕が嘘をついているかもしれないのに、麻奈はそんなことを考えていないようだった。


 純粋な思考にあてられて、今までの僕の態度を顧みると申し訳なさが顔を出す。


「本当に今日だけだけですよ」


「わかってます。よろしくお願いします」


 麻奈は腰を折って礼をする。


 こうして、僕と麻奈は一日限定の同棲生活が幕を開けた。


 他人の家というのはどうしても落ち着かないもので、僕の神経は常に警戒の糸を緩めることができなかった。立っていても座っていても気が落ち着かず、テレビを見ていても集中することができない。


 麻奈が作った夕食を食べ、先に風呂から上がってバラエティ番組を見ていると、水色のパジャマを纏った麻奈が浴室から姿を見せた。


「湯加減はどうでしたか?」


「ちょうど良かったです。ありがとうございました」


「それは良かったです」


 麻奈は上気した頬でにこりと笑う。熱のせいで妙に立ち姿が色っぽくて、思わず見とれてしまった。風呂上がりの桜花にはあんな色気は無かった。同じ女子なのに、どうしてこんなに別物なのか。


 いつまでも眺めていると、麻奈が気まずそうに目を逸らした。


「椎葉さんにお願いがあるんですけど、聞いてもらえませんか」


 ローソファに座っていると、麻奈が隣に腰かけてくる。


「内容によります」


「別におかしなことじゃないです。一緒に寝てください」


「付き合っていない男女が一緒に寝るのは変ですよ」


「駄目ですか?」


 麻奈は上目遣いで僕に訴えてくる。どこからどう見ても泣き落としのそれに他ならなくて、軽い眩暈がした。付き合うのも馬鹿らしくなってきて、大きくため息をつく。


 接近する麻奈の身体を押し返し、下手に出る麻奈を睨みつける。


「泊らせていただくのは妥協しましたけど、それ以上妥協するつもりはありません」


「どうしても?」


「いくら麻奈さんが美人でも、僕には心に決めた人がいるんです。あなたと一緒に寝たら不倫ですよ」


「でも、もう死んでるんですよね」


 何気なく放たれたその言葉に、心臓を抉られたような気分だった。つい昨日陽介に同じことを言われていたせいで、余計に苛立ちが募る。


 地下でくすぶっていたマグマは、空気に触れたことで一気に爆発する。


 僕は立ち上がり、怒りに任せて机を叩いた。


「麻奈さんに何がわかるんですか!」


 麻奈は目を見開いて黙り込む。机から落ちたグラスが床に落ちて粉々に砕けた。


 何が言いたいのか自分でもわからない。何に対して起こっているのか自分でも理解できない。


 やり場のない怒りが心の底から湧き上がって、僕をより昂らせる。


「ごめんなさい」


 謝罪の言葉が心の傷口に塩を塗りたくった。


「……許せません」


 僕は決然として言い放つ。僕のことを否定されるならまだしも、今は亡き桜花の存在を否定されることだけは許せなかった。


 荷物をまとめて立ち上がる。またしても麻奈が腕にまとわりついてきた。


「今夜だけは約束したはずです」


「気が変わりました。帰らせてください」


「待って!」


 麻奈が悲鳴のような叫びを上げるが、僕は容赦しなかった。


 華奢な腕を強引に振り払い、玄関先まで大股に歩く。ここを去ることに後悔は微塵も感じなかった。


 ドアノブに手を掛けたところで、またしても麻奈は追いすがる。


「お願いします、どんなことでもしますから」


「どんなことでも、ですか」


「はい」


 慈悲を請う子羊を前に心を巣食っている悪魔が目覚めた。胸に頭を寄せてすすり泣く麻奈に、卑しい感情が芽生える。


 気持ちが声に乗らないように理性を働かせながら、静かに問いかけた。


「どんなことでもしてくれるんですよね」


「はい」


「約束できますか」


「……はい」


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