第5話
つつがない学生生活を送り、コンピュータに使われているアセンブリ言語の講義に耳を傾けていると、ポケットのスマホが大きく震え出した。
教授の動きに注意を払い、慣れた手つきで教科書を僕と教授の間に立ててスマホのディスプレイの上に指を滑らせる。牧村陽介からの着信を見つけた。
昼休みに食堂に来い、とメッセージには書かれている。
普段は問いかけ言葉に彼が命令口調で言っているあたり、今回のこれは有無を言わさない呼び出しらしい。
視線だけを上に向けて壁掛け時計を確認する。講義が終わるまであと三分だ。
陽介に、わかった、とだけ返信して、黒板に書かれている数式や文字列をノートに書き写していく。僕は後で読めれば問題ないというスタンスなので、かなりの速記になる。
ちょうど最後の数式を描き終えたと同時にチャイム音が響いた。
ノートや教科書をカバンに仕舞って立ち上がると、陽介の待つ食堂へと向かった。
多い、安い、うまいの三拍子が揃った食べ物が提供される食堂は相変わらずの盛況っぷりで、色々な学部の学生が入り乱れていた。
一番手ごろな値段だったカレーをトレーに乗せて、待ち人である陽介の姿を探す。
「こっちだ、こっち」
聞きなれた呼び声に振り返ると、外が見えるガラスの壁の傍に座っている陽介がいた。
空の食器が目の前に積まれている。僕よりも先に食べて待っていたのか。
カレーをこぼさないように慎重に歩き、陽介の前の席に腰を下ろす。スプーンで一口食べてから会話を切り出した。
「こんな時間に連絡してくるなんて珍しいな」
「ちょっと聞きたいことがあってさ。お前が講義の真っ最中だったのは承知のうえで呼びさせてもらった」
「課題やレポートなら相談に乗るけど、解答をそのまま教えるのは無理だぞ」
「そんな話じゃない」
僕なりに茶化したつもりだったのだが、陽介には大げさに捉えられてしまったらしい。表情が険しくなり、厳しい口調になっていた。
「お前のところに藤宮さんから連絡が来なかったか」
「京子さん?」
「違う。妹のほうからだ」
「そういえば来てたな。疲れてたときだったから忙しくて返信するのを忘れてた」
「常識ある一般人として、メールを無視するのはどうかと思うぞ」
陽介の意見は至極当然だった。迷惑メールやフィッシングメールならともかく、知り合いのメールを放置するというのは喜ばれる所業ではない。やった側にも事情があるとしても、やられた側は間違いなく不快だ。
「でもさ、どうしてお前がメールのことを知ってるんだ?」
「俺が麻奈さんにメールアドレスを教えたからに決まってるだろ」
「他人の個人情報を勝手に広めるな」
「飲み会でお前がいなくなったあと、あの子に上目遣いに頼まれたんだ。そんなことをされたら断れるはずがないだろ」
「あのな……」
麻奈に篭絡された親友に呆れ混じりの溜息を送った。
目の前の親友を怒鳴ったところで麻奈に渡った情報が戻ってくるはずもない。無力な僕は泣き寝入りを決めるほかになかった。
あの綺麗な女性を前に、つい心が緩んでしまうのもわかるので、陽介を怒る気になれない。
「メールの内容は確認したか」
「いやまったく。件名だけ見て放置してた」
「だからか……」
「だからってなんだよ」
もったいぶって言い淀む陽介に、貴重な昼休みを削られている僕は気が立っていた。きつめの口調で言い放ち、親友の顔を凝視する。
言い訳するかのように陽介はしどろもどろに言葉を連ねた。
「昨日、京子先輩から電話が来たんだよ。お前が麻奈さんのメールを見てるかチェックしてくれってな」
「ずいぶん僕にご執心なことで」
「俺に嫌味を言ってもどうしようもないぞ。文句を言いたいなら藤宮姉妹のほうに言ってくれ」
「メアドを渡して片棒担いだお前にも責任はあるだろ」
陽介は僕から目を逸らし、中身が残っていないはずのコーラを飲むふりをする。少なからず悪いことした自覚は持っているようだった。
スマホを取り出し、未読のまま放置していた麻奈からのメールを開く。陽介からの話で内容が想像できる今は、メールを開封するかで迷うことはない。久しぶりの女子からのメールには、初対面の挨拶から始まる長々しい文章が書かれていた。
『こんにちは、私はあなたと同じ大学の二年生の藤宮麻奈です。今回は急なご連絡をお詫び申し上げます。
先日の飲み会では、いきなり詰め寄るなどして大変ご迷惑をお掛けしました。ですが、私は椎葉さんのことが気になってどうしようもなかったと言い訳させてください。
今回ご連絡させていただいたのは、椎葉さんともう一度会って話をしたかったからです。あなたに会って以降、私の胸はぽっかりと穴が空いたようで、ずっと違和感が付きまとっていました。確信はありませんが、あなたと会えば解決するように思うんです。
日時はいつでも構いません。返信を頂けると幸いです』
お詫びの内容に見せかけて、また会いたいと連呼されていただけのメールだった。
「凄い情熱的な内容だな。もしかしたら一目惚れされたんじゃないか」
「人のメールを勝手に覗き見るな」
「面白そうだったんだからしょうがないだろ」
陽介の言葉は何の説明にもなっていなかった。批判の気持ちを込めたため息を吐いて、メールを表示させたままのスマホを机の上に乗せる。
僕は視線を持ち上げると、開口一番に問いかけた。
「なあ陽介」
「なんだ」
「このメールにはなんて答えるのが正解だと思う?」
「知らねえよ。会いたいって言ってるんだから、一度会ってみればいいんじゃないか」
「美人局だったらどうする」
「バカみたいな京子さんならともかく、あの真面目そうな麻奈さんがそんなことするわけないだろ。絶対にあり得ない」
「それもそうか」
頭の中で麻奈の顔を思い描き、妄想の中で卑しい笑みをさせてみようと試みる。
しかしどんな酷い笑顔を作ったつもりでも一枚絵になるような見事な笑みになってしまい、人を蔑むような笑みを作ることはできなかった。
目の前で陽介はメールを覗き込み、童心に帰ったように目を光らせている。
他人事だからそんなに気楽でいられるのかもしれないが、当の本人である僕にとっては迷惑極まりない誘いだった。
「お付き合い前提に行きますって返信しろよ」
「馬鹿なこと言うな。僕はあの人と付き合う気なんてまったくないし、誘いに乗る気もない」
「顔が好みじゃないのか」
「違う」
「結人の恋愛対象は女性じゃないのか」
「そんなわけあるか。一度女子と付き合ってるのは知ってるだろ」
「じゃあ、桜花さんに義理立てするためか」
まっすぐと射抜くような陽介の視線に、僕は黙って目を逸らした。心の中が透けているようで気持ち悪かった。
陽介はテーブルの上に頬杖をついて、僕に聞こえるように息を吐く。
「お前が真面目なのは知ってるけどさ、どんな理由を付けてあの誘いを断るつもりだ?」
「日時が合わないとか」
「相手はいつでもいいんです、って言ってるんぞ」
「会いたくない、とか」
「正当な理由を一個ぐらいは付けとかないと失礼だろ」
「俗世と交わりを断ってるんです」
「大学に来てる時点でそれはない。もう少しマシな言い訳を考えろ」
逃げ道はことごとく潰されていった。いくつも積み上げた嘘は陽介によって破壊され、壊れた逃げ道の後に真実だけが残る。
言いづらそうに口を動かしている僕を見て、陽介は目を細めた。
「断るにしても、正直に言わないと、ここまで丁寧に頼み込んでくる麻奈さんに失礼だと思うぞ」
僕は黙り込む。
「今まで煽っておいて言うのもあれだけど、別に付き合ってくださいってメールじゃないんだぞ。一日だけ会ってその後連絡を取らないようにすれば、円満に解決するんじゃないのか?」
「それしかないか」
「諦めて行ってこい」
突き放すような親友の言葉に背中を押されて、僕はメールの返信を書き始める。鉄は熱いうちに打ての精神で、今週の金曜日に会いたいという内容のメールを送った。
一分経つか経たないかのうちに受信を知らせる着信音が鳴る。お待ちしていますという内容の麻奈からのメールだった。
またしても覗き見をしていた陽介が卑しい笑みを浮かべる。
「せっかくだから楽しんでこいよ」
「そんなわけない。できるだけ早めに切り上げて帰ってくる」
「思いっきりもてなされておけよ」
「初対面の相手の家でくつろげるわけないだろ」
「お前、本当に面倒な性格してるよな」
つれない僕の言い方に、陽介は思春期の子供を持つ母親のような笑みを浮かべていた。
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