第4話
入口に座っていた男学生がそう叫ぶと同時に、部屋中に怒声と罵声が響き渡った。
「お前いつまでサークル会費を滞納してるつもりだ⁉」「この間サークルに来るって連絡送ってくれたよね?」「昨日の今日まで何してたんだ⁉」
誰もかれもが彼女に詰め寄り、乱入者を質問攻めにする。京子と呼ばれた女性は後ずさりながらも「まあまあ」と言ってのらりくらりと質問を躱していた。
蚊帳の外にいる僕は、飽きてきたポテトをつまみながらその光景を眺めていた。
接近するテニス部の面々を押し返しながら、京子さんは両手を合わせる。
「サボってたことはほんとに謝る! 今日はお詫びするから許して」
「お詫び?」
「特別ゲストを連れてきたの」
弾んだ声で語る京子さんに、周囲にいた人々が首を傾げる。取り巻きが動かなくなった隙に、彼女は襖の向こうにいる誰かに呼びかけていた。
「下がって下がって!」
藤宮さんが襖の前に群がるテニス部員たちを脇へどける。状況が飲めない彼らは渋々と言った感じで後ずさりして、彼女の言われるがままになっている。
入口の襖の前にあった人垣が消え失せて、遠くに座る僕からもはっきりと向こうがみえるようになった。誰かのために用意された舞台ができあがりだ。
藤宮さんはまたしても襖の奥へと姿を消す。今度は誰かの手を引いて現れた。
「私の妹、藤ふじ宮みや麻ま奈なです!」
彼女が現れた瞬間、誰もが息を呑んでしまった。
ゆったりと流れる黒髪に、すぐに折れてしまいそうなほど華奢な手足。双子なのだろう。顔のパーツは京子さんと瓜二つだったが、受ける印象が全く違った。
大きく開かれた瞳には仄かな優しさを湛え、傷一つない真っ白な肌は陶器のようにつるんとしていた。いかにも高そうなオレンジのトップスとベージュのフレアスカートを身に着けているその姿は、異国の人形のようだった。
誰もが呆然と彼女を見つめている中、京子さんは大声を張り上げる。
「こらこら、男子の下心が丸見えだぞ」
取り巻きの男子たちが一斉に目を逸らす。まるで軍隊のように統一された動きで、はたから眺めていた僕にとっては面白い光景だった。
「私の妹は我が大学文学部の期待の星! 成績優秀、才色兼備!」
「お姉ちゃん、それは言い過ぎだって!」
「そんなことないわよ」
「あるの!」
ただひたすら元気な京子さんと、姉の影でおろおろする藤宮麻奈はとても仲の良さそうな姉妹だった。
まだ見ぬ性格はともかく、ルックスだけ見れば、麻奈さんと付き合うことは男子にとって垂涎ものだろう。誰もが振り返るような美人を連れ歩くのは、男子のちょっとした夢だ。
少なくとも、その理想の相手として彼女はぴったりだと僕は思った。
不安げに視線を彷徨わせながら、藤宮麻奈は姉の肩を何度も叩く。
「私と二人っきりで外食するって言ってたのに!」
「ごめん、あれ嘘」
「ひどい!」
話をかいつまむ限り、どうやら彼女は姉に騙されていたらしい。妖怪に捧げられた生贄のように、テニス部の面々に囲まれた彼女は縮こまっていた。
自由奔放な京子さんは、妹を差し置いて一人で盛り上がっている。
「さあみんな、妹を口説けるものなら落としてみろ! チャンスは一回だけだよ!」
「俺は参加する」
「俺も」
京子さんの掛け声とともに、藤宮麻奈を口説くという謎のイベントが始まった。冷ややかな目の女子とは対照的に、幾多もの男子が行列を作って彼女を口説こうと意気込んでいる。よくよく見てみれば、ちゃっかりと陽介も混じっていた。
ちょっとだけ食指を動かされたが、口下手で会話の成立しない僕に勝ち目がないことは明白だった。遠目で藤宮麻奈と男子たちのやり取りを眺めながら残り僅かなポテトを口にする。
藤宮麻衣の態度は、と男子の盛り上がりっぷりとは正反対だ。彼女は何を言われても「ごめんなさい」「すいません」を口にするだけで、一向に首を縦に振らない。
やがて列は短くなり、男子の全滅という結果で終わった。
「他の誰かいないの?」
京子さんは部屋中を見回すが、誰一人として立ち上がる人間はいない。あれほどの惨敗を目にして、誰が手を挙げられようか。少なくとも僕には無理だ。
「せっかくだから告白してみなさいよ」
「お姉ちゃん、みんな迷惑がってるし、もうやめようよ」
「引きこもりのあなたに彼氏を作ってあげようとしてるんじゃない」
「余計なお世話だって」
「そう?」
妹の訴えに姉は首を傾ける。
下世話な姉と、真面目な妹。二人の立場は陽介と僕のようで、藤宮麻奈の気持ちが手に取るように理解できた。
彼女の考えに小さく首肯していると、京子さんの鋭い双眸が僕を捉えて離さなかった。
ずかずかと僕の傍へと近寄り、初対面の遠慮なしに声を掛けてくる。
「そこのあなた、さっき列に並んでなかったわよね」
「そうですけど、僕はテニス部じゃないですよ」
「そんなこと関係ないの。どう?」
京子さんが視線だけで藤宮麻衣を指す。
「気持ちは嬉しいですけど、遠慮させてもらいます」
「遠慮なんてしなくていいって、ほれ」
「やめてくださいよ」
ひたすら断りを入れているのに、京子さんは僕の腕をぐいと引っ張ってくる。運動しない僕が子供のようなエネルギーを持つ京子さんに敵うはずもなく、重力に逆らって身体が立ち上がった。
「ささ、どうぞ」
京子さんは藤宮麻衣の前へ行くように促す。とにかく助けを求めて周囲を見渡してみると、全員が僕の動作を見物していた。
また一人の男子が無謀な突撃をして、完膚なきまでに振られるのを楽しみにしている。
口に出でいなくても、表情を見ればまるわかりだ。
呆れと疲れの混じったため息をついて、鉛のように重い足を前に出す。数歩だけ進んだつもりなのに、いつの間にか藤宮麻衣が目と鼻の先にいた。
頭に浮かぶ言葉をかみ砕いて、できるだけの笑顔に乗せる。
「こんにちは」
「こんにちは」
後ろ向きな二人による会話に熱が入るわけもなく、そこで僕と彼女は顔を見合わせて黙り込んだ。
「もうちょと何か話しなさいよ。ほら」
京子さんの言葉で焦燥感は湧き上がってくるが、会話のネタは湧き上がってこない。握った拳が手汗に濡れる。無為に時間だけが過ぎていく。
「今日はいい天気ですね」
「今は雨が降ってますけど……」
「すみません」
困惑顔を見せられて、僕は即座に謝罪する。日本語の日常会話がここまで難しいとは思ってもみなかった。
気まずい時間が流れ、面白いもの見たさに目を開かせていた外野も冷めていく。裸足のままでもこの場所から逃げ出したかった。
「あの、一つ聞いても良いですか」
「僕に答えられることなら、どうぞ」
いつの間にか僕は藤宮麻奈の怪訝な眼差しに射抜かれていた。
「私たちって、一度どこかで会ったことがありませんか? どうしてもあなたの顔に見覚えがある気がするんですけど……」
「僕は初対面だと思いますよ」
「間違いなく、でしょうか」
「はい」
「……そうですか」
宝の在処の手掛かりでも探すかのように、藤宮麻奈は僕の全身を眺めまわす。純粋な瞳に心の中まで見抜かれている気がして、あまり気分の良いものではなかった。
「そんなに見られてもあなたのことは知りません。少なくとも小学校以降にあなたみたいな人はいないですって」
「幼稚園とか、保育園はどうですか?」
「物心ついてない年齢の話は覚えてません。もう終わりにしていいですか」
「もう少しだけ待ってください」
「だから何もありませんから」
「いえ、絶対に何かある気がするんです」
美女に眺められることがこれほど嫌なことだとは知らなかった。テニス部の男子部員たちが送ってくる嫉妬の視線が本当に辛い。望まれてここにいるわけではないという言い訳が、僕にとって唯一の言い逃れだった。
藤宮麻奈は僕の双肩を細い指を置き、至近距離で顔を覗き込んでくる。
「絶対に知ってる人なんですけど……」
「ストップ、ストップ! 麻奈、それ以上男子に近づいたら駄目!」
「お姉ちゃん、あと少しで思い出せそうなの。もう少しだけ」
「続きはまた今度やればいいから、ね?」
「なら……」
京子さんによって藤宮麻奈は僕から引きはがされた。それと同時に、僕の心の中で目の前の女性に対する警戒心が芽生えていた。
今のうちに距離を取ろうと、人気の少なくて空いているスペースを探す。しかし周囲の好奇の視線は亡霊のように付きまとってきた。こんな刺々しい雰囲気の場所で堂々と飲食ができるほど、僕の肝は大きくない。
取り巻きの中に紛れた陽介を見つけ出し、そっと耳打ちする。
「もう帰らせてくれ。この雰囲気の中には居づらい」
「今のままいけば麻奈さんを彼女にできるかもしれないのに、せっかくのチャンスを棒に振るつもりか?」
「チャンスを掴んでも後ろから刺されたらしょうがないだろ」
「それもそうか。麻奈さんはお前とじゃ釣り合わないな」
「うるさい」
陽介の脇を小突く。僕はトラブルに巻き込まれるのが嫌いなだけで、決して恋愛沙汰を毛嫌いしているわけじゃない。
からかうような笑いを浮かべている陽介をひと睨みすると、陽介は口を噤んだ。
「わかった。代金は約束通り俺が払っておくから、なるべくこそっと帰れ」
僕は頷いた。
「ほらほら、飲み会はこれからなんだから、麻奈に振られたぐらいでショック受けないの。みんなで盛り上がっていこー!」
「お、おー」
藤宮姉妹の掛け声に、乗りの良さそうな男子たちが同調した。冷めた空気に熱源が生まれ、少しずつ賑わいが戻ってきた。
京子さんを中心として盛り上がりは騒がしくなって、皆の注意が僕から外れる。完全に空気と化した僕は自由だ。どう動いても誰の注意を引くこともない。
しゃがんで縮こまり、小走りで会場を駆け抜けていく。誰にも話しかけられることなく出口にたどり着いた。
たった一人僕のことを見ていた陽介に会釈して、僕は飲み会の会場を後にした。
賑わいの場に出ていると、帰ってきただけでも疲れてしまう。ただひたすらポテトをかじっていただけなのに、マラソンを走ったような疲労感に襲われていた。
ベッドに倒れ込んでポケットに入っていたスマホを明転させる。
見慣れたアプリが並んでいる。短時間の暇つぶしにちょうど良いゲームを起動しようとしたところで、ふとその手が止まった。
メールのアプリに受信を知らせるマークが点いている。唯一の連絡相手である陽介とは別のアプリを使っているので、訝しげに思いながら僕はアプリをタップした。
件名は飲み会でのことについて。差出人は藤宮麻奈。
どこで僕のメールアドレスを知ったのかはわからないが、メールの存在は僕を大きく動揺させた。
脳裏に彼女の顔が浮かび、女神のような微笑みが記憶から取り出される。興味とトラブルを避けたい気持ちに挟まれて、スマホの上で手を彷徨わせた。僕にとって、麻奈からのメールは時限爆弾に等しいのだ。
悶々とした気持ちで指を中空で動かして、やがて思い切って暗転させる。
メールは無かったことにした。
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