第2話

 硬い椅子から立ち上がり、なんとなくスマホをチェックする。ありふれた平日に特別な用事などあるはずもなく、着信もメッセージも届いていなかった。


 今日の講義はさっき受けたのが最後で、学校に残っている理由はない。誘われた飲み会までは少なくとも数時間はある。今すぐ向かっても相当暇を持て余すだろう。


 流行の検索ワードを調べ、それとなく目に留まった単語を検索する。


「心臓病……か」


 流行に疎い僕でも知っているほど有名な芸能人が心臓病で亡くなったというニュースを見つけた。スマホに映し出された文章に目を走らせる。急性の症状だったらしく、救急車が来たときには手遅れだったらしい。


 記事を読むうちに、ふと彼女の死が脳裏を掠め、内心で舌打ちする。


 これ以上読んでいても心のプラスにはならないと判断し、スマホの画面を暗転させた。


 学生の話し声が響く講義室を出て、駅に近い大学の出口へと向かう。夏の初めの空気はじめじめしていて、肌に張り付くシャツの感触が気持ち悪かった。


 校門に近づいたところで、誰かを待っているかのように立ち尽くす人影に気付く。


 五十歳を過ぎたぐらいの男性だった。黒髪の隙間からいくつもの白髪が顔を出し、頭頂部はわずかに薄くなっている。


 頬には小さいながらも沢山の皴が刻まれており、苦労な人生を送ってきたことが容易に想像できる。


 肌とは対照的に皺一つないスーツを着こなした男性に、僕は声を掛けた。


「宮瀬さん」


「結人くんか。ちょうどきみを待っていたところだったんだよ」


 僕の顔を見るなり、宮瀬みやせ大輔だいすけさんは朗らかに笑った。僕の姿を見つけるなりこちらに走り寄ってきて、右手をぐっと捕まえて握手をする。数年前に会ったときよりも肉が減り、手に骨が当たっている気がした。


「ご両親から君がこの大学に入学したと聞いてね。朝からずっと結人くんを探していたんだよ」


「別に会いに来なくても、スマホに連絡してくれれば良かったんじゃないですか」


「どうしても顔を見ながら話したくてね。少し時間をもらえないかな」


 僕は黙ってうなずいた。


「ここで立ち話をするのも良くないだろう。どこかの喫茶店にでも行かないか」


「構いませんよ」


「僕は東京について詳しくなくて、あまり土地勘が無いんだけど、結人くんはどこかいい場所を知らないかい?」


 宮瀬さんの問いかけに、僕はスマホで近所の喫茶店を検索する。地名と喫茶店と検索欄に打つだけで、数万件のサイトがヒットした。


 流し目でスクロールしながら値段も距離も手ごろな喫茶店を探す。


 特に有名店ではないものの、歩いて行けそうな距離の場所が見つかった。


 スマホを差し出し、宮瀬さんに確認を取る。


「ここはどうですか」


「僕は結人くんがいいならどこでもいいんだけど……うん、そこにしよう。車は私が出すから、結人くんは後ろに乗ってくれ」


「車で来たんですか」


「うん」


 宮瀬さんは東北に住んでいるので、てっきり新幹線あたりで来ているのだと思っていた。校門近くに車が見えなかったのだが、どうやら大学の近くに車が止めてあったらしい。


 僕に背を向けて、宮瀬さんは人混みの中をずんずん進んでいく。


 初老の宮瀬さんの背中は小さく、一度見失ってしまえば探すのは億劫だろう。


 五分程度歩いたところにあったパーキングに見慣れた車が止まっていた。


 赤のボディーカラーの、四人乗りのワンボックスカー。間違いない、宮瀬さんの車だった。


「結人君はどこに座る?」


「後ろに座らせてもらいます」


「そうか」


 どうやら僕の返事が期待通りではなかったようで、宮瀬さんは少し残念そうな顔をした。しかし僕と彼は親しくても、一線を引かなければならない赤の他人なのだ。


 なるべく静かに後部座席に乗り込む。シートベルトをして、宮瀬さんが車を動かすのを待った。


 エンジン音が鳴り、車が動き出す。うるさい機械の騒音に、東京の人々の声は搔き消された。


 僕たちは世界から切り離されたような気がした。




 近場の喫茶店を選んだはずが、道の混雑で十分以上も余計な時間がかかってしまった。


 目的地に着いた僕たちは喫茶店に入る。窓から外を見る限り、客はいても混んでいないようだった。ドアを開けると、からんからん、と乾いたベルの音が僕たちを出迎えた。


 ビルの一階に作られたその喫茶店は、秘密基地のような雰囲気を纏っていた。


 天井から下がるシャンデリアはほんのりと暗く、店内が見える最低限の明かりとなっている。椅子やテーブルは優雅でエレガントな曲線が多用されており、どこか西洋風な感じがした。


 物珍しげな僕の視線に気づいた宮瀬さんが、口の端を上げる。


「あれはロココ様式と呼ばれるそうだ。S字形やC字形の曲線を多用する様式らしい。自由でリラックスできるデザインだそうだ」


「物知りなんですね」


「いやいや、ただの本でかじっただけの知識だよ。詳しいことは知らないさ」


「名前だけでも知っていれば十分だと思います」


「そう言ってくれると嬉しいな」


 宮瀬さんの口が弧を描く。一瞬だけ、まるで僕の親友なような距離感だった。


 僕たちが雑談に耽っていると、店の奥から白髪の男性が顔を見せた。おそらく店のマスターだ。


「何名様ですか」


 宮瀬さんは右手の人差し指と中指を立てる。


 こくり、とマスターは首を縦に振ると「どうぞ」と僕たちに向かって棘のない声で言う。そのまま店の奥へと歩いていく。案内しているのだろう。


 僕と宮瀬さんは奥のテーブル席で向かい合って座った。マスターに向かって、宮瀬さんはブルーマウンテンを注文して、僕はウーロン茶を注文した。


「コーヒーは嫌いなのかい」


 大学生がコーヒーを頼まないのが意外だったようで、宮瀬さんは問いかけてくる。


「はい。数か月前に一度飲んでみたんですけど、あの苦いのはどうしてもだめでした」


「他の子たちは飲んでるのに、それだと苦労しそうだね。まあ、私も子供の頃はコーヒーなんて飲めるか、とか思ってたけど、大人になったら美味しいを感じる」


「そうですか」


 話の終着点が見えなくて、曖昧な返事をした。


「いつか結人くんもコーヒーを飲めるようになるさ」


「そんな日が来ますかね」


「きっと来る。いつかきっと」


 窓の外を眺めている宮瀬さんの言葉は、僕ではない誰かに語りかけているようだった。目にはうっすらと雫が生まれていて、やがて静かに頬を伝う。


 宮瀬さんが泣いている様子を見るのは数年ぶりだった。


 いたたまれない空気になって、僕もガラスの外へと顔を向ける。平日にも関わらず、多くの人が道路を行き交っている。


 男女のカップルだったり、スマホ片手に駆け回るサラリーマン風の男性だったり。多種多様な人々が東京には溢れかえっていた。


 無言で座り合っていると、マスターが注文した飲み物を持って来た。


「ブルーマウンテンとウーロン茶になります」


「ありがとう」


「ありがとうございます」


 僕たちが飲み物を受け取ると、マスターは笑顔を絶やさないまま次の客の出迎えに向かった。


 宮瀬さんはコーヒーを一口だけ飲んで、そして長い息を吐く。


 洗練されたその動作はどこか風格があって、思わず見惚れそうになる。僕がウーロン茶で同じことをしても、子供が背伸びしているようにしか見えないだろう。


 コーヒーに浮かんだ氷が、カランと音を立てて崩れた。


「桜花が死んでから、もう三年になるんだなぁ」


 二人の間に沈黙が訪れる。僕はただ「そうですね」と答えることしかできなかった。


 宮瀬さんはコーヒーを飲み、ごくりと喉を鳴らす。ソーサラーにカップが置かれると、軽い金属音を鳴った。


「今日きみに会いに来たのは、桜花の三回忌についてなんだ。もし結人くんさえ良かったら、出席してくれないかな」


「僕なんかが出席していいんですか」


「桜花の彼女だったきみだからこそ、こうして誘ってるんだよ」


 宮瀬さんは頬を柔らかくして優しい笑みを浮かべる。僕は申し訳なさを感じて、その顔を直視することができなかった。


 宮瀬みやせ桜花おうかは、中学生一年の夏頃から付き合っていた僕の彼女だ。いや、彼女だったというべきか。


 帰宅部だった僕は常連となっていたゲームセンターで桜花と出会い、彼女の代わりにクレーンゲームでクマのぬいぐるみを取ってあげたのをきっかけにして仲良くなった。


 桜花は陸上部で、運動もできれば頭も良いという万能な彼女だった。何もかも平凡な僕には釣り合わない女性だったが、僕の歩幅にいつも合わせてくれていた。


 僕と桜花の付き合いはしばらく続き、僕は高校三年の冬にクリスマスデートを計画していた。桜花はとても喜んでくれて、とても幸せだった。


 あの事故が起きるまでは。


 過去を思い出すと、どうしても淀んだ暗い気持ちが湧き上がってしまう。それが表情に出てしまっていたのだろう。宮瀬さんは頬を硬くした。


「きみが何を思っているのか、事故の後にご両親から聞かせてもらったし、私たちも理解している。結人くんが気に病むことなんて一つも無いんだ」


「ですけど、もし僕があの日に誘っていなかったら……」


「事故に遭っていなかった。そう言いたいのかい」


 僕は首肯する。希望的観測を耳にしても、宮瀬さんは感情に身を任せて発言することはなかった。


 窓に顔を向けて、ガラスの向こうの異世界を眺める。暗い雰囲気の僕たちとは正反対に、午後三時過ぎの世界は明るい喧騒に満ちていた。行き交う人々の顔には今日を生きる必死さが伝わってくる。それは、僕がいつか忘れた気持ちだった。


 宮瀬さんはコーヒーに口を付け、静かに話を切り出す。


「私たちはきみを恨むことなんて絶対にしない。むしろ感謝するぐらいだよ」


「宮瀬さんに感謝される筋合いなんてありませんよ」


「桜花はひたすら勉強やスポーツに打ち込んでいて、将来結婚できるか心配していたほどだったんだよ。あの子が彼氏を作ったって聞いたときは跳ねて喜んださ」


「そんなに桜花はひどかったんですか」


「ああ、小学生の頃なんかは男子と話すことすら無かったからね。結人くんが家に来たときは本当に嬉しかったよ」


 褒められて嬉しいのか恥ずかしいのか分からなくなって、熱を帯びた顔を下に向ける。しかし同時に宮瀬さんが期待していた結婚を望まぬ形で奪ってしまった罪悪感が湧き出てきて、気持ちが急激に冷えていくのも感じていた。


 宮瀬さんは空になったカップを机に置きながら「だから」と口にする。


「僕は結人くんの存在に感謝こそすれ、絶対に恨むなんて真似はしない。信じてほしい」


 真正面から視線が対峙する。どこまでも黒い瞳が僕を映し出し、真実の鏡のようだった。


 こんなときはどう言うのが正解か、誰かに教えてもらいたい。しかしそんな都合の良い存在はいない。自分で考えるしかなかった。


「すみません」


 悩んだ末に出てきた僕の言葉に、宮瀬さんは相好を崩した。


「わかってくれてなによりだ」


「はい」


 何に対しての「はい」なのか、自分自身よくわからない。


 宮瀬さんは左手の腕時計に目を落とす。わずかに双眸が大きく開かれた。笑顔を絶やさないままに、僕に顔を向ける。


「少ししか話していなかったつもりだけど、ずいぶん時間が経ってしまったね。貴重な時間をもらって申し訳ない」


「いえ、どうせ暇でしたから。気にしないでください」


「ここは僕が持つよ。領収書をこっちに」


 ここで不必要な時間を使いたくないので、右手の近くにあった領収書を差し出す。コーヒーとウーロン茶で五百円ちょっとだ。長時間居座った割にはお金を使っていなかったので、マスターには迷惑を掛けてしまった。


 宮瀬さんがお金を支払い、僕たちは店を後にする。


「そうだ。忘れてた」


 ワンボックスカーに乗り込む宮瀬さんの声が聞こえて、居酒屋に行こうとしていた僕は振り返った。


「桜花の三回忌、来てくれるかい」


「はい。必ず行きます」


「ありがとう。桜花もきっと喜ぶよ」


 僕が事故のきっかけを作ったのに、彼女は喜んでくれるのだろうか。小さな疑念が生まれて消える。


「詳しい話はまた連絡するけど、おそらくクリスマスイブになる。何か予定が入る前に開けておいてね」


「わかりました」


「それじゃ」


 宮瀬さんはワンボックスカーに乗り込むと、サイドミラー越しに僕に手を振って去っていった。


 僕は遠くなっていく赤い車をずっと眺めていた。


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