いつまでも、忘れない

天音鈴

第1話

 忘れもしない。受験の息抜きで遊んだクリスマスイブの夜だった。


 交差点を渡ろうとした無防備な彼女を、居眠り運転のトラックが呆気なく轢き殺してしまった。


 真っ白だった雪が彼女の血で赤く染まり、じんわりと広がっていく。


「大丈夫ですか⁉」


 会社帰りのサラリーマンだろうか。生真面目にスーツを着こなした男性が、僕の脇を通って彼女の身体を抱き上げる。


 彼女からの返事は無い。


 彼氏であるはずの僕は、茫然として動けなかった。


 救急車で病院に運ばれた彼女は、精密検査を受けることになった。


「手を尽くそうとしましたが、既に遅く……」


「そんな……」


 言い淀んだ医者の言葉に、事故を聞いて駆け付けた彼女の両親は号泣していた。比喩にならないぐらい、滝のように涙を流した。


 同じ話を聞いているはずなのに、僕にとって医者の話は現実離れしている気がして、泣くことも、笑うこともなかった。


 彼女の葬儀はつつがなく執り行われ、無事に終了した。


 僕も参列したはずだけど、何を言って、何を聞いたのか、あまりよく覚えていない。


 たった一つ記憶に残っているのは、黒い額縁の中で笑う彼女の写真だけ。


 初デートのときに撮った写真だった。 




 彼女の死から二年が過ぎ、いつの間にか大学二年生になっていた。


 趣味が無かった僕には勉強以外に取り組めることがなく、昼夜を忘れて勉強したことで、ある程度名前が通った都会の大学に合格したのだ。


「なあ」


「どした?」


 やる気のなさそうな教授による積分の講義を受けていると、後ろの席に座っていた友達、牧村まきむら陽よう介すけに声を掛けられた。


「ノート貸して。ちょっと居眠りしてたせいで話聞いてなかった」


「ちゃんと起きてろよ」


「悪い悪い」


 反省の色を一切見せないその姿勢は、真面目な僕にとっては怒りを通り越して賞賛ものだ。とても真似できそうにない。


 宝物でも見るかのようにノートを写す陽介を見ながら、僕は過去に思いを馳せた。


 牧村陽介は、高校からの知り合いだ。両親は公務員だと聞いている。


 事故で彼女を失ったとき、なんだかんだで付き合ってくれたのが陽介だった。他の生徒は遠慮がちに僕を見守るだけだったのに対し、同じクラスだった陽介は土足で僕の心へと踏み込んできた。


「なあ、気晴らしにカラオケにでも行かないか?」


 馬鹿か、と思った。傷心した心を癒すのに、カラオケなんて不適切であることに間違いない。


 僕はあまり人と付き合う性格ではなかったので、明らかにおかしな選択肢だった。


 ひどい、そっとしてあげればいいのに。僕たちの取り巻きはそう言って陰口を囁き合っている、


 いくつも目に入る不快そうな顔にあてられたせいか、僕の心もマイナスの感情流されていた。


「人を馬鹿にするな。こっちはそんな気分じゃないくらい、噂を聞いたら分かってるだろ」


「彼女が死んだってな。学校の裏サイトでも噂になってるし、先生からも聞いた」


「裏サイト?」


「ああ。話題の生徒の話とか、不平不満が書かれてるサイトだ」


 鷹揚と頷き、陽介はそう説明してくれた。


 裏サイトの存在を知らなかったが、どうせ正面から言えないような話が書かれていると思うと見る気になれなかった。


 悲劇の主人公、彼女が死んだぐらいで落ち込みやがって。悪口を言うとしたら、そんなところだろう。そんな悪口を言われても否定できないほど、僕にとっての彼女はかけがえのないものだった。


「それで、カラオケはどうする。せっかくだし二人で行かないか」


「空気を読めっての」


「そんなに機嫌を悪くするなって。もし迷惑を掛けたのなら謝るから」


「話しかけるな」


 僕がそう言い放つと、眩しかった陽介の笑顔に影が差した。傷つけたのは申し訳なく思う。しかし、僕の心はもう傷だらけなのだ。今さら人を傷つけたところで痛みには慣れていた。


 陽介は頬を硬くしながらも、精一杯の作り笑いを見せてくる。


「そうか、わかった」


 その日の放課後。僕は待ち伏せされていた陽介に連れ去られてカラオケに行ったのは別の話だ。


 思考の時間が現代まで遡って、目の前の景色が色づいていく。


 未だにノートにシャーペンを走らせる陽介を横目に、僕は口を開いた。


「お前、本当に高校生の頃から俺に構ってばっかりだったよな」


「今さらどうした。俺とお前は友達だから当然だろ」


「友達になったのは結果論だけど、彼女を亡くしたばっかりの奴をカラオケに誘うなんて常識がないぞ」


「クラスで泣きそうな奴がいたら、放っておけないんだよな」


「そんなにひどい顔だったか?」


「ああ。触ったら泣き出しそうなぐらいひどかった」


 長ったらしい公式を書き写しながら、陽介は平然と言ってのけた。


 彼女が死んだ一週間は大泣きして、学校に行けなかったことは覚えている。その後は無理やり笑顔の練習をして学校に戻ったつもりだったのだが、自分で笑っていたつもりでも周りにはそう受け取られなかったらしい。


 少し常識が外れた行動だったが、僕は間違いなく陽介に救われた。


 あの日のカラオケでは悲しかった気持ちを全部吐き出して、彼女がいなくなったという現実の重みを忘れられたのは確かだ。


 ノートを写し終えた陽介が消しカスを払わないまま僕に返してくる。


「ありがとな。お前のノートは本当に見やすくて助かる」


「褒められるのはありがたいけど、ちゃんと自分で書くようにしろよ。将来に絶対後悔することになるぞ」


「わかってるって、明日から気を付ける」


 このセリフを何度聞いただろうか。気を付ける、と言った陽介が翌日から講義に耳を傾けている様子など一度も見たことがない。


 三日坊主という言葉があるが、陽介の場合は一日として持たないのだ。そう考えると、三日も続く坊主は案外凄いのかもしれない。


 くだらない考えに浸っていると、陽介が顔を近づけてきた。


「なあ結人、今日の午後って予定はあるか」


「ないけど」


 急ぎのレポートも無ければ、講義も入っていない。完全にフリーというやつだ。


「それならさ、俺が入ってるサークルの飲み会に人数合わせで来てくれ。費用は俺が持つからさ」


「お前の入ってるサークルってテニス部だっけ」


「表向きはな。本当はサークル活動後の飲み会に力を入れてる部活だ」


「それってどうなんだ」


「学校が認めてるんだから問題ないんじゃないか」


 罪悪感など微塵も思っていない素振りだった。


 大学に入学してすぐ、僕は陽介に一緒にサークルに入らないかと誘われた。少しずつ傷が癒えてきたとはいえ、まだ僕の心から彼女との思い出を消しきれないでいた。


 故に新しい出会いを求めるわけでもなく、何度か陽介に誘われても、僕は無所属を貫き通している。


 しかし陽介が部活の飲み会に誘ってくることは珍しいことではないので、特段驚きもなかった。


 また僕が承諾していないにも関わらず、陽介は話を進める。


「大学から歩いて五分の居酒屋だ。先輩から二十人ぐらい来るって聞いてる。座敷のとこで、酒は飲み放題らしい」


「僕が酒を飲まないのを知ってるだろ」


「せっかく大人になったのに、新しいものに触れないのは勿体ないことだと俺は思うぞ」


「一度ぐらい飲んだことあるさ。でも、酔うのが嫌なんだよ」


「なんでまた」


「昔のことを思い出すんだ」


 酒を飲むと、アルコールに耐性の弱い僕はすぐに酔ってしまう。酔いが回ってくると心の蓋がどうしても外れてしまい、彼女のことが思い出されてしまうのだ。


 嬉しい思い出が蘇ってくるより、事故の瞬間が浮かんでしまうことが多い。それが嫌で、僕は酒を飲まないのだ。


 過去の話を持ち出すと、さすがの陽介といえど無理強いはしてこなかった。


「わかった。俺から先輩たちに酒のことは連絡しておくよ」


「別に気にしなくていい。僕が飲まないように気を付ければいいだけだし」


 顔見知り程度のサークルの先輩たちに気を遣ってもらうのは申し訳ない。僕の努力でどうにかなる。


 僕の前向きな返事を聞いて、陽介は顔を綻ばせた。


「わかった。とりあえず居酒屋の場所と時間を携帯に送っておくから、後で確認しといてくれ。忘れても責任取れないからな」


「お前じゃないっての」


「それもそうか」


 教授の気だるげな話し声に耳を傾けながら、ノートの隅に飲み会とメモを入れる。あとで読むかは別として、きっと書くことに意味があるのだ。


 紐のような汚い文字になってしまったが、なんとか読めるので見返せるだろう。


 描き終えると同時に講義終わりのチャイムが鳴り、教授が一言二言残して立ち去っていく。教授の姿が見えなくなった瞬間、陽介も立ち上がった。


「俺はこの後バイトだから一旦家に帰るわ。絶対に飲み会に顔出せよ」


「メモ取ったから忘れないって。万が一も無いと思うけど、時間までに来てなかったらスマホに連絡してくれ」


「了解。まあ、結人が人との約束を忘れるなんてことはないだろうけどな」


「それじゃ」


「ああ」


 虫歯一つない真っ白な歯を見せつけて、陽介は快活に廊下を疾走していく。だんだん遠ざかる足音は雑踏に紛れ、やがて聞こえなくなってしまった。


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