戸籍

 その次の日。


「住所は?」

「中谷◯◯町△△ー✕✕ー◇◇でした」

「でした?」

「今は誰かのバラックが立ってます」

 真は丸眼鏡を掛けた真面目そうな男性にそう答える。


「……今はどこに?」

「知り合いの家に居候してます」

「……なるほど。……もう結構ですよ、本籍はこれで登録できました」

「ありがとうございました」

「……次の方」

 そう男に手を振られその場を離れる兄妹、


 この日兄妹は下谷区(台東区が出来る前に在った区)役所に来ていた。


 役所が戦災で焼失した戸籍簿を新たに作り直してると小耳に挟み、このどさくさに紛れて新たに戸籍を手に入れようとしたのだ。

 二人の目論見はうまくいき、この昭和の時代に田尻真と田尻芹香という二人の身分を手に入れることができた。


「うまくいったわね、兄さん」

「ああ、 これで金と身分と家、最低限のものは揃った」

「あと三年もすれば朝鮮戦争が始まるわ。その時ぐらいまでは今の商売が続けられると思う」

 二人は堂島家への帰り道を歩きながらそう話合う。


「朝鮮戦争の特需をきっかけに景気が上向くんだったか」

「その代わり朝鮮半島では何百万人もの人が死ぬけどね」

 そう言って芹香は顔を曇らせる。


「……それはしょうがないさ。

 いくら未来の知識があると言っても俺たちはただの子供だよ。

 いくら小金が手に入ったからってできないことはできないのさ」

 真は肩を竦めながら答える。はっきり異って見ず知らずの人間が大勢死ぬと言われても、真の想像力では現実味に欠けたのだ。


「……分かってるわ、それよりケイタたちは大丈夫かしら?」

 芹香はそう話を変える。

「この間会った時はまともな身なりをしてただろ。大丈夫さ」

 あっけらかんと真は答える。

「でも空の財布なんか持って。

 スリの片棒でも担いでいるんじゃないの」

 芹香は尚も心配そうに呟く。


「芹香、犯罪で食ってるのは俺たちも一緒だ。本人がそれを良しとしている以上、止める術はないよ」

 真もその事に気付いていなかった訳では無い、しかし他人事と割り切って考えていた。


「……そうね」

 結局、芹香もそんな真に同調する。

「……早く帰ろう。石鹸切り分けるんだろ」

 そう言って二人は堂島家へ向かって歩みを進める。


****


 堂島家ヘ帰ってきた二人は早速石鹸の製作の続きに取り掛かった。


 二人は、先日石鹸溶液を流し込んだ平鍋を恐る恐る覗き込む。

「どうだ」

「……うまく固まってるわね。

これなら取り出しても大丈夫そう」

 そう言うと芹香は平鍋をひっくり返して 中身を取り出す。


 中から薄い茶色の固形物が出てくる。

 芹香はそれを均等に切り分けると新聞紙をひいたざるの上に並べていく。

 全部で十個ほどだ。


「後はこれで一ヶ月待てば完成よ」

「意外と時間掛かるな」

「でもそのぶん売れればボロ儲けよ。

 これ全部作るのに二十五円ぐらい、 一個十円で売れれば……」


「十個で七十五円の儲けか。

 大量生産できれば確かに大儲けできるな」

「でしょう」

「今から楽しみだ」

 そう言って二人は笑い合った。

 ふたりが笑い合っているとそこに清十郎がやってきた。


「どうしたんだい二人ともそんなに上機嫌で」

「石鹸を作っていたのさ」

「へぇ、これが君たちが昨日の夕飯の時に言ってたやつか」

「間違ってもかじっちゃだめよ。泡吹いて死んじゃうから」

 そう言って芹香が清十郎をからかう。


「しないさ! そんなこと。

それよりお重さんさんが夕飯だってさ」

 清十郎はそう言って、今来た廊下を戻っていく。

「わかった。今行く」

「今日の晩御飯は何かしらね」

 そう返事をすると二人はゆっくりと立ち上がり食卓へ向かう。


****


 その日の夕飯は麦飯、アジの干物、菜っ葉の味噌汁と、この時代にしては豪華な食事だった。

 清十郎が稼いだ金と兄妹の家賃で、このところの堂島家の食卓は豪華な食材が並ぶようになったのだ。


 滋養のある食事を食べてるおかげか、静江の身体も だいぶ具合が良いようだ。

「それでは本当に二人とも危ないことはしてないのですね」

 そう言って食事の席で静江は真と芹香の心配をする。


「大丈夫ですよ母上。二人とも速水さんと佐伯おじさんに付いて行動してるんですから」

「そうですよ全く心配ありません」

 そう清十郎と芹香が否定する。

 真も喋りはしないが頷いている。


「……なら良いのですが」

「 そうですよ静江様。二人の入れてくれる家賃のおかげで食卓も豪華になったわけですから、文句は言えませんよ」

 お重が給仕をしながらそう言う。

「それもそうですね」


 こうして暖かい空気の中で食事は続くのだった。


****


 食事の後、自室にて布団に横になりながら芹香が真に尋ねる。

「兄さんって静江さんの前では無口になるよね。どうして?」

 真は一瞬考え込むとはにかみながら答える。

「いや、なんとなく母さんのこと思い出してな」


「ふーん、私たちのお母さんってあんな感じだったの。私小さかったからよく覚えてないの」

 芹香が三歳の時に二人の両親は死んでいる。なのでそう言われても芹香には実感が伴わない様だ。


「いや顔とかは全然似てないんだけどな。

 雰囲気がなんとなくな」

 真が何かを懐かしむ様に呟く。

 そんな真を見て、芹香は身体を起こすと

「……ねえ兄さん」

と、問いかける。

「なんだ」


「今度、私たちのお父さんとお母さんのお話ししてくれない?」

 真の目を見つめながら呟く芹香。

 そんな芹香に真は、

「ああ、いくらでもしてやるさ」

と優しげに頷く。

「約束よ? 兄さん」

 そう言って二人は横になり眠りにつく、脳裡に今は遠き両親の面影を思い浮かべながら。

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