邪神覚醒――デウス・エクス・マキナは唐突に

 定心丹ていしんたんなる呪具でラヰカの位置が固定されている。そのヒントを聞かされた六花たちは、ラヰカの後ろ首に小さなピンが付けられているのを発見した。幸いな事にラヰカそのものに突き刺しているのではなく、二股に分かれたピンの先で毛の一部を挟み、それで固定しているらしい。


「これがきっと定心丹ですよ!」


 真珠ほどの大きさの、しかし黒々とした渦を見せる珠を眺めながら源吾郎は叫んだ。椿姫と万里恵は小さな球を眺め、互いに顔を見合わせてから源吾郎に視線を送っている。


「すみません。僕も実を言えば定風丹や定心丹の現物は見た事はありません。ですが、昔読んだ西遊記には、孫行者殿は定風丹を襟元に縫い付けたと書いておりました。なのでこれが定心丹ではないかと思うのです」

「ありがと源吾郎君。あなた若いのに勉強熱心ね」

「そう言えば確かに、あの隠れ座頭、ラヰカの後ろ頭を撫でてたよね。あの時にこれを仕込んだんだわ」


 源吾郎の言葉に椿姫が感心し、そして万里恵が先の光景を思い出したかのように呟いた。とりあえず、これを外せば良いんだわ。椿姫は定心丹に手を伸ばした。


 ところが、結果としては定心丹をラヰカの襟首から引き抜く事は叶わなかった。椿姫だけではなく、万里恵や穂波、そして源吾郎や六花も引っ張ってみたのだが……あまりにも重くて持ち上がらないのだ。孫行者や牛魔王、或いは姜子牙きょうしがで無ければ持ち上がらないだろうと源吾郎がぼやいたほどだった。

 ならばと定心丹が縫い留められた毛をハサミで刈り取ろうとしたのだが、携帯している普通のハサミでは刃が立たなかった。ラヰカの毛は確かにモフモフのフワフワなのだが、全体的に妖気で護られているがために並外れた強度を見せているのだろう。


「私らでは定心丹をどうにかできないわ。ラヰカに目を覚ましてもらって……それで後は頑張ってもらわないとね」


 定心丹の重さとラヰカの毛のこわさを目の当たりにした椿姫たちは、ひとまず方針を変えざるを得なかった。ラヰカが目覚めればこの茶番は終わる。言外にそう言っている椿姫の表情の裏には、ある種のラヰカへの信頼の色が滲んでいるように思えた。


「ラヰカさんは定心丹を跳ねのける事が出来るのでしょうか……?」

「多分ね」

「私も平気だと思う。ラヰカが起きればの話だけど」


 源吾郎の心配そうな問いかけに対し、椿姫と万里恵はほぼ同時に即答した。


「源吾郎君。前にあなた達が常闇之神社に来た時の事を思い出してみて。あの時ラヰカは封神縛鎖ほうじんばくさの拘束をものともせずに、素手で引きちぎっていたでしょ。単なるロープじゃない、対艦砲を浴びてもびくともしないあの鎖をね。

――それだけの馬鹿力があるなら、定心丹もどうって事は無いはず」

「……」

「とりあえず、起こすのを手伝いましょ」


 気の抜けたような表情を浮かべる源吾郎に雪羽は発破をかけた(雪羽もまた、もう既に梅園六花の変化を止めて雷園寺雪羽に戻っていたのだ)

 そんな中で、まずラヰカを起こしにかかったのは椿姫だった。ラヰカ! 鋭く声を上げた彼女は、何とラヰカの左耳を摘まんで軽く引っ張っている。


「酒癖が悪い事は知ってるけど、そんなとこで眠り呆けている場合でもないでしょ! ほら、源吾郎君も雪羽君も心配しているわ。だから起きて」


 椿姫の言葉は鋭く、それにもましてラヰカの耳を摘まんで揺らす手つきも烈しく思えた。耳が千切れやしないだろうか……他妖事ひとごとながらも、雪羽はそんな心配をしてしまう程だ。もちろん、椿姫とて加減は解っているはずだと信じたいのだが。


「ん……むー、祝儀、祝儀ぃ……」


 ラヰカはまだ夢の中らしく、何事か呟いただけであった。万里恵も尻尾の辺りに爪を立てて引っ掻いてみたり、穂波に至っては小さな狐火を生成し、定心丹を焼き払おうとしたほどだった。ラヰカはこれらの呼びかけに何らかの反応を示したのだが、その反応は寝言だったり尻尾や足がピクッと震える程度のものでしかなかった。

 源吾郎などは、分身術を濫用して竜胆と菘――稲尾椿姫女史の弟妹であり、ラヰカにとっても弟分・妹分に当たるのだ――の幻影を顕現させる始末である。そこまで大胆な事をやってのけているにも関わらず、前もって椿姫に許諾を取るのがいかにも彼らしかった。


「うーん。式神は蜥蜴トカゲしか勝たん! かわいい……娘に……ラム」

「ああ、やっぱり起きそうにないですね……」


 ラヰカの覚醒と神便鬼毒酒の効果そのものを弾こうと、雪羽も雷撃を放ってみたものの、効果はいまひとつであった。そもそもラヰカの内部、妖気の流れが読めないのだ。何処に当てれば効果的なのか解らないうえに、ラヰカ自身が何かに護られているような雰囲気さえあった。それはラヰカが自身を護る術を無意識に行使しているのか、隠れ座頭たちの細工によるものなのか……雪羽たちには定かではなかった。

 そんな中、隠れ座頭がニヤニヤと笑いながら何事かを唱える。頭部と四肢の先に嵌められた環が一瞬輝き、僅かに縮んだのが見えた。


「くっ、くそっ……ヌキ……んでだ……!」

「定心丹だけでは飽き足らず、緊箍児きんこじまで付けていたなんて……!」


 眠りながら眉をしかめるラヰカを見ながら、源吾郎は悔しげに呟いた。

 流石は博識の半妖ですな。隠れ座頭は得意げな笑みを浮かべている。


「激痛をもたらす緊箍児の呪を受けても目を醒まさないのはご覧になりましたでしょう? そうですよ、初めから無駄な――」

『若人の努力を、無駄なあがきと決めつけるのは良くないなぁ』


 無駄なあがきだった。隠れ座頭が言い切る前に、その声は雪羽たちのすぐ傍で聞こえてきた。男の声だったが、声の主は源吾郎ではない。彼もまた、聞こえてきた声に驚き、声の在処を探っていたのだから。もちろん雪羽が言ったのでもない。むしろ萩尾丸の声に何となく似ていた。


「え、誰……って何!」

「うおっ、俺も……」


 声の主を探っている丁度その時、源吾郎と雪羽は違和感に声を上げた。何かが服の間で蠢くような、奇妙な感触に襲われたのだ。源吾郎などは、ワイシャツを着こんだ横っ腹が小さく膨らみ、それが出口を求めて蠢いている。もっとも――それは雪羽も同じだったのだが。

 小さく蠢くモノの正体は、赤い毛並みの小さな兎だった。雪羽と源吾郎の許から、それぞれ三羽ずつ、都合六羽飛び出してきたのだ。


『深酒には酔い覚ましが必須。そんな事は殷王朝からの決まりなんだよ!』


 チビ兎は声をそろえてそう言うと、ラヰカの許に殺到する。体育大学の学生よろしく六方向に散開した。彼らは奇妙にも、ラヰカと床の間に潜り込もうとしていたのだ。

 動いたラヰカの尻尾や四肢、そして下顎などに兎が挟まれる。赤い兎がギャグマンガのように平べったくなるのを、雪羽は見た。

 ラヰカに動きがあったのはその直後だった。ギュッとつぶっていた瞼が震え、ゆっくりと見開かれたのだ。尻尾と四肢に力が戻り、何事もなかったかのように起き上がり、お座りの姿勢になっていた。定心丹の影響などものともしない、で。


「ラヰカ! 起きたのね!」

「あー、うん」


 椿姫の呼びかけにラヰカは狐姿のまま、やや気の抜けた様子で応じる。違和感を払拭するように頭を振ると、狐姿ラヰカの姿は、もう普段の見慣れた女性の姿に変わっていた。これもまた流れる様な動きであり、雪羽たちはもとより、ラヰカに近しい椿姫や万里恵ですら絶句していた。驚きすぎたためか、源吾郎の幻術も消えていた。

 見知らぬ地下という状況下に、寝起きのラヰカも何があったのか解らずにしばし呆然としているようだった。しかし首を動かした時に違和感を覚えたらしく、顔をしかめて後頭部に手を伸ばす。


「何だこりゃ。何で俺の頭にこんなもんがくっついていたんだ?」


 まぁ良いか。丸い珠がついたヘアピンモドキを、ラヰカはこだわりなくその辺に放った。、だ。


「そんなっ! 神便鬼毒酒の酔いから醒めるとは……!」


 隠れ座頭がやにわに焦った表情を見せ、数珠を合わせて呪文を唱える。緊箍児でラヰカの動きを封じるつもりなのだ。


「うっ、何だ。急に二日酔いか……まだ飲んでから日数経ってないのに……」

「違うのラヰカ。あのオッサンが、緊箍児を唱えているからだよ」


 そうか。万里恵の指摘にラヰカは妙に冷静な表情で応じた。孫悟空をして七転八倒せしめた緊箍児の呪を正面から受けるラヰカの表情がゆっくりと変貌していく。茫洋としていた面に不快の色が灯り――苛立ちめいた表情に変わったのだ。

 それに呼応するように、緊箍児の色調も、いや緊箍児そのものが変貌した。緊箍児はみるみる黒ずんでいき、ヘドロのように。それは丁度、卑金属から貴金属を錬成するという、錬金術の逆行を目の当たりにしているような光景だった。ラヰカならば緊箍児をぶち破る・粉々に砕くであろう事は想定していた。だがまさか、金属を熔かし汚泥に変えるとは……


「何なんだあんたらは。可愛い女の子と旨い酒があるって事でついて来たのに、本当にこの俺を馬鹿にしやがって……!」


 ラヰカの五尾が持ち上がり、そこから藍紫の妖気が放出されるのを雪羽は見た。その密度その圧力は、先程源吾郎が見せた妖気の威嚇が可愛いものに思えるほどの代物だった。

 雪羽はここで、常闇之神社最強の邪神の、怒れる姿を目撃したのだった。


「いや~、僕も長らく天狗稼業をやっているけれど、まさか本物の『リア充爆発』を目の当たりに出来るなんてねぇ」

「……近隣住民から地鳴りがあったと聞いていましたが、これが原因なのでしょうかね」


 萩尾丸が自分の部下や連携を取っている自警団の面々を引きつれてやって来たのは、ラヰカ怒りの狐火が炸裂してからおよそ十分後の事だった。

 現場は椿姫が鉄扉をぶち抜いた時以上の混乱に包まれていた。広かったはずの部屋は見事に爆散し、廊下との境目も無くなった風通しのいい職場になっていたのだから。もちろんあちこちに瓦礫が転がっているのだけど。

 狐火大爆発に巻き込まれた雪羽たちだったが、奇跡的にほぼ無傷だった。潜入捜査に先立ってあれこれ用意していた護符たちが、雪羽たちや椿姫たちの身を護ってくれたのだ。

 ちなみに敵グループの方も(今回の爆発では)特段深手を負ってはいないが、闘志も野望も何もかもぽっきりと根元まで折れてしまったのは言うまでもない。誰も彼も若干頬がすすけ、妖によってはパンチパーマかアフロに変貌している事以外は、概ね無事である。

 これが本当のリア充爆発かぁ。ヤングが使いそうな言葉を発しながら、萩尾丸はまず雪羽たちに近付いていった。犯人たちの捕縛は部下や自警団に任せた上で。彼らが反抗するならば彼も動いたのかもしれないが、もはや誰も争う気配もないし。


「島崎君に雷園寺君。君らってば途中で変化を解いちゃったんだね。二人とも色々と訳があったんだろうけれど、エージェントとして活動中は変化を解いちゃ駄目だぞ」


 萩尾丸はそう言ったものの、すぐにいたずらっぽい表情で言い添えた。


「と言ってもね、僕は女の子の姿に変化した君らよりも、君らのそのままの姿の方がずっと可愛いと思うんだけどね。まぁ、これは僕個人の意見だから聞き流してもらっても良いんだけど」


 萩尾丸の言葉に、源吾郎と雪羽はそっと目配せをした。一瞬だが源吾郎が渋い表情をしたのを雪羽は見逃さなかった。自分もそうなっているはずだが。萩尾丸は源吾郎たちの女子変化を面白がる節はあるが、実はそんなに好いている訳ではないらしい。その理由については深く言及はしないが。

 さて萩尾丸はと言うと、パンチパーマと化した後輩たちから少し離れ、今度は常闇之神社の面々の方ににじり寄っていた。未だ茫洋とするラヰカは、しかしこの場を打開してくれたラヰカは、やり過ぎだの飲み過ぎだのと椿姫や万里恵に詰問されていたのだ。

 そんな神使達に対し、萩尾丸は丁寧な口調で挨拶と自己紹介を行った。それから、美女妖狐たちや美女猫又に営業スマイルを向け(美女たちを前にして脂下がる事など一ミクロンも無かった)、言葉を紡いでいったのだ。


「あなた方は確か、常闇之神社の神使の皆さまですよね。うちの島崎と雷園寺が毎度お世話になっております。あなた方とは仕事も絡んだ付き合いだったんですが、色々と良くして頂いて、本当にありがとうございます」


 あ、やっぱり萩尾丸さん的には、俺たちと常闇之神社って仕事がらみの付き合いって事になるのか……萩尾丸の言葉を、雪羽は不思議な気持ちで聞いていた。業務として幽世に出張した事はあるが、源吾郎も雪羽もその前からラヰカとネット上で交流していた訳だし。


「いえいえ、こちらこそお二人には良くしてもらって本当に嬉しく思ってるんですよ」


 萩尾丸に応じたのはラヰカだった。萩尾丸とラヰカはほぼ互角の存在であると雪羽は踏んでいるのだが、ラヰカは若干恐縮したような素振りを萩尾丸に対して見せている。名刺を貰い、その肩書を見たからなのかもしれない。


「今回も二人とも真面目に潜入捜査とやらをやってたみたいですし、幽世に来た時も、本当にお行儀よく良い子だったので……」

「潜入捜査の件はラヰカもそんなに詳しくないでしょうが。ですが、幽世にいる弟妹も島崎君や雷園寺君の事を慕っていました。同じ妖怪同士、結構来ていただくと楽しいのは本当の事です」


 椿姫のフォローの後に、ラヰカは何かを思い出したかのように声を上げた。


「それにですね萩尾丸さん。島崎君は今度私のチャンネルに参加してくれるって今回約束してくれたんですよ」


 無邪気なラヰカの言葉に、源吾郎の身体がびくっと震えた。いやー、本当に嬉しいですよ。ラヰカは源吾郎の異変に気付かぬまま、言葉を紡ぐ。


「やっぱり、親しい妖とのコラボって楽しいんですよね。島崎君も私どものノリをよく理解してくれますし、何より本当の玉藻御前の末裔ですから、視聴者数も見込めるんですよ」

「そうですか、そんな約束を島崎が持ち出していたんですか」


 萩尾丸は一言一句、噛み締めるように言っていた。源吾郎を一瞥してから、しかし涼しい顔で言い添えた。


「ふふふ、ラヰカさんのチャンネルは私も時々拝見させていただいているんです。可愛い後輩たちがお世話になっているんですからね。お日にちとお時間が合えば、どんな内容かまたチェックいたしますね」

「萩尾丸さんも視聴なさっていたんですか! どうぞご遠慮なさらずコメントもなさってください! あのチャンネルはコメントの掛け合いも面白さの一つなので」


 ラヰカの言葉に萩尾丸は何も言わず、ただ静かに微笑むだけだった。雪羽も源吾郎も笑ってはいなかったけれど。


 その後の萩尾丸とラヰカたちとのやり取りは比較的普通の妖怪同士の会話だったと付け加えておこう。相手が初対面、それも強大な力を持つ神使と言う事もあってか、萩尾丸の物言いは実に丁寧で、そこには皮肉や炎上の種は見当たらなかった。

 適当な所で解散したときに、萩尾丸は源吾郎たちに持たせていた護符の解説を行ってくれた。そこで雪羽と源吾郎は、何故ラヰカが神便鬼毒酒の眠りから覚醒したのかを知った。

 赤い兎としてラヰカの下に潜り込んだのは、醒酒氈せいしゅせんと言う酔い覚ましのアイテムだったのだ。大陸は紂王が殷を収めていた時代、伯邑考はくゆうこうと言う若者が王朝に貢物として差し出したものの一つであるらしい。一見するとただのじゅうたんなのだが、酔っている人がその上に寝転ぶと、どれだけ深酒をしていても酔いが醒めるという代物らしい。

 もちろん雪羽たちが所持していた醒酒氈の護符は、本家と同じ効力を持っていたのかどうかは定かではない。それでもラヰカ自身の妖力が強かったために、酔い覚ましの効果が発揮したのだろう、と言う事だった。

 また、醒酒氈の持ち主だった伯邑考は、後に妲己に因縁を付けられて殺害されている。そうした事柄もまた、醒酒氈が効果的に働いた一員なのかもしれないと、源吾郎は密かに考察していた。何せラヰカは、妲己や華陽夫人、そして玉藻御前である九尾の怨念を宿す存在なのだから。

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