“菊原桐李”


────階段を登り、俺の姿が完全に見えなくなったとき、ツネアキは呟いた。

「呼ばれたっつったけどよ…そんな放送、あったか?」



化学室に入ると、独特の薬品と何かが混ざったような匂いが鼻腔をつんと刺す。西日がまともに当たり、緑のビニル製のフローリングに、茜色のビロードが掛かったようになっていた。


教室の隅で、ががががが、という音がする。見れば、ひとりの女子生徒が窓を開けているところだった。ここのアルミサッシは古いので、いつもこのように鳴るのだ。


「あれ、天見くんじゃん。どうしたの?」


その端正な顔には見覚えがあった。そしてその飴色の髪に西日が当たり、綺麗な紅葉色になる。

しかし名前が出てこない。喉までは出ているのだが。


「菊原桐李だよ。忘れちゃった?」


俺の内心を見透かしたかのように、彼女は言った。

そうだ。あまり話さないからか、失礼なことにうろ覚えになってしまっていた。

「ね、天見くんさ、昨日夜何食べた?」

それに気分を害されてはないらしい。俺に話しかけてきた。わざわざ呼んでおいて、先生もまだ来ないらしい。俺はそれに付き合うことにした


「いや、覚えてないな…」

「じゃあお昼は?」

「それも…」


昨日のことはあんま覚えてないんだ。疲れてて、と言い訳がましく俺は言った。

そう、と彼女はその小さな顎に手を当て──


「やっぱりね」

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