6,転校生

 星空が何処かの森を静かに見下ろしている。夏の夜とは思えない程、そこは森閑と静まり返っていた。

 森の一角に、そこだけくり抜かれたように開けた空間があった。月光がそこに立つ人影を照らし出す。これまた夏にふさわしくない緋色の外套を纏ったその人物は、しかし暑さなど感じてはいないようだ。

「ノア、また天体観測? 好きだねえ」ノアと呼ばれた人影は声に反応してゆっくりと振り向いた。まるでぜんまい仕掛けのようにぎこちない動作だった。首の動きに連動して視線を送ったのは右目だけ。左の眼球は白濁し、あらぬ方角を向いている。

「見ていたのではない。いたのだ」抑揚のない声でノアはそう答えた。

 ノアに近づいてきた人物は、彼に倣って空を見上げた。異国の血によって薄い色素が肌と髪と目の色彩を構成している、背の高い男だった。暫し二人の間に無言の、否無音の時が流れたが、金髪の男が再びそれを破った。

「何にも聞こえないけど」

「そうだろうな。この星々の歌はおれにだけ聞こえるのだそうだ」

「なんでノアにだけ聞こえるの?」

「これは母様から聞いた話だが――」ノアが男に向き直る。右目は相手を捉えたが、左目は眼窩を転がって虹彩が目頭の側へ滑り落ちていった。「おれは一度、ほぼ死んでいる。それを母様の能力ちからで現世に縫い留めた。死者と生者の魂では知覚出来るものが違うらしい。だから、一度も死んだ事のないお前達には聞こえない」

 金髪の男はいまいち納得のいっていない顔で、しかし口では「なるほどね」と返した。ノアが尋常の人間でない事はうっすらと気づいてはいた。普通でない人間――ノアの説明が正しいとすれば最早人間と呼んでいいのかすら疑問だが――が何らかの事象に対しに説明出来なくともまあ無理はない。彼はそう結論づけた。

「アダム、まだ寝てないの?」三人目の登場。二人が振り向けば、古びた天文台だった建物を背に立つ細身の女。直線的に切り揃えられた黒髪は彼女の肩を竦める動作に合わせてさらさらと揺れる。

「リューイチローって呼んでよ。その呼び方、嫌いなんだ」金髪の男もといリューイチロー・アダムズは顔を顰めた。

龍一郎リューイチローって顔じゃないでしょ、アンタ。それに長くて呼ぶのが面倒だし」

「じゃあリューでいいからさあ」

「そんな事はどうでもいいのよ。なんでまだ寝てないワケ? 明日の荷物受け取りはアンタとリンの当番でしょうが。あの虚弱体質一人で荷物が運べるとでも?」

「暑くて眠れなかったんだよ。もう寝るよ。おやすみ、或美あるみ

「ええ、とっとと寝なさい」

 リューイチロー・アダムズはこの或美と話していると、父が使っていた剃刀を何故か思い出すのだ。薄く鋭利な刃が並んだそれは獲物に傷と苦痛を齎す為に万全を期す凶器めいて彼の目には映った。彼女から剃刀を連想するのはあるいは神経質に整えられる髪型のせいかもしれないしあるいはその鋭い舌鋒の故かあるいはそれら全てなのか。要するに彼女が少し苦手なのだ。

「君は何をするの?」リューイチローは建物に戻る直前、彼女に尋ねた。答えを期待してはいなかったが、或美はそっけなく呟いた。

「狩り」見ればその両手には粗末なつくりの弓矢があった。

 彼はこの森で動物を見た事がなかったが、あえて言い返す事もしなかった。






 閑話休題。

 月曜日、司柄水しがらみ市立第三高校二年一組の教室は朝から非日常的な熱気を帯びていた。先週までなかったはずの机と椅子が一人分増えている。日直の生徒が、職員室で担任と見慣れない女子生徒と話しているのを目撃した。それはつまり、

「――転校生?」榊紫苑は首を傾げた。

「どうもそうみたい」隣に座るクラスメイトの余目あまるめみすずが頷いた。

「こんな時期に来るの? もうすぐ一学期終わるのに? っていうか、期末試験はどうするの?」

「うーん、確かに変だよね」みすずは顎に手を当てた。紫苑の疑問に対する答えは持ち合わせていないようだった。「何か訳ありなのかな」

 訳あり、という単語が紫苑の中で引っかかった。クラスの誰とも共有出来ない秘密を抱えている彼女の脳髄に様々なイメージが泡のように浮かんでは消え、まとまらない。

 ざわめきは担任の男性教師の登場によって静まった。心なしかその顔は緊張して見えた。

「えー、学期末で急な事ではあるが、このクラスに、まあその、いわゆる転校生だな。今日から皆と一緒に勉強する事になった。じゃあ五代……さん、入ってきて」

 つるつるした床にゴムの靴底が擦れて立てる足音と共に、件の転校生が姿を現した。教室中の視線が一点に注がれる。

聖フアン大学付属高校サンファンの制服だ」「お嬢様って事?」「やば」「なんで市立校うちに?」隣同士との囁きも重なればそれなりに大きなどよめきとなる。紫苑は何も言わなかった。に釘付けになっていた。

 担任が転校生の名前を黒板に書く。悪筆で有名な彼だが、いつもより三割程丁寧な筆致だ。

 教員に促され、転校生は優雅に一揖した。顔を上げてから、ゆっくりと名乗る。

「聖フアン大学付属・清華高等学校からこの度転入してまいりました。五代礼です。皆さんどうかよろしくお願いいたします」射干玉の黒髪は短く切り揃えられているが、上品な物腰は華やかな私立高校の制服とよく似合っていた。

「五代、さんは榊の前の席だな。皆、仲良くするように」担任の教師のその言葉をちゃんと聞いていた生徒はクラスに半分もいなかったろう。

 が歩いてくる。紫苑の見開いた眼から注がれる視線を柔らかな微笑で受け止め、は口を開いた。

「榊紫苑さんですね? お噂はかねがね。これからよろしくお願いします」

 紫苑はもうこれ以上目を大きく開く事が出来ない。噂? 誰が、あたしの?



 ✳︎



 転校生こと五代礼と二人きりになれる時間は放課後までなかった。休み時間の度にクラスメイトが集まってきてなんやかやと質問や話題を浴びせたからだ。

「サン・ファンってどんなところ?」「校舎案内しようか?」「ねえねえお昼一緒に学食行かない?」教室移動はさながら姫と取り巻きと如き様相だった。普段なら紫苑と行動を共にするみすずも取り巻きの一員となり、紫苑は遠巻きにそれを追うのみだった。

 妙にむず痒い心地だった。礼の発言の真意を知りたいという焦りの底で、仄かに立ち昇る違和感があった。

 ――転校生が来たってだけで、こんなにはしゃぐもの?

 しかしその疑問は日々のタスクから生じる他の思考によって脳髄の隅に押し込まれた。高校生は何かと忙しいのだ。



 ✳︎



 放課後。

 紫苑はの為に部活動をしていない。礼に話を聞くのはもう少し落ち着いたらにしよう、そう自分に言い聞かせて校舎を出る。グラウンドの隅にある駐車場――野球部の練習試合でもなければ誰も来ない場所――での車が来ているはずだ。機密保持の為に公共交通機関やタクシーで行く事は禁止されていた。

「榊さん!」呼び止める声に振り返った。転校生、五代礼が声の主だった。「一緒についていってもいいですか?」

 コンマ五秒の疑問符、その直後の理解。彼女もなのだ。「うん、いいよ」理解不能なものが暴かれる安堵に思わず頬が緩む。

「待て待て待てぇーっ!」礼よりさらに後方から叫び声とピッチの速い足音。弾丸の如く突っ込んできたのは三組の八鍬やくわ鋼音はがねだ。燃えるような赤毛は彼女の走りによって簡易的なオールバックになっている。「榊、オマエはいつになったらオレを待って……」

「えーと……八鍬さんですね?」礼に声をかけられて、鋼音はぽかんと立ち止まる。小学生さながらの背丈では自然と礼を見上げる格好になる。

「──誰?」

「鋼音ちゃん、この子は五代礼さん。人で」

「いえ、まだ皆さんと一緒にをすると決まったわけではないんです」

 今度は紫苑がぽかんとする番だ。解けたと思ったパズルのピースがてんでバラバラに捩じ込まれていたのに気づいたような気分だ。

「おーい、早く乗りなよー」駐車場の隅に停まったバン、正確に言えばその運転席から声がした。

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