13


 俺は研究室を出たあと、忍び足で建物の入口付近にある窓に近づき、そっと表の様子を伺った。見た限り、入口から車に至るまでの間に人影は見当たらない。やはり奴らは、そこに姿を出さないよう注意しているのだろう。車の周囲に積み重なっている廃車の陰に隠れていたら、どこにいるのか見つけ出すのは難しい。カオリの奴、よく気配に気付いたもんだなと感心するくらいだ。恐らく奴らも、俺たちが奥にある部屋に引っ込んでいると踏んでおり、カオリ1人がタバコを吸いに出てくるのは予想外で、少しは油断もあったのかもしれない。


 俺の役目は橋本たちが車にたどり着くための「オトリ」になることなので、入口に近い窓ではなく、建物の左右に位置する窓を狙うべきだ。そう考えた俺は、入口から一番遠い場所にある窓に奴らを引き付けることにした。奴らがどれくらいの人数で来ているのかすらわからないのは不安材料だが、何も奴らを一網打尽にしようってわけじゃない。騒ぎを起こして、注意を引けばいいだけのことだ。


 そこで俺はいったん研究室に戻り、どの窓に「仕掛けるか」を伝えた。橋本たちには、その逆方向から車に向かって回り込んでもらえばいい。橋本は「わかりました」と即答したが、少し不安げな顔をしていたので、「どうした?」と問いかけた。だが橋本は珍しく口を濁し、「いや、何でもありません。作戦が上手くいくよう、お互い頑張りましょう」とだけ言葉を返した。どうやらカオリと日野は先に車に潜り込んでいるらしい。出来れば橋本に先導してもらえればと思っていたが、3人の中では一番小柄なカオリが先頭を行って、しんがりを橋本という手もあるか……。俺はそう考え直し、「頼んだぞ」と言い残して研究室を出た。



 それから俺は「仕掛け」をする窓に近づき、その隙間から慎重に外を伺った。壁に面した全ての窓を、奴らが見張っている可能性も十分にある。俺の動きが外から悟られては作戦も水の泡だ。俺は研究室から持ってきた「劇薬」の瓶の蓋を開け、「さあて……それじゃあ、やるとするか」と小さく呟いた。


 

 俺は体を壁に付けた状態で片手を伸ばし、窓の鍵をカチャリと開けた。そして「ふう……」とひとつ深呼吸をしてから、思い切って窓を「ガラリ」と開け放った。


 俺が開いた窓を乗り越えようと、片足を窓枠にかけたところで、早速「物陰に隠れていた奴ら」が姿を現した。そこから先へは行かさないというつもりだろう。数名の奴らが窓に向かって走り寄って来たのを確認し、俺はそいつらから逃げるように反対側へ体を向けた。これで走り寄って来る奴らには、俺の背中しか見えていない。俺は背中に聞こえる足音を聞きながら、窓から飛び降り。奴らを背中の近くまでめいっぱい引き付けたと感じた瞬間に振り向いて、持っていた劇薬を「ざばあっ!!」とぶちまけた。



「うわあああっっ!!」

「あ、熱い! なんだこれは?!」


 俺を捕らえようと近寄って来たのは3人だったが、その3人全員の顔や手に、上手い具合に劇薬が振りかかっていた。これならもし銃を持っていたとしても、撃つことはおろか手に持つことも出来まい。


「どうした、大丈夫か?!」

「逃げた奴が何かしらの抵抗をしたようです、3人とも倒れています!」


 俺1人を捕らえるには3人で十分と判断したのだろう、その3人に俺を任せて入口付近を見張っていた奴らが何事かと慌てて、誰かに連絡をしながらこちらに向かって来るのがわかった。恐らく見張り役の奴らとは離れたところで、全体を見ながら指示をしてる奴がいるんだろうな。その指示役の奴も、「別動隊」が裏口に積まれた車の中を這いずって脱出してくるとは、夢にも思わないはずだ。


 劇薬を被った3人は地面に這いつくばって、「いてえよ、ちくしょう!」「ああ、顔が焼ける!」などと悲鳴をあげていた。後から駆け付けて来た奴らは5~6人だろうか、それだけの人数を撃退するだけの薬は、あいにく持ち合わせがない。となれば、逃げる方向を変えるだけだ。俺はくるりと方向転換し、さっき飛び降りたばかりの窓の内側へと、自分の身を投じた。



「奴はまた、建物の中に入りました! わ、わかりました。そのまま追いかけます!」


 窓の外から、無線機か何かで連絡をしている声が丸聞こえだ。逃げようとしていた奴がまた建物に入ったが、外から見張るのか自分たちも中に突入して追いかけるのか、どうすればいいか指示役に確認したんだろう。一度俺に姿を見せた以上は、追い詰めなければ意味がないと指示役も考えたに違いない。しかしそれは、俺の予想通りの展開だった。


 後から駆け寄って来た5、6人のうち、4人ほどが窓から入ってこようとしているのがわかった。残りは劇薬を被ってもがいてる奴を助けてるんだろう。4人同時に窓は通り抜けられないと悟り、2人ずつが窓枠に手をかけて入って来るようだ。俺は窓から少し離れたところに身を潜め、奴らが窓をくぐり抜けるのを待ち構えていた。


 最初の2人が窓から降りて着地し、周囲を伺っている。「修理スペース」は電気を消して薄暗がりの状態になっているので、外から入って来て目が慣れるのに多少時間がかかるだろうし、俺がまた何かの「武器」を使うことも警戒しているはずだ。次の2人もすぐに窓を通り抜け、修理スペースに着地した。4人はそれぞれにそれぞれの周囲を警戒しながら、前に進もうとしている。そこで俺は持っていたマッチに火を点け、自分の少し前に「ひょいっ」と放り投げた。



 ……ぼううんっっ!!


 俺が床に撒いていた「着火性のある劇薬」に火が燃え移り、窓から入って来た奴らの足元は、たちまち炎に包まれた。


「わあああああっ?!」

「やばい、逃げろ! 退避だ!!」


 4人の中で一番前にいた奴が、一番炎の被害を被っていた。足元だけでなく、火が体の前面にまで燃え移りそうになり、すぐ後ろにいた奴が慌てて前の奴の服を引っ張ったが、そいつの足元もすでに燃え上がり、じだんだを踏むようにして火を消そうと必死になっていた。


 4人の後に続いて来る奴がいないところを見ると、どうやらここまで見て来た「総勢十名ほど」が奴らの総人数らしい。であれば、俺はオトリの役目を十分に果たせたということになる。「熱い、熱い!」と泣き叫ぶようにして、火のついた下半身を両手でバシバシとで叩いている「一番前にいた奴」を引きずりながら、奴らは窓から転がり落ちるようにして外へと出て行った。



 まだ「動ける奴」は何人か残っているだろうが、まずは劇薬を被った奴と火を点けられた奴を救助することに専念するはずだ。「正面入り口」への警戒は、限りなく薄くなっていると見て間違いない。それでも俺は慎重に正面のドアを少しだけ開け、橋本の車の方をチラリと覗くと、カオリと橋本らしき人影が、身を屈めながら車に走り寄るのが見えた。……よし! 俺も思い切ってドアを開け、外へと飛び出し車に向かって走り出した。


 車に近づくと、運転席に橋本が座っているのがわかった。俺が後部座席へ飛び込んだ瞬間、「行きますよ!」と橋本が叫び、猛スピードで車を発進させた。あっという間に車は修理工場跡を離れ、後をつけてくるような車も見当たらなかった。脱出作戦は「成功した」というわけだ。……が、走り始めてからすぐに、俺は「はっ」と気付いた。



「……日野さんは? 日野さんはどうした?!」


 後部座席には俺しかおらず、運転席に橋本、助手席にカオリ。日野の姿が、どこにも見当たらない……?!


 そこで橋本が、運転席で正面を向いたまま、ポツリと呟いた。

「日野さんは、研究室に残りました。彼の意思で」


 ……なんだって?!


「どういうことだ、なぜ残ったんだ?!」


 俺の激しい口調に対し、橋本はあえて淡々と答えているようだった。


「日野さんは腰を痛めていて、潰れた廃車の中を潜り抜けて行くような体勢は続けられないと、自分でわかっていたんです。それで、自分はここに残ると。私にカインのデータを託し、君らだけで逃げ延びてくれと……」


 橋本の隣で、カオリが寂しそうにコクリと頷いた。なんてこった。それなら別の逃げ道を考えたのに……いや、あの状況ではそれも無理な話か……。


 その時、リアガラスの向こうから、激しい爆発音が響いて来た。振り向くと、すでにはるか後方に過ぎ去った修理工場跡に、火柱が立ち登っているのが見えた。研究室に残って、自分が捕まる前に、発火性のある劇薬にまとめて火を点けたってことか……。これで奴らを全滅させられるわけではないだろうが、追手が鈍くなるのは間違いないだろう。



 橋本は無言のまま車を走らせ、俺もカオリもそれ以降、口を開くことはなかった。とりあえずの危機は免れたが、俺たちの行く先に立ち込める暗雲が晴れたとは、とても言えない。3人ともそれを、痛いほどわかっていたからだった。


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