第98話 『行ってきます。』

 全員の目が覚めた頃には、オーストラリアのダーウィンまで残り二時間を切っていた。


 オムツの交換にはかなり抵抗があったオルカだったが、柳がフザケてくれたのでどうにか機内の中でも交換できた。

処理する袋も少し特殊な袋なようで、使用済みのオムツを入れても臭いが外に漏れずホッとしたが、正直こんな経験はこれっきりにしたいものだと思った。


 今は朝食の真っ最中だ。

凜が用意してくれたのは、手作りと思われるパンでとても美味しかった。

トマトやベーコンやオニオン、レタス等がふんだんに使われたサンドイッチだ。

機内には保冷庫も保温庫もあるので傷みの心配もなく、温かいコーヒーやスープまで飲めて、正直かなりの快適度だ。



「このトマトスープ…美味しいです。」


「…ほんとじゃん。

てかパンも美味じゃね?

なんかこう…ビネガー?とか、カラシとか利いてて。

…なんかベーコンも香りがやたらあるし。

…まさか自家製かこれ。」



 凜は朝食に大変満足な二人にクスクス笑うと、『だそうですよ藤堂?』とコックピットに顔を向けた。

途端に柳とオルカは停止し、『エ"ッ!?』と声を張った。



「まさか、藤堂さんが作って下さったんですか?」


「ええ実はそうなんです~!」


「…でたよ。超高スペックジジイじゃん。」


「柳"サ"ン"ッ!?」


「あーっははははははっ!?

よ!、良かったですね藤堂ワハハハハ!!!」


「うーん。出来れば無敵ジジイにして頂きたい!」


「藤堂さん怒っていいんですよ!?

ねえ柳さん急にどうしちゃったんですか!?」


「…べっつに(笑)?」



 柳は心を開くと急にズカズカと辛口となる。

凜は『あ。昨日何か話したな?』とピンときたが、オルカはひたすら焦りワタワタし通した。





「ふあ~。…お早うオル…… …」



 リビングに入った門松は違和感を抱いた。

最近ではいつだって自分より早起きして朝食を作っていたオルカの姿が無いからだ。


『まさか』と目を大きくしオルカの部屋を開けると、テーブルに手紙が置いてあるだけで、オルカの姿は無かった。





「…!」


「見えた!」



 オルカ達は遂にミストを視認した。

藤堂の顔は緊張感を帯び、ヘリの中もヒリヒリとした緊張感に包まれた。


 凜は再度オルカと柳にパラシュートの開き方を教えた。

このパラシュートはヘリが機動を失った時に使用する為の緊急用パラシュートだ。

本来ならば一度も経験していない者に着けさせる物ではないのだが、もし凜と藤堂に何かあった場合は自分で外に飛び出すしかないので装着させていた。


 オルカは大きく唾を飲みミストを見つめた。

ミストは海上から天高くまで、まるで壁のように聳えていた。明らかに雲ではない。

『成分が水』と分かってはいても、この白い壁に突っ込むのは勇気が必要だ。



「…あそこに、あの中にオーストラリアが。」


「おう。……まっ見えねえけどな。」



 柳も厳しい顔でミストを見つめた。

このヘリのスピードならば、もう直にミストに到達するだろう。


中がどうなっているのかさえ見えない。

…雷雲なのかさえ。



「…覚悟はいいですか。」



 凜は全員と目を合わせた。

そこには穏やかで優しい彼の面影は無かった。



「最悪はミストに到達した途端にヘリの機動が奪われます。

一週間程前、通信断絶が起きたという報告も入りました。

…もうここはかつてのオーストラリアではない。

空の便も海も…全てが停止した世界。

……人の手から遂に離れた世界。」


「はい。」


「ヘリが駄目になったと判断した瞬間に、僕がオルカ君を。藤堂が柳君をサポートし外に脱出します。

ですがもしヘリだけでなく僕らに異常が起きたなら迷わず外へ飛びなさい。

そしてすぐにパラシュートを開き、陸を目指すんです。

先程何度も見直したパラシュートの演習Vをよーく思い出して。…大丈夫。君達なら出来る。」



 凜は鋭い瞳でミストを見据えた。

そしてあと一分も経たずにミストに入るというところで、スライドドアを開けた。



「つ…!」


「…大丈夫かオルカ。」



 途端に強烈な風が機内に流れ込み、オルカは手摺に掴まったまま動けなくなってしまった。

後ろに柳が居てくれなければ、恐怖でどうにかなってしまうのではと思った。





…カサ。



 門松は手紙を持つとじっと停止し、その場に座った。

無表情に手紙を開けると、オルカの綺麗だが癖のある文字が。



「……」



 静かに手紙を読むと、門松は朝日すら上がっていない暗い空を見つめた。



「…そうか。」



 門松はゆっくりと口角を上げ、呟いた。





『行ってこい。オルカ。』





「突入します!!」


「つ!!」 「…っ、」 「……」



ブワッ!! …と視界が奪われた。

直後には信じられない湿度を体全体で感じた。


オルカはつい目を瞑ってしまったが、凜はどんどん濡れていく顔を拭いながら、慎重に辺りを観察していた。



(…何も見えない。)


「…藤堂、聞こえますか?」


「今のところは特に異常はありま  …!?」


「! どうしました!?」



 藤堂は目を大きく開け、現在地を見失ったメーターを見つめた。

GPSではなくレーダーに切り替えても、高度も現在地も分からなかった。



「……ロスト致しましたなあ。」


「呑気💢!!」


「しかし柳殿、エンジンには何の異常も御座いません。」


「…では、失ったのは自分の位置だけ…?」


「ええ凜。…操縦にも問題はありませんな。

…ふむ。想定していた中でも一番楽な展開で何より♪」


(か……る。) (軽い💧) (軽いですね相変わらず。)


「…すごい湿度ですね。

ミストが水分…の、立証ですね。」


「……お前、変に俺らに似ちまったな。」





『門松さん、今まで本当にありがとう御座いました。

あの日からずっとずっと、門松さんの優しさに本当に支えられてきました。

それは何度お礼を言っても、どんな高価なプレゼントでも現しきれない程の感謝です。』





「……お、おっ…とお…?」


「なんですか藤堂!?」


「意味深な声キツイわー。

てかまだ出ないんすかミストォ~💢?

もう今すぐ着替えたいんだけど~💢?」


「…高度計が戻りましたな。

あと現在地も……正常化。」


「おお!!!」


「…ったく驚かせんじゃないよ。」


「でーすーが、…レーダーに、……うーん。」


「なんなんですか💢!?」

「なんなんすかもおっ💢!?」





『温泉で話した僕の心に偽りはありません。

僕はここに居たいんです。

…けれど、帰りたいんです。

どちらに居ても、どちらかが恋しい。

二つの世界が決して交わらないのだとしたなら、僕の夢はもう叶わない。

もし本当に王族に、僕に時を操る力があるのだとしたら、僕は二つの世界を行来して…

皆に門松さんと柳さんを紹介したい。

そして門松さんと柳さんを、あっちの皆に紹介したい。

……この天秤は、余りにも残酷でした。

どちらを取っても後悔で。

…どっち付かずな僕そのもののようで。』





「……何かに、…ロックオンされましたな。」


「… ハアッ!?」


「へ!?、…どゆ意味すか!?

まさかミサイルとか…なんかヤバい攻撃の前のあのマークが付けられちゃった感じですか!?」


(柳さん壊れてきた💧)


「……はいそうですな。」


「終わっっっ………ッた!!!」


「いやしかし、…オーストラリアで…そんな。

軍は現在避難民の移動や、各空港に集結している筈。…いや、それさえ終えて避難した可能性さえある。

そもそももう空も海も完全に停止したこのオーストラリアで無許可で海域侵入したこのヘリをわざわざロックする意味は無い。

…しかも何の警告も無い。

ロックオンするならば先ず最初に警告と迂回を促す筈なのですよ。

…というかそれを現状やる意味も無ければ……

……イミフですな。」


「なんでそんな冷静でいられるんすか💢!!!」


「…だって私ですし。」


「知るかギャル爺💢!!!」





『それでも僕は…、行きます。

本当は納得して欲しかったけれど、あれでよかったのかなと今は思っています。

あの門松さんの怒った声や言葉は、僕の宝物です。

…貴方からの愛そのものだと思っています。

だからどうか、帰ってきた柳さんを叱らないで下さい。

柳さんは本当に優しい人だから…

僕があっちの皆への罪悪感に苦しんでいたのを、僕よりもきっと見ていてくれたんです。

だって、じゃなきゃ柳さんが門松さんを裏切ってまで傍を離れる筈がないじゃないですか。』





「……ミストを出ますぞ。」


「!」 「!!」 「!」


「視界が開けた途端に急旋回もありえます。

どうか振り落とされぬように。」





『僕にとって、門松さんと柳さんは…

お父さんとお兄ちゃんでした。』





「……ミスト脱出まで5秒!!」


「……いよいよ…ですね。」


「…おーう。」



 オルカと柳は目を合わせ、拳を合わせた。

命綱を着けていても、手摺を握る手にはギュッと力が籠った。





『だから言わせて下さい。…いつも通りに。

…行ってきますね?、門松さん。』





ブワッ…!!!





「つ…!!」 「っ、」 「…!!」



 ミストを抜けた途端、凜と藤堂は目を大きく開けた。

オルカと柳は数秒遅れでギュッと閉じていた目を開き、『抜け…た?』…と何度も大きく息を吸った。


ヘリは順調に減速していく。

先程警戒したロックオンだの急旋回だのも起きはしない。


遥か下にあるのは、大きな大きな美しい大陸だ。

こんな時だというのに、その光景は余りにも眩しく、絶景だった。



「ここが…オーストラリア!!」


「ウッヒョオオオ!!、ついたあああ!!!」



 柳とオルカは抱き合い喜んだ。

正直死ぬ程怖かったが、今となっては最高の思い出になる気さえした。



「やったなオルカ!!遂にやったぜ!?

お前カンガルーとか見てみたいって言ってたよな!?」


「はい!、カンガルーの化石は特にお気に入りでロバートさんと二時間一緒に眺めた思い出深い動物なんです!!

あとテイオウムカシヤンマが見たいです!!

ロバートさんのくれた化石のやつです!!」


「…俺デカイ虫苦手なのに💧

どうせならしっっかり見とけよ!?

こんな…現状で!、今のオーストラリアに入国したのなんて俺たちくらいなんだからよっ!!!」


「はいっ!!!」



 恐怖から解放された安堵と、ある種の夢が叶ったような達成感に二人は騒いだ。


本当に、堪らないものがあった。

不可能と諦めたのに、今、オーストラリアに居るのだから。



「……」



 だが凜は腕時計を確認し、眉を寄せヒッチから空を確認した。

そしてまだ眉を寄せながら藤堂に問いかけた。



「…藤堂、現在の気温と高度は?」


「高度1000メートル。…気温は、…20度。」


「……」


「……」



 何故か二人は黙ってしまった。


 だがフライトは順調に終わった。

目指していたダーウィンの飛行機専用給油場に無事に辿り着けたのだ。


 柳は『よっと!』とわざと声を出しながら降り、オルカも真似をして降りた。



「……~~~っ!!」


「……~~~♪!!」


「「イッエーーーーイ!!!」」



パンッ!



 そして降りるなりジャンプしながらハイタッチした。



「くあ~!、…しっかし疲れたなあ💧」


「…足元がフワフワします。」


「ああはいはい。揺れる機内に慣れると逆に酔うんだよな。

…海酔いと陸酔いってやつだったか??」



 凜は降りずにコックピットに入った。

先程のロックオンだの、確認したい事が山程あったからだ。



…ストン!



「どういう事なんだこれは。」


「…妙ですな。」


「気温はどうでした?」


「1000メートルでも現在も変化無し。

20度丁度を維持しております。」


「……オカシイ。高度が上がれば気温は下がる筈なのに。」


「…おかしいですな。高度1000メートルもあれば気温は5、6度差があるのが通常なのですが。

…少々お待ちを。 …… ……

…うーん。気圧にすら変化無しです。」


「…一体どうなってる。

…先程のロックオンは解除されたのですか?」


「解除されたというか、……今も、ですね。」


「…今も。」


「うーん。……少なくともこれは軍が仕掛けてきたものでは御座いませんね。

しかし、『では誰がこんなことを?』と訊かれると、本当に検討が付かないと申しますか。」


「……」


「まあとにかく、ミサイルなどが発射されればすぐに分かります。

…正直、発射される可能性は低いですが。」


「……分かりました。」



 凜は眉を寄せたままヘッドホンを外し、外に出た。



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