第89話 言葉は時に人を殺す
「……受けたんか、示談。」
「そうだよ。……」
「…ハア。」
「ツ…!!」
ガタン!!
夜明のため息に柳は勢いよく立ち上がり、『笑えばいいだろ!!』…と怒鳴った。
夜明は真顔で柳と目を合わせ続け、柳はまた無性に苛ついて大声で怒鳴った。
「アンタには分かんねえよッ!!
俺にとっては…その夢だけは…譲れないっ、…何を捨てても叶えなきゃいけない夢だったんだ!!」
「笑わねえよ。」
「じゃあさっきのため息なんだよ!?
アンタこう言いたいんだろ!?『なにそんなクソに屈服してんだ』ってよ!?」
柳は頭に爪を立てながら激しく頭を振り、『好きに罵倒しろよ!!』…と怒鳴り、息を荒らした。
すると夜明はキッと目を吊り上げ、『ハア?』と彼ではないかのようにハッキリと怒りを現した。
独特な熱を放てどいつも笑顔だった彼が、眉を寄せ目を吊り上げ上目に睨んでくると、彼が何故いつも笑顔なのかを自然と理解した。
彼はかなりの強面で、箔があるのだ。
「なんで俺がお前を笑わなきゃなんねえんだよ。」
「知るかよそんなん」
「俺がため息をついたのはな、『それが完全に公安案件だったから』だ。」
「…!」
夜明は鋭く目を吊り上げたまま、『お前ら知らねえだろ』とグイッとビールを飲んだ。
柳は眉を寄せ、息を荒らしながら何度も瞬きをした。
「警察学校卒業後、派出所に勤務する事になったお前らはこう教えられる。
『公安には気を付けろ』
『奴等は警察であって警察ではない』
『汚れきったキャリアコースだ』。」
「!」
「…図星だろ。
だがそれは、真っ赤な嘘だ。」
「………」
「むしろ公安とはその逆だ。
…公安とはかつて、悪政政府に対抗する唯一の手段として、凜の曾祖父が創立した組織なんだ。」
「…悪政政府への…。」
「そうだ。…警察のトップ組織。
特別な試験を何個もクリアした者のみが務める事の出来る特殊機関、『地方公共安全対策部』。
…俺ら公安ってのはな、『相手が誰であれ黒ならば黒として裁く事が出来る』、唯一の組織なんだ。」
「…黒を、黒として。」
「そうだよ。…お前だって経験あんだろ。
明らかな殺人を、『殺人とするな』と命じられた事。」
「っ!」
「何かならあったのに、何もなかった事にせねばならなかった事。」
「……」
「政治家の子供だの、女優の親戚だの。
宗教団体のお偉いさんだの、何だの。
…それらは分厚い権力に守られた、無法地帯だ。
それらに容赦なく逮捕状を突き付ける事が出来るのが、俺ら公安なんだよ。」
夜明は言った。
だからこそ公安には敵が多いと。
『正義が勝っては困る奴等が確かに居るんだ』と。
…警察組織もその例外ではない。
公安が介入すれば捜査拒否権は無く、全てが白日の下に曝される。
そうなってしまっては、汚職だの揉み消しだの捏造が完全に明るみになる。
…それが困る人間など、そこら中に居る。
「だからお前らは最初に『公安は悪』と教えられるんだ。
…汚職まみれで頭のおかしい組織と思い込ませ、助けを求められなくする為に。」
「………」
「俺らはいつだってそんな根回しをどうにかしようとしてきた。
…だが、公安の真実を伝えるのは簡単じゃない。
真実を語るよりも、揉み消してくる奴等の方が圧倒的に多いからだ。」
「………」
「残念な事に、本物の正義だからこそ世界を敵に回したんだ。
…俺がため息をついたのはな、……そんな最低な事をした奴等を!?、挙げる事すら、その話を耳にすら出来なかった俺自身に失望したからだよッ!?」
「っ!」
「なんでお前を笑わなきゃなんねえんだよ!!
…お前を笑う奴が居たならな!?俺がボッコボコにしてやるってんだよッ!!!」
「!!」
…風が、吹き抜けたみたいな、…衝撃だった。
目の前に居る男の言葉は、…余りにも。
…カタン。
「…… …っ…」
余りにも… 優しすぎた。
苛つきは、夜明の言葉に風に飛ばされたように消えた。
途端に足に力が入らなくなり、柳はうつ向き座り、テーブルに両肘を突き掌に顔を突っ伏した。
「……三人は違う派出所に飛ばされて。」
「…返ってきたんですか?」
「返ってきた。……けど、お袋に『あったよ?』って見せたら、………」
「………」
「違う…って。
『全然違うわコレじゃない』『こんなの知らない』って。」
「…他人が触れた所為ですね。」
「…え?」
「邪な人間は邪気をその身に纏っています。
そんな彼等が触れてしまったのです。
…お母様は敏感にその邪気を感じ、本当に別物に見えてしまったんだと思います。」
柳が唖然としていると、『よくあることだ』と凜は話した。
「純粋でエゴの少ない子供なんかは特に敏感です。
大人になりアレコレと無駄なものを知っていくとね?そういったオーラは段々感じなくなっていきます。だから目で見たままの姿を信じるようになる。
けれどお母様はきっと、アルツハイマーだからこそ、目に頼れず、物が纏う気というものを察知してしまったのでしょう。」
「……そっ…か。」
「ええ。…ですが、お母様は正しい。
そんな人間に触れられて。
しかもそれなりに叱られて『フザケんなよ』と更に悪い気を纏った手で買い戻し、傷付き疲れ果てた君の手に渡った…そんな物。
…手放した方が身のためです。
何故なら君は、いざ結婚してそのキーケースをプレゼントされても、…嬉しくないから。」
「!」
「お母様は正しい。
…お金に替えて、他の事に使う方が有意義です。」
凜の言葉には説得力があった。
彼が人知を超えた力を持っているのもあるが、何よりも深く納得させられたのだ。
『確かにプレゼントされても、使う気にはなれなかった』と。
「……はは。…ま、そっすよね。」
「…その後、お母様の容態は?」
「……試験を受けた…日に。」
「………」
「帰ったら、……居なかった。」
「…徘徊してしまいましたか。」
「ええ。…多分、俺がいつもと違う時間帯に行動したから。
…だから、俺を探しに出たんじゃないかって、先生は言ってました。」
「……うん。」
「奴等との示談だの、試験で、…ホントに俺、疲れてて。
…更にはお袋が徘徊するようになって。
……ヘルパーをすぐに…とも考えたけど、先生は施設を勧めてきて。
お袋の病状だと、24時間ヘルパーが必要だから。
金銭的にも安全面でも、施設の方がいいって。」
「…うん。」
「……俺は、…あんなに自分を犠牲にして…
俺だけの為に生きてしまった…母さんを!
何の恩返しも出来ないまま!…試験に受かったら本署勤めになるし…っ、…も、現実的に面倒みるのが不可能で…!」
施設に入れるしか、なかった。
俺が努力すればする程、お袋は危険に曝されていくから。
ヘルパーを24時間体制で、…とも検討したけど、本当に金銭的に無理だった。
「でも!、本当は面倒見れたんだ!
…俺が仕事辞めて、…警察官辞めて福祉に頼って細々生活してけば!、お袋の面倒も見れたんだ!」
だが俺は、俺の夢を優先したんだ。
『門松さんにお礼が言いたい』…という、俺の勝手な独り善がりの夢を。
『お袋だって嬉しそうにしてたじゃないか』
『だからこれだけはやりきりたい』…なんて、都合よく自分を正当化して。
「…俺はお袋を、……捨てたんだ。」
「柳!!」
「あの人は俺に全てを捧げてくれたのに。
…俺は、お袋が天国へ行くまでの僅かな時間さえ、自分の身を捧げなかったんだ。」
「違…それは違う柳!」
「違くねえよ。」
「…っ、」
…あれ? …俺、…泣いてんのか…?
「俺なんか生まれなきゃ良かったんだ。」
「…!」 「!」
「俺なんかが生まれなければ、茜は二人に見守られて事故らなかった。」
「…柳。」 「………」
「俺が生まれなかったら、親父があの卒業式に出る事もなかった。」
「…っ…」 「………」
「俺なんかが生まれてきたから。
…だからみんな、…壊れてしまったんだ。」
グッと眉を寄せ悲壮な顔をする夜明に対し、凜はキッと目を吊り上げ、警戒していた。
柳が今日纏っていた黒い影。
それが柳を更に覆い始めたからだ。
(ここからがやっと、ネックか。)
「…俺、電話したんだ。
お袋が施設に入る…直前に。
…ハッと気付いて。…お袋の携帯調べて。
…彼女の再婚相手に、電話したんだ。」
施設への入居費は、家を売ってまかなった。
あいつらに好きに入られた家なんてもう住みたくなかったし、もう色々とありすぎて、…住めなかったから。
家の売却手続き、お袋の施設の入居手続き。
俺の新居探し、引っ越しの準備、家の撤去掃除。
…山程ありすぎる作業は、終わりが見えない気がした。
お袋程ではないが、もう何がなんだか分からなかった。
昼も、夜も。…希望も絶望も感じない。
ただ、やらなきゃいけない事しかない。
…それ以外の時間は全く無いし、もう分からない。
そんな頃、試験の合否結果が送られてきた。
結果は合格。200満点中198点で、本署への移動は月末だった。
この結果のどれがヤラセなのかなんて、もうどうでもよかった。
あんなに頑張って勉強したのに、合格しても何の感慨も無かった。
ただ紙を見て『へえ。』…そんだけ。
「ねえ茜、掃除してるの?」
「そう。…母さんも手伝ってくれる?」
「いいわよっ?、何すればいい?」
それでも彼女の声は、ホッとした。
手伝うと称して箱の中身を元の場所に戻されようが。
大事な書類をゴミ箱に捨てられようが…
俺はなんでか、お袋のする行動全てが愛しかった。
「……あ、そうだ。」
そして再婚相手の存在を思い出し、電話をしてみようと思い立った。
俺のことで揉めに揉めて離婚してはしまったが、一度は結婚した女性なのだ。
やはりとても愛していたんだろうと。
…彼女の記憶からはどんどんと過去が消えていっている。
だから彼女に会いたいのなら、早い方がいい。
でなければきっともう、彼が愛した彼女には会えなくなってしまうから。
プルルル……
かなり緊張したが、俺は頑張って電話した。
俺が奪ってしまった女性としての母さんの為に出来る事なんて、これくらいしかないと思ったから。
コールは永遠に感じた。
…だがきっと、3コール程度だっただろう。
『…はい、もしもし?』
「っ! …あの、初めまして。」
『! ……もしかして、息子さん?』
「ええそうです。…実は、母さんが……」
アルツハイマーの事を説明される彼は、ただ静かに聞いていた。
本当に電話が繋がっているのかを疑う程、静かに。
俺はお袋の病状を伝え、施設に入居することになった事を話し、『会うなら今です』と彼に告げた。
「どんどん記憶がなくなっていってしまいますから、もし彼女にお会いになるなら、早い方がいいかと思って、…お電話させて頂いたんです。」
『…………』
「…勿論、無理にとは申しません。
もしかしたら、お会いしても母は認知出来ない可能性もありますし、…無理には」
『…よくも、…まあ。』
「… …え?」
『あいつの人生食い潰しといて!?
よくもんな事が言えたなテメエはよ!?』
「…!」
『そもそもお前が自立出来ねえでいつまでもグダグダしてっからあいつはお前の面倒見なきゃなんなかったんだろが!?
お前が散々迷惑かけて心労かけたから!あいつは無理してアルツハイマーになんてなっちまったんだろ!?』
『全部全部、お前の所為だろ!!!』
『お前の所為でこっちはバツイチになって!?
その上アルツハイマーだあ!?、フザケんな!!』
「…………」
『あいつを……返せよッ!!
あいつの人生を返せ!!、この…親不孝者!!』
…この後の記憶は、……曖昧だ。
思い出すだけで…吐き気が、…目眩がする。
……その通りすぎて。
全部全部、俺の所為すぎて。
涙…とか、…震えと…か。
勝手に何かが腹の奥底から…沸き上がって…きて
「柳!」
「…!」
小刻みに呼吸しながら柳はハッとした。
名を呼ばれたような気がしたが、何故自分がこんな店に居るのか分からなかった。
凜は窺うように柳と目を合わせ、『違うよ?』と口にしてみたが、明らかに柳には聞こえていなかった。
言葉は時に人を励まし、自分の心を相手に伝える大切なツールだ。
喜びを分かち合う事にも言葉はとても大きな力を持つ。
だからこそ、時に言葉は人を殺す。
心無い言葉は柳の心を破壊した。
「…全部終わったのは。お袋を施設に…送ったのは、…晴れの…日で。」
「……うん。」
「スタッフ…に …」
『息子さんはここで』…と、門の中には入らせてもらえなかった。
それはお袋に、『息子と離れてここで暮らしていくんだよ?』と教える為と、俺のためでもあったそうだ。
スタッフに介助され、ニコニコ話しながら施設の中に歩いていくお袋の…その小さな背に……
俺は何の言葉もかけられなくて。
ただ、『ごめん』て。…それしか心になくて。
涙だけが勝手にボロボロ溢れて。
『生まれてきてごめんね』って。
「…楓!」
「!!」
でも彼女は、笑った。
数ヵ月ぶりに俺を俺の名で呼んで、しっかりと以前のように目を合わせてきた。
「ダメなお母さんで…ごめんね?」
「つ…!!」
「楓のお母さんやれて、幸せだった。」
「~~っ、…母…母さん!!」
「…… 今日はいいお天気ねぇ~?」
「か…母さん!!、…やっぱ、…行くな!!
俺仕事辞めるから!!、一緒に暮らそう!?」
「とっても綺麗な建物ねっ?
ご飯も作ってもらえるなんて幸せだわっ?」
「ごめん…ごめん!!、…嘘だから!!
入居なんて…嘘だから!!!
俺ちゃんと…最後まで一緒に居るから!!」
『母さん…!!』
彼女は決して振り向かなかった。
にこやかに可愛らしく笑いながら、施設の中に自ら歩んでいった。
「…清らかな人だった。
…自分の母親にこんな風に思うのは変かもだけど。
誰よりも、…清らかな……」
「~っ! ~~~っ!!」 ←大号泣の夜明
「…ええ。…素晴らしいお母様です。」
俺は新居の、今も住み続けているアパートに帰り、寝た。
何もする気になれなかった。
荷解きも、風呂に入る気力もなかった。
気が付けば勝手に涙が零れてた。
眠りの間際で『ごめん』と呟き、目が覚めては勝手に『ごめん』と溢していた。
「……元気で。」
「…ありがと。」
「………」
たったこれだけで、派出所とはお別れになった。
唯一マトモだった彼とのお別れの言葉は、これだけだった。
カタン… ガチャン!!
明日から本署勤めだ。
…荷解きもどうにか終わらせた。
これから毎月、施設への入金を欠かすことなく行い、しっかりと一人暮らしをしていかなければならない。
…それなのに、俺はここに越してから、また、出来なくなってしまった。
「…………」
ザアアアアア…!
買ってきた食材を広げ、まな板を出し、包丁を持ち……
ここまでは出来るのに、この先がどうしても出来ないんだ。
お袋を施設に入れた、その朝まではちゃんと料理が出来たのに。
『野菜炒め』なんて、切って炒めて味を付けるだけなのに。
…米を研ぐことさえ出来なかった。
ザアア…キュ。
「…………」
蛇口を閉めると、何の音もしなくなった。
…途端に俺は、痛感した。
「…っ、… …ハ… …ハッ…!」
『本当に一人ぼっちだ』と。
…そして痛感した途端に、…あの人の言葉が脳裏に甦った。
『全部全部、お前の所為だろが!!!』
ガタ…!
震えが止まらなかった。
…親父が死んでしまったあの頃さえ抱いた事の無かった感情が、一気にタガを外した様に溢れだした。
「死にた…い…!!!」
駄目だ…と押さえ込んでも、死にたいという願望は膨れ上がり、震えになった。
それは死が恐ろしい故の震えではなく、『駄目だ』と必死に制す震えだった。
力を入れすぎて震えるのと、同じだ。
「駄目…だ!、まだ、…死んじゃ…っ、
まだ…まだ!!、お礼…言えて… 」
『じゃあ、お礼を言えたら…?』
「っ、………」
『お礼さえ言えれば、…もう、いいだろ。』
「………」
柳は腕をダランと落とし、疲れきった瞳で宙を見つめた。
「明日…お礼したら、………」
『死のう。』 …そう決めた。
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