第88話 代価の行方

「行ってきます。」


「はーい!、頑張ってね楓!」


「んー。」



『門松さんと同じ刑事になって、そして直でお礼が言いたい』。


この強い誓約は俺を強く強く前に歩ませた。


試験受けて、警察学校通って。

やっと所轄で勤務出来るようになって。

夜勤昼勤の交代業務はしんどいし、業務内容だって楽ではなかったけど、どうしても横浜本署へ…上へ進みたいという情熱が消える事は無かった。


毎日フラフラして、気ままにバイトしては慣れた頃に辞めて。…を繰り返し。

更には喧嘩バカになって、入院沙汰にまでなってしまった俺がこんな風に一つの事に根気強く向き合って毎日遅くまで勉強するようになって。

母親は本当に嬉しそうにしてた。

試験受かってお祝いして。学校の入学をお祝いして。卒業を…所轄配属をお祝いして……と、事ある毎にお祝いしてくれた。


俺は母親が嬉しそうに笑う度に、やっとちゃんと恩返し出来てる気がして…

やっぱり、少し、自分が誇らしかった。



「…ねえ楓?、リモコン知らない?」


「またどっか置いちゃったの?」


「またって何よ。いつもここに置いてるのに今日は無いのよ。」



…それはなんてことない日常の、なんてことない会話に潜んでいた。

でも俺はそれを異常だと察知出来なかった。




「楓、ちょっと座りなさい。」


「…え、なに?」


「正直に答えて。…お母さんのお金、使った?」


「……は?」


「お母さんここにね、毎月しっかりとお金貯めてたの。

そりゃ…毎日忙しいだろうし、息抜きするお金も欲しいかもしれないけどさ?、足りないなら足りないって初めからちゃんと言ってくれれば」


「ま、待って。俺そんなん知らな…」


(…あれ?、…待て。

ついこないだテレビ買い替えるって、その棚からお金出してた、…よな。)


「楓、アンタ警察官でしょ?

こんなみっともない事もう二度としないで!」


「………」


「…そんだけ。ほらお勉強しなっ?」


「………」



…だが、それだけだった。

この頃は本当に、それだけだったんだ。


少し物忘れが多いくらいで。

それ以外は本当にいつも通りで。

でも彼女は元々少し抜けてるというか…、おっちょこちょいなところがあったから、『歳いくと言葉が出てこないのよね~!』なんてのもよく聞くし、そんなもんなんだと思ってた。


『お袋も年取ったんだな』って、そんだけ。

『でもまだ43才なんだけどな。俗に言うオバチャン化ってやつか?』…なんて笑ってもいた。


だが、それこそが落とし穴だったんだ。

ボケだの認知症だの…アルツハイマーだの。

そんなのはやっぱり老人の病気だ。…って。

…油断してたんだ。


『そんな話は聞いた事があったけど、まさか自分が同じ目に遭うなんて思いもしなかった。』

…なんて台詞、テレビでも現実でも、何度も聞いた事があったのに。

…人はどうして、それらが自分の身にふりかからないと思い込んでしまうのだろう。



「…あれ?、電気ついてる。」



昼勤が終わったその日、帰ったのは夜だった。

明日が非番だったし同僚と軽く飲んで帰ってきたんだ。

…この頃は仲間と飲むのが好きだったっけ。



ガチャン…


「お袋~?、まだ起きてんのー?」



日付変更ギリギリの時間。

母親はいつも10時には眠る。


それなのに家の電気が全てつけっぱなしで。

それなのに玄関開けて声をかけても何の返事もなく。

俺は『なんだ?』とつい今開けたドアを見つめた。



「…鍵はかかってたよな。

…お袋!?、何処にいんの!?」



ちゃんと警察官になれていたんだろう。

俺はかなり警戒しつつも急ぎ家の中をチェックした。

強盗…殺人……

この家の状況の理由を浮かべようと思えば幾通りでも浮かぶ気がした。



ガチャン!


「お袋!?」


「あら楓早いわねっ!」


「……へ?」



俺はその光景に愕然とした。


深夜だというのに、彼女はまるで今が朝かのように料理を作っていたのだ。

化粧して、エプロンを着けて、トントンとネギを切り沸かしたお湯に入れ……と。


俺は家の時計で、スマホで、テレビで現在時刻を確認した。

間違いなく、深夜0時直前だ。



「……いや、…何してんのこんな時間に💧?」


「なに言ってんのよ楓。寝惚けてるの?」


「…寝ぼ…け…?」


「ほら早く顔洗いな!

お味噌汁もうすぐ出来るから。」


「……いや、ちょ(笑)。…なんの冗談?」


「ほら遅刻するよ!?」


「………」



次の日母親を病院に連れていくと、中度の若年性アルツハイマーだと診断された。

母親は驚いていたが、家に帰る頃には病院に行った事を忘れていた。




「いい?お袋。ちゃんとコレ見てな?」


「分かってるわよ~?」


「…ん。じゃあ俺仕事行くからな?」


「行ってらっしゃい楓。」



ガチャン…



「…あら?、楓、出掛けるの?」


「仕事だよ母さん。

…ほら?、テーブルに色々書いてあるよ?

ちゃんと見るんだよ?」


「あらほんと!、ありがと楓。」



進行を遅くする薬を飲みだしたのに、彼女の症状は日に日に悪化していった。

だが彼女の人格に変化はなく、ものを忘れてしまったり覚えられなくなっただけで、彼女は彼女だった。

…少なくとも俺にはそう見えた。



(……大丈夫かなお袋。)



勤務中によくこうやってうーんと唸った。

俺と母親は二人暮らしなんだから、俺が仕事に出ている間お袋は一人なのだ。

こんなの心配しない方がおかしい。


ヘルパーを雇うかを真剣に検討し、『でもやっぱ不安だな』『見てない場で他人を家に上げるのはな』と悩む俺の話を、同じ派出所の先輩はよく聞いてくれた。



「昼夜が逆転しやすいみたいで、帰ると朝ご飯作ってることが多いんですよね。

…包丁とか、もう本当は扱ってほしくないんですけど、取り上げるのも…なんだか💧」


「うーん。…プラスチックの包丁に替えるとか。」


「プラスチック?」


「子供用でよくあるんだぞ?

切れ味は落ちるけど、……指切断とかよりマシなんじゃないか💧?」


「…探してみます💧」



同僚はいつだって相談に乗ってくれた。

一人を除き、この派出所は皆明るく社交的で、相談しやすかった。

一人は無口で無愛想だったが、『アルツハイマー認知症との向き合い方』という本を「ん。」と渡された時、本当に良い奴だと思った。


その一方で、心配は加速していった。

昼夜逆転だけならまだしも、玄関や窓の閉め忘れが多発し、挙げ句の果てには要らない物を自覚無く買い続けるといった症状まで現れたのだ。



「……あー💧」



よく家に帰ってこんな声を出した。

なんせ『買ったこと自体を忘れてしまう』のだ。

…だから彼女はもう既に家にある物を『無い』と認識し、家と店を何往復もする。

そして俺が帰ると、同じ物が山のようにその辺に転がっているのだ。

こうなるとお金の管理まで徹底せねばならないし、正直、彼女を一人きりにさせるのに限界を感じていた。



「夜ご飯なに食べたい?」


「さっき食べたよ~?」


「ああそうだったっけ!

…ねえ茜。そろそろ誕生日だね?」


「…俺『楓』だよ母さん?」



…何よりも、何故なんだろうか。

彼女は俺を妹の名で呼びだして。

…俺はそれが、何よりもしんどかった。


正直これまで、またお金使って。…とか。

心配だな…とか。

そんな気持ちはあれど、彼女に苛々したりは全く無かったのに……これは堪えた。



「ねえ茜、ネックレスが無いのよ。」


「んー?、じゃあ探したる。」


「ありがとう?」



ヘルパーを慎重に探している、そんな頃だった。

母親が貴金属を頻繁に失くすようになり、俺は違和感を抱いた。



(…代価が無い。)



お金を完全に俺が管理することにしたとはいえ、彼女の財布を空にする事はしなかった。

もし彼女が買い物に出てお金がなかったら?

彼女は通報されてしまうし、何よりも彼女の自尊心が傷付くと思ったからだ。


彼女は『出来なくなってしまった』のだ。

『初めから出来ないわけでも、しない訳でもない』

『どうしようもない理由で、出来ない』のだ。

だから彼女の魂は、本当は今もずっと傷付いている筈なんだ。

俺が『もう食べただろ?』『俺は楓だよ?』『また忘れたの?』…と言う度に、きっと深く傷付いている。


だから俺は彼女の言葉を否定するのを止めたし、なるべく彼女の自発性や自由を守りたかった。



カタン… パタン。


「…おかしい。」



彼女の財布をチェックして、お金が減っていたらそれは『物が増えている』と言える。

賞味期限の近い食べ物を買ってしまったりもあったから、俺はいつもこの『代価チェック』をしていた。

彼女がお金を減らす時は必ず物が増える。

『だから必ずお金の代価が家にある』のだ。


それなのに、『貴金属の代価』は家の何処にも無かった。

そもそも彼女はいつもネックレスを一つ着けるだけで、普段はそれ以上身に着けない。

だがやはり女性だし、それなりに良い物を持っていた。

それらが入ったジュエリーケースは、いつも彼女の部屋のタンスの上に置いてあり、彼女はそれを眺めるのが好きだった。



「…身に着けて、忘れた?

身に着けた物をわざわざ外して、忘れるか?」



腑に落ちなかった。


いつも次の瞬間には忘れてしまうのに、彼女は貴金属が無くなってしまった事は忘れず、それから毎日『残念だわ』と落ち込んだ。


…その理由なら分かる気がした。


彼女はそのジュエリーケースの中に、特に特別な物を二つ入れていたのだ。



『アンタが結婚したらお嫁さんにあげるの!』


『ハーア(笑)!?』


『アンタにあげる物も買ったのよっ?』


『気が早すぎんだろ!』



俺が二十歳になった時突然買ってきたアクセサリーは、余りにも突拍子な理由で我が家に来た。

本当にお値打ち物の、俺の嫁になる子へのネックレスと、旦那となった俺へのキーケースだ。


本当に、この時程彼女に度肝を抜かれた事は無い。

『貯金全部使っちゃった💓』…とお茶目に笑って見せようが、俺が比較的マジで怒ったのは納得頂けるだろう。


『今すぐ返してこい』と何度言っても、彼女は『ヤです~!』の一点張りで……終いには俺も諦めた。

そんな品だった。



「…ネックレスならまだしも。

キーケースなんてお袋一度も使った事ないのに。」



そしてどんどん家から代価が見付からなくなっていった。


俺は職場でも『おかしい』と訝しげに過ごす事が増えた。


だが、横浜本署配属への第一歩となる大きな試験はもう目前だ。

余り悩んでもいられないし、ヘルパー探しも後回しにせざるを得ない。


悩みつつも毎日代価チェックをしつつ、時が流れた。

…そんなある日の事だった。



「……柳、ちょっと。」


「ん?、なに?」


「し! ……こっち。」


「…?」



うちの派出所唯一の無口が俺を呼び出した。

それも実に静かに。…誰の目にも止まらぬように。


連れていかれたのはパトカーだった。

何かと思っていると、彼は俺とパトカーに乗り、勝手に発進した。

俺は予定外の巡回に待ったをかけたのだが、彼はパトカー内の全ての機器の電源を落とすと、『大丈夫』とポツリと言った。



「スケジュール変更しといたから。」


「…へ?、…いや、なんで?」


「落ち着いて聞いてくれ。」


「お、おう。」




 夜明にはもう先が読めていた。


 柳は微かに嘲笑を浮かべ、まざまざと過去を思い出しながら吐き捨てた。



「お袋が鍵をかけ忘れるのを…

頻繁に昼夜が逆転して昼に寝るのを知ってる奴ら。

…俺という…ッ情報源を持つ…奴等が!」


「……」 「……」


「巡回がてら『様子見』と称してッ…

お袋の貴金属を掠め取ってやがったんだッ!!」


「……」 「…っ、」


「それで味を占めたのか!、奴等はありとあらゆる金になりそうな物を盗んでた!!

…あいつは奴等がコソコソ話してるのを聞いて。

すぐに俺に教えてくれたんだ。」



 犯行を指示していたのはその派出所のトップ、巡長だった。犯行に荷担したのは同僚二人。

計三人による犯行だった。


こんなの普通に窃盗で、犯罪だ。

しかも柳は警察官なのだ。

しっかりとした証拠を集めるのに苦労しないし、彼等を逮捕するのは十分可能だった。


だが、柳は彼等を逮捕出来なかった。

証拠となりえる物を何個も揃えたのに、出来なかった。



「…圧か。」


「そうだよ。…試験直前でクソ忙しい中あくせくと証拠集めたのに…

俺は派出所を管轄する署の奴に呼び出されて。」


「…ふぅ。」


「示談交渉された。」





「ハア!?、示談!?」


「まあ落ち着きたまえ柳巡査。」


「いやっこれは紛れもなく悪質な犯罪ですよ!?」



意味が分からなかった。

『あいつらも反省してるから』と言われても、…許せる筈がないだろ。


だが、最初こそ俺を宥めようとしてきた刑事だったが、俺が余りにも正論で突っぱねるので、…しまいには完全に開き直り、…挙げ句の果てには逆に俺を脅してきた。



「なあ、分かんだろ?

こんな不祥事が世間様の目に触れてみろ!

警察組織の品質を疑われちまう。」


「そんなん、アンタんとこの下っ派が女子トイレにカメラ着けたってこないだも」


「黙れ。」


「っ、」


「……賢くいこう柳巡査?…なあ?

お前試験受ける予定なんだろ?」


「…!」


「こんな…同じ派出所の仲間を窃盗に走らせて。

…そんで仲間を挙げて。

こんな点数の稼ぎ方でいいんか?、あ?」


「…は?」


「お前が思ってる程この世界温くねえんだぞ?

…ここで示談突っぱねて試験受けて、本当に受かると思ってんのかお前。」


「!」


「あいつらは全部返すって言ってんだよ。

…質に入れたのも、まだあれば買い戻すってよ。

だったら実質損失はゼロだろ!

なんならたっぷり色付けて返してもらえ?

そんだけの権利がお前にはあるんだから。」



クソッタレ二枚舌のクソタヌキ。

…そう思った。


ようは『更なる不祥事を防ぎたいだけ』。

…その為に、俺を脅してるだけ。

『試験の合否は今決定するんだぞ』…と。



「…それでも警察官ですか。」


「………」


「多少の事なら目ぇ瞑りますよ。

…でも奴等、ここを掻い潜ったってまたやりますよ。

…何が反省だ。肩落としてうつ向いて!『すんませんでした』って言えば許されんのかよ!?」


「じゃあ好きにしろよ。」


「!」


「こっちはお前の為に示談交渉持ち掛けてやってるってのに。

…そんなに言うなら好きにしろ?

三人ブチ込んでも数年か示談金払って出てくんぞ?

…お袋さん、自分で自分の身守れるんだっけ?」


「っ、……こ…の!?」


「ヘルパー雇うにも施設入れるにも金が要るのに。

本署勤めでそれなりに点数稼げばなんてことなく払っていけるのにな?」



『挙げ句、試験にも落ちるだよお前は。』


『賢い奴だけが上に行くんだよ。』


『三人とお前の人生を棒に振ってまで通す程の意地かそれは?』


『いい加減大人になれよイイコちゃん。』



…胸焼けを起こす、数々の言葉達。


怒りも絶望も通り越した感情の先に在ったのは…

『お礼が言いたい』という、…切望だけだった。


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