第87話 まっくろくろすけでておいで

 凜の言葉に柳はピタ…と停止した。


 脳裏に勝手に木霊してきた施設のスタッフの声に被るように、遠い昔に聞いた男性の声が重なって聞こえた。

 途端に柳は『ああ。』…と口角を上げた。



(そうか俺、…そうだったのか。)


「………」


(…まだ、俺は……)



 口角を上げたままそっとうつ向いていく姿が、夜明にはスローに見えた。


本当に、今、柳が目の前で死んでしまってもおかしくないような……

そんな異様な雰囲気を感じたのだ。



「…今日凜と話そうとしてたの、オーストラリアについてだろ?」


「…!」


「そんな話いつでも出来るし。…聞くよ、マジで。」


「………」



 柳がゆっくりと目線を上げていくと、本当に真剣な顔をした夜明と目が合った。

途端に夢から覚めたような感覚に襲われ、柳はジョッキを持ち、傾けた。



「……なんでもないっすよ?」


「……」


「御心配ドウモ。

…こんなん寝て起きりゃ忘れてるんで?

…なんかすんませんね要らん心配を。」


「…柳。」


「そう。…オーストラリア。」


「……」


「オーストラリアについて、…だ。」



……俺の事なんか、どうだっていい。



「っ、…」



頭を切り替えろ。


…こんなん、いつもの事なんだから。


マジで寝て、起きて…。

門松さんの顔を見れば、…また忘れていくんだから。



「…… …やっぱ、…すんません。

…今日は酔ったし、…帰ります。」


「…柳!」


「お二人は続けて下さい。」


「顔真っ青じゃんよ。」


「へーきへーき。…ほんと、……平気なんで。」



 急に血の気が下がったようにクラクラときたが、柳は帰りたくて仕方がなくて、無理矢理立ち上がった。

夜明は話の流れが流れなので、柳をこのまま帰すなんて出来る筈もなかった。

凜の目に自殺志願者として映ったのなら、間違いなくそうなのだから。



(二日前は凜何も言ってなかったのに!

なんで今日は真っ黒クロスケなのおっ!?)


「あ…あのさ!?、門松も呼ばねっ?

小難しい話はまた今度ってことでさ!

今日はとりま、…皆で酒を酌み交わすって事で」


「そんな心配しなくても死にゃしませんよ。」


「べ、別にそんなの…気ニシテナイシっ!?」


「…はは。…棒読み。」



 凜は、必死に柳を引き止めようと奮闘する夜明、真っ青な顔で慣れたように苦笑いする柳を静観し、ふと口を開いた。



「君の所為じゃないよ。」


「!」



『お前の所為で…!』



「…君の所為じゃない。」


「…………」



 大きくなった柳の瞳とじっと目を合わせると、凜は『頼まれた』…と話した。



「今、その言葉を言ってほしいと。

…君の後ろの方々に頼まれたんです。」


「…後ろ…?」


「君は無意識に自分を責め続けている。…と。」


「…え?」


「君は本当は苦しくて仕方ないのに、それを門松にも話せずにいると。

…オルカ君と居ると君は元気になれるけど、この話は弟のような彼にも当然話せずにいる…と。」


「……………」


「…『母親について』。」


「…!」


「君が家事を一切出来なくなったのも。

結婚に、女性に夢が持てないのも。

…全てはそこに理由があると。

君は電話に出る度に無意識に過去に飛び…

自分を殺し続けている。……と。」



 凜は愕然と目を大きくした柳に優しく目を細め、『全ては一期一会だよ?』と笑った。



「君が真っ黒になり、今日、僕の前に現れたのはね?

…夜明がなんでか君と飲む!…と言い出したのはね?

全て、君を守る見えない存在からの…、『君に解放されてほしい』『もう大丈夫だよ』というメッセージなんですよ?」


「…………」


「……妹さんとお父さん。…残念だったね?」


「!!」



 柳は目を大きく開くと、力無くカタンと座った。

心は完全に放心していた。

だがそのお陰で、人に対するガードも消失していた。



「…お袋、アルツハイマーで。」


「!」 「…うん。」


「妹が死んで、…離婚して。

親父が死んで、…家に戻ってくれた。

…俺、散々迷惑かけたのに。

再婚相手とも俺の所為で離婚して。

……それ以上無いものを、奪い続けたのに。」


「……」 「……」


「俺、あの人に、……なんもできなかった。」



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