第70話 幻ではすまない対価

『…車の前に、…飛び出した?』



その事実を聞いた時、正直ゾッとした。

本当に覚えてなかったからだ。


母親はベッドに突っ伏して泣いているし、医者は結構マジでキレてるのをひた隠して見えるし。


…ただ、夢うつつのような記憶の中で、妹と親父を見たのは確かだった。



『…一緒に暮らしましょう楓。』


『!』


『せめてあなたがしっかりと前を向けるまで。

…お母さん、これだけはもう譲れない。』


『……』


『私の事、…お母さんと思わなくていいよ?』


『…!』


『これは私の我が儘。…あなたに、……

もう私だって…大切な人を失いたくないの。』


『っ…』


『勝手に家事やって、ご飯作ってくれるオバサンが居るって思ってればいい。

…でもごめんね楓。私は暫くあなたと一緒に居るから。…絶対に失いたくないから。』



泣き止んだと思ったら、真剣に据わった声と目でこんなことを言われて…

反発なんて出来なかった。


俺はその日一日入院して、母親と一緒に退院した。




『……久しぶり、茜。

…あなた?、ごめんなさいねお邪魔するわね?』



家に帰った彼女は真っ直ぐに仏壇の前に座った。


俺は気まずくて言葉が出ず、少し不思議な気持ちで母親の背を見つめていた。


こうして俺と母親の二人暮らしが始まった。


なんでかこの時にはもう、親父の死後彼女に抱いた嫌悪感は消えていた。


懐かしい手料理の味にはホッとしたし、家に自分以外の存在を感じるのは正直ありがたかった。



『そうだ楓、…これ。』


『ん?、なにこれ。』



夜に眠れるようになってきた、親父の死から約一ヶ月後、俺は母親から紙を渡された。

何かと見てみると、誰かの連絡先が書かれていた。



『……カドマツ?』


『こら呼び捨てにしない。

あなたの命の恩人なんだからね?』



この時、俺はやっとあのスーツの刑事が誰なのかを知った。

若くはないけどまだまだオッサンて程年上じゃないのに、本当に親身になってくれた…、あの穏やかな刑事さんが、まさか俺が飛び出した車の運転手だったなんて。


俺は衝撃と共に深い感動を覚え、綺麗な走り書きの文字をついじっと見つめてしまった。



『…いつか、お礼、…したいな。』


『うん、いいと思うよ?』



バイトもせず、気の向くままに休み続ける俺を、母親が叱る事はなかった。

それだけで本当にありがたかった。


家に帰って『ただいま』って言えば、『おかえり?』って笑顔で迎えてくれる。


たったそれだけのことが、こんなにも幸福なことだったなんて。



…ただ気がかりだったのが、母親の家庭だ。

聞けば親父と離婚した一年後、つまりつい最近、彼女は浮気相手と正式に籍を入れていたんだそうだ。


だが彼女は夫を俺には紹介しなかった。

俺が仏壇の前に眠り続けた間、数度だけはこの家に共に赴いたらしいが。



『駄目よ。…そんな事言ってないでしょう?

…いえ。…だから違うってば!?』



たまに廊下で俺の足は止まった。


部屋の中から聞こえる微かな喧嘩の声を聞くと、『ああもう家族じゃなかったんだ』と思い出した。



『ねえ楓、今日は一緒に買い物行かない?』


『いいよ?、…何処まで?』


『駅前!、ほら、楓は服選ぶのうまいでしょ?

だからお母さんの服選んでくれないっ?』


『…いいけど。』



だがどれだけ長電話した後でも、彼女は変わらず笑っていた。

俺と居る間、彼女がスマホを触る事は無かった。


彼女は俺の前では常に母で居続けたのだ。

きっと何度も何度も夫と喧嘩した筈なのに、そんなのはおくびにも出さなかった。


『女性は強い』ってよく聞くけど、本当なんだなと思い知らされた。




ドッ…


『って!?、…なんだお前ぶつかっといて!?』


『…あ?』



…だから。…だったのかもしれない。


母としての彼女に心底感謝する反面で、女としての彼女の自由を奪っているという罪悪感が…、俺の心を軋ませた。



『なんだお前?』


『人にぶつかっといてなんだその』


ゴッ…!!



そして俺は、綺麗に道を踏み外した。

母親に傍に居てほしい気持ち感謝する気持ちの正常な心と…、彼女の自由を奪い続けている罪悪感がひたすら鬩ぎ合い、堪えられなくなったんだ。


…なんで悪くなるのってこんなに簡単なんだろ。

出来心で酒飲みに入った店で、酔っぱらいに声かけられて、仲良くなって。

何度も通う内にもっと仲良くなって、遊びに行く約束をして。

…そしたらなんか、そいつの交遊関係が不良ばっかで。

そんで俺まで仲間入り。


…ほんと、人生ってマジで訳が分からない。


そいつらと何してたかって?

なんてことはない。

誰かの身の上話になっては不満を露にし、俺の身の上話をして、哀れまれ、同調され。

そして絆が深まったような錯覚を起こして。

『この群れは自分を裏切らない』

『ここに居れば楽しい、幸せだ』と思い込むだけ。


喧嘩なんてしたことなかったのに、週2、3で喧嘩するようになっちゃったし、昔はちゃんとあったモラルは完全に崩壊した。


人にぶつかっといて、…むしろぶつけておいて謝罪無し。…その上殴るとか。


……ほんと、人生をやり直せるなら間違いなくここだ。この時間を丸々宇宙のゴミにして消し去ってしまいたい程恥ずかしい。



『おい柳こいつ押さえとけ!!』


『あーい? …あ。悪い母親から電話。

もしもし母さん?、どしたん?』


『…っておい💢!?』



対立グループとの喧嘩の最中だろうが、絶対に母親からの電話には出た。

人を平然と蹴りながら話しているなんて、彼女は露にも思わない。



『うんうん。いいよ俺が買ってく。

あーちゃんと親父のも?、あいよー。』


『おい柳!?』


『悪い俺帰るわー。』


『ハアッ💢!?』


『後は勝手にやって。じゃーねー?』


『こ…っの!?、クソマザコン!!!』


『はいはい勝手に言って~。』



マザコンと罵られようが気にもならなかった。


不良の仲間入りを果たし、好きに暴れ回ること約二年。

俺はまた家事が出来るようになっていた。

バイトをしては飽きて辞めて、また違うバイトをしてはまた飽きて辞めて。…なんてのを繰り返してはいたが、精神的には落ち着いていた。

母親はいつも『なんで軌道に乗った途端に飽きるの』と呆れていたが、俺も『なんでだろう?』と不思議だった。

なんでか仕事を覚え、ちゃんと戦力になれた途端に突然飽きて苦痛そのものに変わってしまうのだ。


母親は離婚し、俺と暮らし続けていた。

…彼女は女を捨てたのだ。


その事実は、俺の二つある心を更に色濃いものとした。


もう19才も終わろうとしていた。

心の何処かでは、『こんな筈ではなかったのに』と叫び続けていた。

だが臆病な心は俺の自立を妨げ続けた。


そんなある日のことだった。

仲間から呼び出しを受けた俺は、母親に『出掛けてくる』と声をかけ外に出た。

夕方のことだった。

『もうすぐご飯だから早く帰ってきてね』と首を傾げた母親に、『すぐに帰るよ』と返し、俺は家を出た。



『調子こいてんじゃねえぞマザコン!!』


『テメエのせいでこんなザマになったんだぞ!!』



…公園で俺を待っていたのは、仲間からのリンチだった。


俺は殴られながら、体の感覚が遠退いていくのを感じながら…、そりゃそうかと思っていた。

俺にとってこいつらは仲間じゃないから。

友達でもなければ、運命共同体なんてあり得ない。


ほんと、ただの顔と名前を知ってるだけの他人だ。


そんな他人が戦力から抜けただけで負けてしまう自分達を内省などする奴らではない。

全ては俺のせい。…まあ、あながち間違ってないけどな。


奴らの傷付いたプライドや肉体のツケは、俺一人の体で払うには高過ぎたようで。


『火を…』だのなんだのと聞こえてきた時に、俺は悟った。…いや、思い出した。

ニュースなんかでたまに見る『いきすぎた抗争の果ての…』なんてのは、きっとコレだと。


だがもう抵抗する術はない。

体は動かない。

意識だって、本当にあるのかも定かではない。



『お兄ちゃん!』 『楓!』



…ああ、また見えてしまった。


…そして思った。

『きっと今回は幻で済まない』と。



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