愛情は転移した

橘つばさ

第1話


 アイリス記念総合病院の名称に含まれる「アイリス」とは、アヤメ科の植物の総称だ。日本で有名なのは、アヤメやショウブ、カキツバタあたりだろう。

 この病院に「アイリス」という名がつけられた理由は、その花言葉にある。アイリス全般には、「希望」「信じる心」「吉報」といった花言葉があり、なかでもアヤメには「良い便り」、ハナショウブには「嬉しい知らせ」、カキツバタには「幸せは必ずくる」といった代表的な花言葉があるのだ。それらの言葉を、この病院にやってくる患者さんたちに贈ろう、というのが、アイリス記念総合病院の名づけの由来である。

 種類だけでなく、アイリスは花の色によっても、花言葉が変わる。青いアイリスには「大きな志」や「信念」、白いアイリスには「思いやり」、紫のアイリスには「知恵」という花言葉があてられているのだ。これらは医療に従事する医師や看護師がけっして失ってはならないものである、という意味がこめられている。

 患者と医者。アイリス記念総合病院は、そのどちらにも静かに語りかける。だから、この病院のシンボルマークには、青、白、紫の三色をまとったアイリスの花が取り入れられているのだった。

 しかし、院名とシンボルマークにこめられた「想い」を知る患者は多くない。ここの入院患者である一人の少女もまた、同じだった。


   *


 アイリス記念総合病院の入院病棟。真っ白なベッドに仰向けで寝転んだまま、水原心寧(みずはら ここね)はため息をついた。視線を天井から自分の足に向けると、ギプスで痛々しく固められたそれが目に入る。まるで、ブーツだ。少しもカワイくはないけれど。

 はぁ……と、胸もとで大切な人形を抱きしめた心寧の口から、ふたたび憂鬱(ゆううつ)な吐息がこぼれ落ちる。

 一週間前。心寧は、右足関節骨折──つまり、右の足首を骨折した。朝からしっかりと雨が降ったその日は、待ちに待ったデートの日だった。高校二年生の心寧にとって、大好きな彼とのデートは特別な時間だ。授業がある平日はなかなか時間がとれず、土日も、さすがに毎週デートというわけにはいかない。高校生は部活や勉強やアルバイトで、なかなか忙しいのだ。

 だから、彼とのデートは二週間ぶりだった。「こんな天気なのに出かけるの?」と心配そうな母親に「天気なんて関係ないから!」と言い張って、心寧は家を出た。バイト代を貯めて買った、真新しい黒のブーツをはいて。

 そして、雨でぬれた駅の階段を──ちょうどホームに入ってきた電車を逃すまいとして──駆け下りた心寧は、厚めの靴底に翻弄されるように足首をグキッとやって、階段を数段、すべり落ちた。ひねった足に激痛が走ったが、最初は「捻挫(ねんざ)しちゃったかも」くらいにしか思わなかった。しかし、立ち上がろうとした瞬間、電流が走るような痛みが足首から腰のあたりまでを問答無用に刺し貫いて、心寧は悲鳴を上げると同時に、びしょぬれのホームに座りこんだ。

 当然、ホームに入ってきていた電車は素知らぬ顔をして、心寧を乗せずに行ってしまった。

「デート前に転んで骨折とか、ほんっとサイアク……。めっちゃ楽しみにしてたのに」

 そうつぶやいて、心寧は唇をとがらせた。優しい彼は「治ったら、またデートしよう」と言ってくれたが、病院に閉じこめられてしまった心寧にとって、その「また」はひどく遠い未来だ。折れた足首の骨をプレートやネジで固定する手術は無事に終わったものの、リハビリをしながら待つ三週間後の退院は、今か今かと焦(じ)れていても、なかなか近づいてこない。

「こういう厚底ブーツで転んで骨折する人、けっこう多いんだよねぇ」と、手術を担当してくれた先生にはイヤミっぽいことを言われ、母にも、「だから『出かけるのはやめたら?』って言ったのに……」と、今さら言われてもしょうがないことを言われ、骨折で入院することになったと伝えたクラスメイトからは、「心寧はいつかやると思ってた」と笑われる始末だ。

「みんな冷たいよねー。優しいのは、ハルくんだけだよ」

 その名前を口にしたとたん、心寧の顔からは不満の色がはがれ落ち、ただただ恋しそうな微笑みに満ちた。

 家から連れてきた大切な人形を、心寧がぎゅっと抱きしめたとき、病室のドアが静かな音を立てて開き、活発な足音が入ってきた。

「心寧ちゃーん、こんにちは。具合はどう?」

「香坂(こうさか)さん。こんにちは」

 心寧のベッドに歩み寄ってきたのは、この病院の看護師である香坂だった。三十代なかばの香坂は、黒髪をいつも頭のてっぺんでお団子に結い上げている、きりっとした印象の女性看護師だ。処置も立ち居振る舞いもテキパキしていて、心寧としても、頼もしく感じている。

「リハビリ、順調そうだね。足の痛みや熱っぽさ、吐き気はない? それ以外でも、何か気になることは?」

「それは大丈夫だけど……自由に動けないのが、ちょっとストレスかも」

「あぁ、そうだよねぇ。部活とかバイトとか、友だちと遊んだりもしたいよねぇ」

「それもだけど……一番つらいのは、彼とデートできないことかな」

 少しだけ目を伏せて心寧がこぼしたつぶやきを、香坂は聞き逃さなかった。何かを書きこんでいたバインダーから持ち上がった瞳が、心寧を見つめて小さく光る。

「心寧ちゃん、彼氏いるんだ? そっか、そうだよねー。心寧ちゃん、かわいいもん」

「そんなことないですけど……! でも、彼氏は、います」

 ふいに敬語になった心寧は、胸もとから抱き上げた人形の背中に顔をうずめた。足を動かすことができていたら、両膝(りょうひざ)を立ててそこに顔をつっぷしていたところだ。

 そんな心寧の反応を見た香坂は、バインダーの陰でにまりと笑みを浮かべた。

「彼氏さん、どんな人なの? 出会いは?」

 香坂の問いかけに、心寧はぱっと顔を上げる。頰の高いところがほんのり赤く染まって、まばたきを忘れた瞳が香坂を見つめ返した。「聞いてくれる?」と、その瞳が訴えかける。

「ハルくんとは、一年ちょっと前に出会ったの。じつはわたし、そのとき失恋した直後だったんだ」

「え、そうなの?」

「うん。中三のときに付き合ってた彼氏に、浮気されちゃって……」

 あのときのことは、今でも心の片隅にくっきりと刻みこまれている。


 中学生の自分は、いろんな意味で今よりも幼かったと、心寧は思う。メイクにもオシャレにも疎(うと)かったし、大人になるのはまだずっと先のことだと感じていた。それでも、当時付き合っていた同い年の彼のことは、大好きだった。

 彼はサッカー部のエースストライカーで、はっきり言って、女子のファンは多かった。心寧以外にも、きらきらと汗を流しながらサッカーに夢中になっている彼の姿に、一目ぼれした女子は少なくなかったに違いない。だれそれちゃんが彼に告白してフラれたというウワサも、絶えなかったように思う。

「フラれちゃった……」と泣いている女子や、「わたしなんて彼に釣り合わない」と最初からあきらめる女子もいるなかで、心寧は、あきらめなかった。子どものころから、よくも悪くも「まっすぐ」な性格の心寧は、好きな男子にも物怖じせずにアピールする女子だった。

 サッカー部の練習を毎日のように見学して、他校との練習試合も応援に行って、ほかのファンの女子たちに負けないよう声援を飛ばし続けた。自分の存在感が「その他大勢」の女子たちの中に、うずもれてしまわないように。

 そして、彼が十分に自分の存在を認識してくれただろうタイミングを見計らって、中三の夏に告白した。

「──くんのことがずっと好きで、ずっと見てました! わたしと、お付き合いしてください!」

 驚いた表情と、照れているのか少しも定まらない視線が印象的だった。試合中はあんなに堂々としているのに、と、そのギャップにキュンとして、彼に優しい吐息を吹きこまれたかのように、心寧の恋心はまた膨らんだ。

「よろしく、お願いします」

 そんな返事をもらって、彼との交際は始まった。

 それは、幸福な時間だった。「からかわれるのが嫌だから、付き合ってることは、あんまりまわりに知られたくない」という彼の気持ちを尊重して、学校では──クラスが違ったこともあって──一緒にいることはほとんどなかった。でも、放課後はこっそり二人で帰ったり、休日に電車で少し遠くへデートしたり、そんな「ヒミツの恋」みたいな付き合いにドキドキしている自分がいた。大人になるのはまだずっと先だと思っていたのに、「オトナの恋」をしているみたいだ、と。

 しかし、初恋に浮かれている時間は、それほど長くは続かなかった。付き合い始めて半年も経たない中三の冬のはじめに、彼が浮気していることを知ったのだ。

 相手は、かつて彼が練習試合で訪問したことのある他校の女子生徒だった。その練習試合には心寧も彼の応援で駆けつけていたから、もしかしたら、浮気相手の女子生徒とも、すれ違うくらいのことはしていたかもしれない。そう思うと、よけいにみじめになった。

 いま思えば、「からかわれるのが嫌だから、付き合っていることをまわりに知られたくない」という彼の言葉も、本心だったのかどうかわからない。何人もの女子が彼に告白して、そのたびに彼は断っていたとウワサには聞いたけれど、それは相手の女子を「選り好み」していただけで、逆に言えば、「好み」の女子が二人現れたときに、どちらも選べるという環境を作っておきたかっただけなんじゃないのか。だから、自分と付き合っていることを秘密にしておきたかったんじゃないのか。そんなことさえ、心寧は考えた。

 彼のことは、本気で大好きだった。だから、もしも彼が浮気相手と別れて自分を選んでくれるなら許そうかとも思ったのに、彼は、心寧が浮気を問い詰めるなり、「じゃあ別れよう」とあっさり告げた。このときようやく、心寧は、「浮気相手」は他校の女子ではなく、自分のほうだったのかもしれないという可能性に思い至った。

まわりから見れば「中学生の淡い初恋」が失恋に終わっただけだったかもしれない。でも、心寧にとっては、それがすべてだった。だから、どんな薬でも、どんな言葉でも、癒されることなんて一生ないと思うほど深く深く傷ついて、毎日のように泣いて過ごした。

 大人になれば、こんな痛みに泣きじゃくらないですむんだろうか? だったら早く大人になりたいと思う。

 でも、大人になったら傷つくことに慣れるかわりに、あの、キラキラふわふわとした喜びにさえ慣れきって、丁寧な恋をすることをあきらめるようになるんだろうか? だったら、大人になんてなりたくないとも思う。

 自分は、いったい、どうなりたいのか。そんな疑問が見えない傷口に沁(し)みて、しょうがない。

 ──「ハルくん」と出逢(であ)ったのは、その傷がまだジクジクと膿(う)んでいた、高校一年生の夏のはじめだった。

 目が合った瞬間、それこそ足首を骨折したときに感じた電流のような感覚の何倍も強い衝撃に、心臓を撃ち抜かれた。「このひとが運命の相手だ」と、理由も理屈もなく全身で確信したのだ。

 運命的な出逢いのあと、「ハルくん」は、真摯(しんし)に心寧に寄り添ってくれた。元カレに裏切られた心の傷を癒そうとするかのように、何も言わずにそばにいて、心寧の涙をぬぐってくれた。しだいに心寧は元カレのことを忘れ、ハルくんのことだけを見つめるようになった。それが、自分のことだけを見てくれるハルくんに、返すべき誠意だと思ったから。

 ハルくんは、心寧の新しい彼氏になった。それから心寧は、ハルくんといろんなところへデートに出かけた。動物園や水族館、映画も観に行ったし、SNSで話題になっていたカフェにも行ってみた。お金がないときのウィンドウショッピングも、ハルくんと一緒なら心が弾んだ。

 ハルくんが心寧の「一番」になったために、高校に入ってできた友人たちから、「心寧、ちょっと付き合い悪くない?」と言われたことはある。放課後、ショッピングやカラオケに誘われても、「土曜日、みんなでどっか遊びに行こうよ!」と声をかけられても、「彼に会いたいから」と断ることが多かったのだ。

「彼って、前に話してた『ハルくん』? そんなに、『ハルくん』がいいの?」

 どこか不満げに、どこか訝(いぶか)しそうに、友人たちは言った。それでも、心寧の「一番」は揺るがなかった。

「サラちゃんだって彼氏がいるんだから、『大好きな人に会いたい』っていう気持ちはわかるでしょ? 萌花(もえか)は、アイドルのソラくんに本気で恋してるって言ってたよね。アイドルに恋しても報われないから意味ないじゃんって思う人もいるかもしれないけど、わたしは、ぜんぜんいいと思うの。恋ってさ、『この人にしよう』って決めてするものじゃないじゃん。気づいたら、どうしようもなく好きになっちゃってるものじゃん。あゆりんが、ずーっとトモエくんひとすじなのも一緒だよ。マンガのキャラだから、二次元だからって、『好きになっちゃダメなんて、お説教される筋合いない!』って思わない?」

 心寧がそう返すと、アイドルに恋をしている友人も、二次元のキャラクターに夢中になっている友人も、「それはそうだけど……」と口ごもった。それはそうだ。だって、それが恋というものなのだから。

「だからわたし、ハルくんのところに行くね!」

 そう言って何度も、心寧は友人たちとの時間よりも、彼との時間を優先してきた。

 ハルくんに会ったら、まず思いっきりハグをする。すると、ハルくんのあたたかさとハルくんの陽だまりのような匂いが、心寧をそっと包みこんでくれる。その心地よさに心寧はうっとりと目を閉じて、体じゅうのすべての細胞で、ハルくんを感じる。胸の中が、ハルくんでいっぱいになるまで。

 そのあとはおしゃべりを楽しんだり、たまにくすぐるようにハルくんに触れてみたり、ときには思いきって心寧からキスをしてみたりする。ハルくんは驚いたり照れたりしながらも、優しく「好きだよ」と言ってくれるから、「わたしも大好きだよ」と、心寧はきちんと言葉にして伝えるようにしている。

 ひとつのベッドで体を寄せ合って眠り、一緒に朝を迎えて「おはよう」と微笑み合う時間も、心がじんじんと震えるような喜びに満ちている。見つめ合うだけで時間の感覚がマヒして、心が彼の色に染まって、彼以外のすべてのことが頭の中から抜け落ちていく。

 一緒にいる時間が幸せなぶん、離れると寂しくてたまらなくなる。そういうときは、ペアで買ったネックレスを胸もとで握りしめて、彼のことを──そのぬくもりや匂いや、こまやかな表情やつないだ手の大きさや、キスしたときの唇の感触なんかを──ひとつひとつ、丁寧に思い浮かべるのだ。それで不安や寂しさは、次に会うときへの喜びに変わるのだった。


「心寧ちゃん、ハルくんのこと、本当に大好きなんだね」

 感心した様子の看護師の言葉に、心寧はふたたび頰を染めて「えへへ」と笑った。

「それだけラブラブだと、ケンカもしないの?」

「そんなことないよ。やっぱり、たまにケンカしちゃうこともあるけど、でも、そういうときはいつも必ずハルくんから謝ってくれるの。それで、すぐ仲直り。わたしも甘いなぁって思うんだけど、ハルくんの顔を見てたら、ついつい許しちゃうんだよね」

 はにかみながら、心寧が人形を抱きしめる。ウブな少女のようなその仕草さえ微笑ましくて、看護師の香坂は、思わずささやいた。

「心寧ちゃんがそんなに大好きになるくらい素敵な彼氏さん、わたしもいつか会ってみたいわ。そのうち、お見舞いに来てくれるのかな?」

 すると、心寧のまるい瞳がゆっくりと持ち上がった。その瞳で、じっと看護師を見つめて、心寧は弾む声でつぶやく。

「やだなぁ、香坂さん。ハルくんなら、ここにいるよ。毎日、わたしのお見舞いしてくれてるよ」

 え、と、香坂の口からとまどいの吐息がこぼれた。何を言われたのか理解できずにいる看護師に、心寧は「ほら」と、とっておきの笑顔を見せた。

 ──たった今まで胸に抱えていた人形を、両手で優しく抱き上げながら。

「彼が、わたしの彼氏のハルくんだよ。ほら、ハルくん。香坂さんに『こんにちは』って」

 そう言いながら心寧は、香坂に向かってお辞儀をさせるように、身長四十センチはあろうかという男の子の人形を前かがみにさせた。

 その瞬間、香坂のうなじあたりを、少し冷たい感覚がすべり落ちた。

 いつもこの人形を大事そうに抱えているな、とは思っていた。少し赤みがかった茶髪と、碧(あお)い瞳が印象的な、きれいすぎるほどに整った顔立ちの男の子の人形で、こんなリアルな人形もあるんだなと思っていたら、同僚が、「あれ、球体関節人形だよ」と教えてくれた。関節が球体で形成されているため、人間と同様に自在なポーズをとらせることができるのだという。つまり、見た目も体のつくりも、人間により近い人形というわけだ。

 そういえば、この人形がほとんど毎日違う衣装を着ていたことに、今になって香坂は気づいた。今日は白のパンツに深いブルーのニットのような衣装だが、たしか一昨日(おととい)は、ジーンズにベージュのジャケットのようなものを着ていた。思えば、髪形も少し違っていたような気がする。いずれも、心寧が着せ替えてスタイリングしているに違いない。

 そして、そんな人形の胸もとには、人形の大きさと縮尺の合っていないネックレスがいつも揺れていた。衣装は人形用のもののようだが、このネックレスは人間用のものであるように、香坂の目には映る。

 ──彼と、ペアで買ったネックレス。

 つい先ほど、心寧の話に出てきた言葉を思い出して、香坂は、胸の奥に不自然な強張りを感じた。

 小さな子どもが人形やぬいぐるみを使って「ごっこ遊び」をすることは、よくある。むしろ、観察力や想像力、社会性や協調性、コミュニケーション能力など、集団で生きる人間にとって必要な力をはぐくむためには欠かせない、成長のプロセスだ。しかし、心寧の年齢になってもそれが続くことは考えにくいし、何より、心寧のこれは「ごっこ遊び」などではないということを、香坂の看護師としての経験が訴えていた。

 すると、香坂の動揺を読みとったかのように、心寧がクスッと笑った。

「やっぱり、香坂さんもそういう反応するんだね。『人形が彼氏なんだ』って話したら、みんな、香坂さんとおんなじ顔する。『そんなに、人形のハルくんがいいの? 意味がわからない』って」

 どう返事をしていいのかわからない様子の香坂を、心寧は別段、気にもとめない。ただただ大切なものに触れるときの手つきで、球体関節人形の──「ハルくん」の髪をなで続けている。

「ハルくんが人形だっていうのは、もちろん、わかってるよ。でも、それでも好きなの。元カレにフラれてショックで落ちこんでたとき、街を歩いてたら偶然、ショップでハルくんと目が合って、その瞬間に恋に落ちたのがわかったの。元カレに一目ぼれしたときよりも、何倍も強く惹(ひ)かれたの。それからずっと、好きで好きでたまらないんだ。それにハルくんだって、わたしだけを想ってくれてる。ハルくんは絶対に、わたしを裏切ったり傷つけたりしない。だから、ケンカをしてもすぐ仲直りできるの。わたし、ハルくんを愛してるの」

 十七歳の女の子が口にする「愛」にしては、言葉の響きが強すぎると、香坂は思った。

 十代の恋愛は香坂にも経験があるが、「ずっと一緒にいたい」とか「結婚したい」とか、初恋だからこそ発作のように心に浮かぶそれらの感情は、もっと、ふわふわとしたものだった。「愛してる」なんて言葉は、口にすることに酔って、ささやいてもらうことに酔っていただけ。「愛してる」ことを実感しながら恋人に伝えられるようになったのは、もっとずっとあとになってからだった。

 ──でも、この十七歳の少女が口にする「愛」は、すでにその言葉の重みを知っていた。

「心寧ちゃん……」

 患者の名前を呼んだものの、そのあとに何を続ければいいのか、香坂にはわからなかった。

 そんな香坂を励ますように、心寧がにっこりと笑う。それは、年相応の女の子の──純粋に恋をする女の子の笑顔そのものだった。

「学校の友だちにも言ったけど、誰かに迷惑かけてるわけでもない恋愛に、お説教される筋合いないから。アイドルの男の子や芸能人に本気で恋することもあるし、二次元のキャラだってカッコよければ好きになっちゃう。2・5次元の俳優さんとかね。それに、女の子が女の子を好きになったり、男の子が男の子を好きになったりするのも、もう普通でしょ? LGBTは、今は学校でも習うんだよ。ギャーギャー言う古い人たちもいるけど、同性婚が認められてる国もあるよね。わたしは、そういうのも認められてこその自由恋愛だと思う。『多様性』ってやつ。恋は理屈でするんじゃなくて、本能でするんだから。それにわたし、調べたことがあるんだけど、エッフェル塔に恋をして結婚した女の人もいるんだって。愛情には、いろんな形があっていいんだよ。決められた形しか許さないなんて、そんなの『愛』じゃないよね。『愛』はすべてを包みこむものなんだから」

 饒舌(じょうぜつ)に話しながら、心寧の手はずっと人形の頰をさすっている。それは、心から恋慕う相手に触れる手つきだった。

 エッフェル塔と結婚した女性がいるのは事実だ。「人間」ではなく「物」に対して愛情を感じる人々は、たしかに存在する。彼ら、彼女らの志向は一般に「対物性愛(たいぶつせいあい)」と呼ばれるものだが、心寧の場合は、人形に特別の愛情をそそいでいるのだと香坂は考えた。

 ──ピグマリオン・コンプレックス。

 語源は、ギリシャ神話に登場する「ピュグマリオン」という名の王だ。彫刻家でもあった彼は、象牙で作った女性の像を溺愛するあまり、愛の女神アフロディテから、像に命を与えてもらい、添い遂げたとされている。その神話から転じて、命のない人形に愛情を抱く志向をピグマリオン・コンプレックスと呼ぶようになった。

 そこまで心寧が知っているのかは、香坂にはわからない。ただ、「ハルくん」と名づけた恋人を胸に抱きしめ、自分の鼓動を聞かせているかのような心寧のうっとりとした表情は、恋する幸せに満ちていた。

 きっと、今の心寧には「ハルくん」しか見えていない。すっかり二人だけの世界にひたって、少女は愛しい彼の手をそっと握りしめる。香坂には計り知れない世界にいるのであろう心寧は、それでも、心から幸せそうに見えた。

 恋は、一種の病(やまい)だ。時間とともにどんどん体じゅうへ拡(ひろ)がって、心ごと、甘くむしばんでしまう。それはまるで、全身に転移するガン細胞のように。そして、気づいたときには抜け出せなくなっている。医者にも、看護師にも、どうすることもできない病だ。

「わたしのケガが治ったら、また二人でいろんなところに行こうね、ハルくん。わたしのこと、たくさん抱きしめて、たくさんキスしてね。ずーっと大好きだよ」

 ──この恋は、絶対、誰にも邪魔させない。

 恋人の耳もとでそうつぶやく「まっすぐ」な少女の瞳には、もはや、香坂の姿は映っていなかった。どんなときでも優しく微笑みかけてくれる恋人だけが、この恋を貫くと誓った一人の少女の「すべて」だった。

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愛情は転移した 橘つばさ @yuuki_p

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