第6話

 中年男と幼女は、あらためて旅に出た。大きくて薄汚れた手が、小さくて薄汚れた手を引いていた。どこまでも続く瓦礫の野を、チリと硝煙が舞う荒廃しきった世界を、夕焼けの向こうへと歩いていた。

 溜め池でタニシを捕り、瓦礫をひっくり返して食べ物を探した。疲れたら、錆びついたトタン屋根を布団代わりにして、二人仲良く寝た。途中、見知らぬ大人が幾度もふん子を誘ったが、彼女は適当にあしらって付いていくことはなかった。拓哉も、その辺をうろつく浮浪児はかまわないことにしていた。

 旅はとても長く続いた。その時の長さは、いったい何人の生涯を経ただろうか。二人は終点に近づいていることを感じていた。果てがないと思われた夕焼け空に、だんだんと輪郭が出てきた。朱色の空が、不自然に見え始めている。

「ふん子ちゃん、なんだかお空がヘンだよ」

 夕焼けの色が濃いように思えた。空というより、巨大なキャンバスに朱色の絵の具を塗り付けているような瑞々しさであった。

「おまえさんたち、ここから先に行くのかい」

 老婆だった。ボロ雑巾のように小汚い身なりをした婆が、二人の前に座っていた。左足首から先がなかった。彼女は歩けないので、その場所から動こうとはしない。

「そうだよ。二人で夜を見に行くんだよ」

 拓哉がそう答えると、老婆は意味ありげに口元を歪ませた。

「夜を見る者は闇を見るよ。闇を見る者は、何を見るかな」

 老婆が立ち上がった。汚いシミだらけの包帯の足が、ゴミだらけの地についた。切断面だけでバランスをとるのが難しいのか、いまにも転倒しそうだ。

「この道を行くんだよ」

 真っ赤な夕焼けを指さして言った。足腰や頭は存分に震えているが、その指先だけは微動たりしなかった。

 拓哉がふん子を見た。幼女は握っている手に力を込めていた。

「いこうか、ふん子ちゃん」

「うん」

 瓦礫の地は血なまぐさくなっていた。

 木片や錆びた鉄筋に代わり、生々しく肉がこびりついた骨が、そこいらじゅうに転がっており、水たまりならぬ血だまりがあちこちにあった。尋常じゃないぐらいの血生臭さだった。

「ふん子ちゃん、これを巻こうね」

 手拭いを幼女の口に巻いて、臭いを防ごうとした。だが息苦しさの方が辛いのか、ふん子はイヤイヤをして、結局そのまま歩き続けることになった。

「ふん子ちゃん、足元はできるだけ見ないようにしようね」

 人骨の残骸だけではなかった。太い血管がつながったままの心臓が打ち捨てられていて、しゃばしゃばとした血液を吐き出しているかと思えば、引き抜かれたばかりの腸がとぐろを巻いている。そのほかにも、人肉の塊が無造作に捨てられていた。

「ここはマズいなあ。マズいよう」そう言いながらも、拓哉の足取りは早くなっていた。

 見渡すかぎり、直視するには気が変になりそうな光景ったが、なぜか戻ろうとは思わなかった。行き着く先にあるものを確認するまで気がおさまらないと、拓哉は悟っていた。その想いは、ふん子も共有している。

「おっちゃーん」

 ふん子の手の力が強くなった。彼女の拙い走りが追いつかず、何度も転びそうになっている。拓哉はそのたびに持ち上げて、幼女の足を血まみれの地につけさせた。

「もうすぐだよ、ふん子ちゃん」

「うん」

 血塗られた長い道のりを、二人は走り続けた。息を切らして、心臓が摩耗しきってしまいそうな疾駆だった。

 そして、ようやく夕焼け空の下までやってきた。周囲には、湯気が立つほどの新鮮な人間の屍が山と積まれていた。虐殺が行われたというよりも、屠殺場から排出された残骸といった様子だった。

 雨が降ってきた。真っ赤な血の雨が断続的に、時にはバケツをひっくり返したように落ちていた。中年男と幼女は、びしょ濡れになってしまった。

「ああーっ、これは」

 夕焼けの空が垂直に立っていた。どこまでも果てのない巨大なパネルが屹立していた。その下では、赤や青の鬼たちが人間たちを引き裂いていた。生皮を剥ぎ、四肢を切断し、目玉をくり抜いている。骨の関節が引き千切られる音や、ノコギリで肉骨を曳く音が聞こえていた。方々から断末魔の絶叫が響いていた。

 鬼たちは、解体した人間から噴き出した血をバケツに満たし、それを背負って夕焼けの空をよじ登っていた。そして、頃合いの高さで血をぶちまけて、そのキャンバスを夕日色に染めているのだった。鬼の数は多く、数万、いや数十万だろう。彼らは休むことなく仕事を続けていた。

 暴虐を受ける罪人の肉体は、鬼たちの仕打ちによって次々と引き裂かれてゆく。魂は何度でも再生する。新たな肉体を得ては、ふたたび解体されることとなる。そして、絞りだされた血が空を夕日色に染め上げているのだ。

「ギャアーーーー」

 ふん子が泣き出した。喉の粘膜が破れるくらいの悲鳴だった。

「ちくしょう、どこまで行っても地獄だ。地獄でしかない」拓哉が叫ぶ。

 罪人たちは尽きることのない拷問と殺戮に晒される。魂が無限に再生されるために、それは絶え間なく永遠に為される。なぜなら、ここは地獄だからだ。

「こんな子どもになんの罪があるか。ふん子がなにをしたって言うんだ。地獄に落とされる必要があるのかっ。罪もない無垢な魂が、なぜ地獄を這いまわらなければならないのだ」

 拓哉は拳を高く掲げて、天へと怒りをぶつけた。だが、鬼たちの作業が止まることはない。空は血の色に塗りつぶされている。色が薄くなっては、また亡者たちの血が補充された。

「ギャアーー、ギャアーー」

 ふん子の叫びはますます甲高くなった。もはやその顔に幼女の表情はなく、ただただ驚愕するだけの人形でしかなかった。

 その小さな瞳いっぱいに真っ赤な夕焼け空が広がっている。血のように赤い空が、果てしなく映し出されていた。


                                  おわり

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夕焼けの向こうへ 北見崇史 @dvdloto

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