第5話
日が沈まぬ永遠の地に、どれくらいの時が経過しただろうか。
拓哉はしばらく体育館付近をウロウロしていたが、子どもたちがいつまでたっても帰ってこないので、いったん自分のねぐらに戻っていた。ひょっとしたらふん子が帰っているのではないかと期待していたが、そこはいつも通りの瓦礫の野で、屁虫クワガタやトカゲがウロウロしているだけだった。
体育館には何度となく足を運んだ。昨日もいなった、今日もいないと、うなだれる時が続いていた。これで十回目、百回目と回数を数えていたが、五百回からは数えなくなった。いつ来ても子どもたちの姿はないし、ふん子も見つけられなかったからだ。
拓哉の心中にあきらめの感情が芽を出していた。ほかの子どもの世話をしようかとも思ったが、ふん子の笑顔が忘れられなくて、一人でウダウダしていた。
コウズケが率いる子どもたちの集団は、食べ物の見つけられそうな場所を転々としていていた。元のねぐらである体育館は長い間放棄された状態で、そこに戻ることはないだろう。
ふん子は、その集団にすっかりと慣れていた。とんびとは親友となり、いつも行動を共にしていた。食べ物のありかを探すその姿は、変わらず幼児で言葉も思考力もそのままだったが、経験だけが加味されていた。
さらに長い時が経過した。
人間の尺度でいうなら、人が生まれてから天寿を全うするまでを経験できるほどの長さである。あきれるほどの時間が経ってしまっていた。
ふん子は一人になっていた。ずっと昔にそうであったように、たった一人で瓦礫の野をほっつき回っていた。
コウズケは北の果てに呼び出されていなくなっていた。指示するもののいなくなった組織は自然と消滅した。子どもの集団は、だいぶ前に散り散りになっていた。
とんびとふん子は、コウズケがいなくなる少し前に仲違いして、それっきりだった。
彼女が好きだった虫けらを、ふん子がけなしたことが原因だった。些細な理由たが、二人の仲を裂くのには十分だった。とんびのかたくなな態度に嫌気がさしてしまい、ふん子は友達でいることを諦めた。とんびは他の子どもたちとどこかへ行ってしまい、それ以来姿を見ていなかった。
さ迷うように、飢えた幼児が歩いていた。黒く煤けた小さな手で板切れや石をひっくり返しては食べ物を探しているが、なかなか見つけることができなくて難儀していた。もっと大きな瓦礫を引き起こしたりすれば食パンの耳ぐらいはあるかもしれないが、非力すぎてできなかった。子どもたちの集団にいるときは皆で力を合わせることもできたが、一人ではどうにもならない。結局、いつも腹をすかしているしかなかった。
ふん子はときどき、拓哉と一緒だったことを思い出していた。
目覚めると、中年男がいつも温かな食事を与えてくれた。ふん子の名を呼びながらよく遊んでくれたし、わがままも笑って許してくれた。この過酷な地で穏やかに過ごせたのは、拓哉がいつもそばにいてくれたからだ。
「たにし、くいてえなあ」
何度も何度も、拓哉と一緒に暮らしていた場所に戻ろうと思った。だが、自分は拓哉を見捨ててコウズケの集団で暮らすことを選んだのだ。いまさら、どのツラさげて帰ることができようかと、幼い心ながら恥を知っていた。
じつはかなり前に、彼の姿を見たことがあった。食べ物を探している子どもたちの場所を突き止めた拓哉が、ふん子に会いたくてやってきたのだ。
「ふん子ちゃん、ふん子ちゃん」と呼びかける中年男を、ふん子は無視した。その時の幼女の優先順位は、とんびやほかの子どもたちとの連帯であり、その中に拓哉の存在はなかった
焼きタニシ入りラーメンの鍋をもって、嬉々として近づいてきた中年男に向かって、プイと背中を向けた。本心では少しばかり話したいと思っていたのだが、まわりの目を気にしてしまった。とくに、とんびは嫉妬深くて、ふん子がほかのだれかと仲良くしているだけで不機嫌になってしまうからだ。
ふん子のつれない態度にあてられて、拓哉はどうしようもなく落ち込んでしまった。ただでさえ血の気が失せた顔が、より一層しょんぼりとなった。それでもラーメンを手渡したくて、いつまでもうだうだしていた。子どもたちの何人かがラーメンをくれとねだってきたが、シッシと追っ払っていた。
結局、ふん子がラーメンを食べることはなかった。すっかりと冷たくなったそれをもって、中年男は東屋のねぐらへと帰ってしまった。
ふん子は悔やんでいた。いまさらながら、拓哉の存在が恋しくてたまらなくなっている。来る日も来る日も、一人でさ迷うのが寂しくてたまらない。泣き続けて自らの愚かさを悔やんだが、どうしようもないと諦めていた。 。
それからずいぶんと時が流れた。そこは相変わらずの瓦礫の野で、いついかなる時でも朱色が鮮明な夕焼け空だった。
ボロ雑巾みたいな幼女が歩いていた。
埃と垢で髪はゴワゴワして、着ているものは大概に破れていた。服を着ているというよりも、布きれが身体にへばり付いているといった姿だ。お腹がすいているのか、終始地面に目を這わせ、なにか口にできるものはないかと探している。幼女はここしばらく食べていない。空腹のあまり、腐りかけた板切れを齧っていた。
少し前から、一人の中年男がその幼女を見ていた。つかず離れずの距離をたもって、物陰に隠れつつ様子をうかがっている。幼女が転んだり、食べられないものを口にしようとすると、思わずとび出していこうとするが、寸前のところでやめてしまう。彼女と対面をためらっているようだ。
以前、ふん子がコウズケのもとにいるときに会いに行って、手ひどくシカトされてしまったことがトラウマとなっていた。もともと気が小さい男なので、ちょっとした人間関係のもつれでも、ひどく気にしてしまう。今度無視されでもしたら立ち直れないと、おびえていた。
ふん子は、錆びた空き缶をひっくり返して、やっと飴玉を見つけたようだ。塩味が効いたそれを、さも旨そうに頬張った。久々に味のあるものを口の中に入れたので、幼い表情がほころんでいた。カランコロンと、小さな口の中で飴玉を転がしている。
ふん子がなにを食べているのか気になった拓哉が、そろりそろりと近づいていた。焼け焦げた廃車の陰に隠れて、ドアミラーから顔を少しだけ出して様子を窺おうとする。
塩飴はすぐに舐めつくさてしまった。まだあるのではないかと、ふん子は地面に目線を這わせながらチョロチョロと動いた。それが意外に早く進んでしまい、拓哉が潜んでいる廃車へと来てきてしまった。
「あ」
「うにゃ」
中年男と幼女が出会った。
そういえば、初めてふん子と行き会った時もこんな感じだったと、拓哉は思い出した。その時は戦車の物陰からとび出してきたふん子とぶつかってしまったのだった。
二人は向かい合ったまま言葉に詰まっていた。ふん子は、思わず抱きつきたい衝動に駆られていたが、なんとか踏みとどまっていた。拓哉に手ひどく無碍にされたら、それは死ぬほどつらい経験となる。
一方、中年男の方も存分に躊躇していた。ハートの小ささでは幼女に負けていない。ふん子に拒絶されでもしたら、その絶望は計り知れないのだ。
しばしの時が流れた。ふん子の足元に、派手な原色模様の屁虫クワガタがカサカサと近づいてきた。幼女はその甲虫を一瞥しただけで、とくに騒ぎ立てることはなかった。中年男は、感心したように呟いた。
「ふん子ちゃん、屁虫は怖くないの」
幼女はうつむいていた。つま先で、所在なげに地面をほじくっている。屁虫クワガタがくっ付いてきて、汚れきったズック靴を触覚で叩いていた。
「へむす、は、イヤヤ」
口ではそういうが、態度はまったく怖がっていなかった。幼女が成長したと思い、拓哉は嬉しいような寂しいような気持だった。
「ふん子ちゃん、タニシを獲りに行こうか。この前ね、たくさんいる池を見つけたんだよ」
口をきいてくれたことに気をよくした拓哉は、ふん子をタニシ獲りへと誘った。じつに久方ぶりの口説き文句だった。
「・・・」
だが、幼女は承諾の返事をしなかった。相変わらずうつむいて、少し怒ったように眉間にしわを寄せていた。
「あ、いや、ふん子ちゃんが行きたくないんだったらいいんだよ。ぜんぜん、いいんだ。ほんとに、おっちゃんは一人で行くからね」
幼い表情がより厳しくなった。何ごとかの罵倒があるものと、拓哉は覚悟した。
「う、っうう、」幼女は涙を流し始めた。
「あ、あれえ。ふん子ちゃん、どうしたの。おっちゃんは何もしてないよ。はは、ははは」
感情がどうしようもなく高まり、さらに感極まると、泣いても声が出ないことがある。ふん子は、息を詰まらせながらむせび泣いていた。それは心の底からの懺悔であり慟哭であった。
「おっちゃあーん」
辛抱たまらず、ふん子は拓哉の足にしがみ付いた。
「おっちゃーん、おっちゃーん」
はるか昔に呼んでいた言葉をおもいっきり吐き出した。そして、涙と鼻水でぐっちょりと濡れた顔面を拓哉の足になすり付けた。ただでさえ汚いズボンに大きなシミができる。
「おっちゃーん、かんべんしてけろ、なあ、かんべんしてけろ」
「ふん子ちゃん、あやまることはないんだよ。ふん子ちゃんは、なあんも悪くないんだから」
ワーワーと喚き散らす姿は、あの時のふん子に戻っていた。
幼き温もりを感じながら、もっと早く来るべきだったと、拓哉は今更ながらに後悔した。日が沈まぬ地にいながら、なにを怖がっているのだと、自分の小心さがイヤになった。足にしがみ付いて泣きじゃくるふん子は、ずっと自分を待ってくれていた。声をかけてくれるのを待ち望んでいたのだ。自分の決断次第で、もっと早くこの子を楽にすることができたはずだと痛感していた。
「ごめんね、ふん子ちゃん。ごめんね」
そう言いながら、拓哉はふん子の頭を撫でた。安心したのか、しばしの号泣の後、泣きべそは柔らかな表情になっていた。
「おっちゃん、らーめん、くいてえなあ」
いままでの気まずい雰囲気がウソのように、ふん子はすぐさま甘えてきた。
「ラーメンか。いまはちょっとないからなあ。うん、でも頑張って探してみよう」
「ふん子も、さがすう」
拓哉はふん子と手をつないで歩きだした。この辺にはラーメンがないのは知っているので、ありそうな場所に向かって前進し始めた。
瓦礫の野を歩きながら、二人はあれこれとおしゃべりに忙しかった。とくにふん子は言うべきことがありすぎて、言葉が呼吸に合っていなかった。
「おっちゃん、そんでなあ、ふん子なあ、ふん子なあ、きゃっほきゃほ」焦って話すので、せき込んでしまった。
「ふん子ちゃん、落ち着いて」
拓哉が抱きかかえて背中をポンポンと叩くと、ふん子は彼の首に手を回してギュッと抱きついた。とてもかけがえのない時に思えて、その姿勢をしばらく保っていた。ふん子が落ち着きを取り戻してから、再度の出発となった。
ラーメンのありそうな場所にやってきた。拓哉が崩れて瓦礫の山となった木造家屋のすき間に入り込み、中でゴソゴソやり始める。外ではふん子がしゃがんで、心配そうな表情で、その穴をのぞき込んでいた。
「あった、あった。これはとんこつ醤油味だから、ふん子ちゃんの大好物だよ」
インスタントラーメンの袋を手にした拓哉が戻ってきた。
「それも二つもあったよ。めずらしいねえ」
「おっちゃんと食べるう。おっちゃんと一つずつ」
ふん子は拓哉と分け合うことを望んでいた。
「そうだね。でも、ラーメンだけじゃあ物足りないから、他にもなにか探してみるかい。ひょっとしたら、ちくわもあるかもしれないよ」
久しぶりにふん子と食事できるのである。もっと豪勢にしたいと思うのは、男として当然の見栄である。
「ふん子なあ、らーめんだけでええよ」
拓哉と一緒に食べることが重要なのだ。具材の多さに、それほど意味はない。
「そうだ。すぐそこに溜まり池があるから、タニシがいるかもしれないよ」
拓哉としては、今回の食事は失敗できない、豪勢にしなけらばならないとの想いがあった。ふん子に、ぜひとも感嘆の声をあげてほしかったのだ。
「ふええええ」
中年男は幼女の手を引いて走り出した。拓哉のスピードについていけず、ふん子は引きずられるままになっていた。そして二人は、溜め池のほとりへとやってきた。
「ここで待っててね。すぐにデッカイのを獲ってくるから」
ズボンをたくし上げるのも忘れて、拓也は池の中に突進していった。ジャバジャバと派手に水音を立てながら、両手を水の中に入れて水底をまさぐっている。
「おっちゃーん、一つでええんよ」
早くラーメンを食べたいふん子は、あまり張りきらないように釘を刺した。
「いるいる、いるいる。タニシがいっぱいいるよう」
その池にはたくさんのタニシが棲みついていた。これは僥倖だと、拓哉は夢中になって獲り始めた。
ふん子はゴミ捨て場のような岸辺に体育座りをして、その様子を見ていた。再び拓哉と一緒になれたことに満たされている。一人ではないとの安心感に見悶えてしまいそうで、思わずその場でジタバタしてしまいそうな衝動に駆られていた。
「ほら見てよ、ちょっと手を入れただけでこれだけ獲れたよ」
タニシは大漁であった。さっそく火をおこし、瓦礫の中から大きめの鍋を探しあてて、ラーメンとタニシの調理が始まった。ふん子は手を出すことなく、拓哉が調理する様子をじっと見ていた。
「はい、できたよう。今日は豚骨ラーメンにタニシのつぼ焼きだよ。タニシは熱いからね、ふん子ちゃん、火傷したらだめだよ」
ふーふーと口を尖らせて息を吐き出すと、幼女は嬉しそうにマネをした。
ふん子にとって、温かな食事はどれくらいぶりだろうか。コウズケの集団に属していた時も、火を使うことはほとんどなかった。乾麺もほかの食べ物も、基本的に生のままで食べた。温めて食べる行為自体、この瓦礫の野では珍しいことなのだ。一人になってからも、自分では火をおこせないし、そもそも火をおこすほどの食べ物を見つけることは稀だった。
「うんまいなあ、うんまいなあ」
ちっちゃくて汚れた手が、即製の木っ端の箸をもって、熱々のラーメンを一本ずつ啜った。その美味さに、ふん子は感嘆の声をあげる。顔をくしゃくしゃにして存分に喜んでいた。
「たにしも、うんまいなあ」
楽し気な食事となった。やはり温かなものは心を和ませると、拓哉は自分がこだわり続けている習慣に自信を得ていた。
「ふん子ちゃん、前の場所にもどろうか」
食事を終えて、満腹感でまったりしている時に、拓哉は以前の住処に戻ることを提案した。不案内な土地をうろついていると、また妙な大人にふん子を引き抜かれる危険性があるからだ。
「おっちゃん、ふん子なあ、あそこなあ、行きたいなあ」
「ん、あそこって、どこ」
「おそらがなあ、くらいやつ」
拓哉はしばらく考えた。ずいぶん昔に、どこかに連れて行くような約束をした覚えがあった。
「よ、」
ふん子には、その先を言うのが少し怖く感じていた。
「よ、?」と聞き返した。
「るう」
「ああ、そうか」
ずっと以前に、老人と子どもに出会って夜のことを話し合ったことがあった。夕焼け空の行き着く先に、夜があるという話だ。
「うん、そういえば、夜を見に行くんだったね。すっかり忘れていたよ」
そもそも、二人は夜を探しに西方へと旅をしていてコウズケに捕まったのだった。
「もう、よそうよ。きっと、夜はないんだよ」
拓哉にとって、その旅に執着心はなかった。ふん子と一緒に暮らせることが最優先課題であるし、また旅をしてふん子を見知らぬ人間にとられたくはなかった。夜のことは忘れたほうがいいと思っていた。
「いこうなあ、おっちゃん。なあ、おっちゃん」
ふん子は、このままでは前と同じ生活には戻れない気がしていた。
自分が拓哉にした仕打ちを恥じていたし、二人でなにかを成し遂げれば、傷ついた絆を完全に戻せるのではないかと考えていた。あの生活に戻る前に、なにかのイベントが必要なのである。
「でもふん子ちゃん、ずっと遠いんだよ」
「おっちゃんといっしょなら、ええよ」
はにかみながら言う幼女のしぐさが可愛くて仕方なかった。中年男は、天にも昇る気持ちとなった。
「うん、うん、そうだね。ふん子ちゃんと一緒ならおもしろい旅になるよ。うんうん」
いつか見た光景であったが、今度は少しばかり様子が違う。拓哉はヘラヘラと相変わらずだが、ふん子の心構えにしっかりと芯が通っていた。拓哉の存在を見失うことは、もうないのだ。
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