第4話
コウズケの住処は、よほど大きかった。
もとは学校の体育館だったようだが、外壁は崩れて穴だらけであり、崩れたコンクリートから無数の鉄筋が突き出して、まるでミミズのような寄生虫が身体を突き破っているように不気味であった。
それでも骨格はひん曲がりながら構造物をしっかりと支えていて、崩れ落ちるような様子はなかった。この地では雨がほとんど降らないし風も吹かないので、雨漏りやすき間風を心配することもなかった。
内部にはたくさんの子どもがいた。女が中に入るように手招きするが、ふん子はためらっていた。体育館の大きさに圧倒されているわけではない。ほかの子どもたちの視線を気にしていたの。誰の目も静かで温度がなく、新参者を歓迎しているとは思えなかったからだ。
「新しい友達だよ。みんな、仲良くするんだよ」
コウズケがそう言っても、だれも声を出さないし注目もしない。女も、ふん子の名前を紹介することはなかった。
「とんび、白チョコレートをもっておいで。ひとかけでいいからね」
とんびと呼ばれた女の子は、ふん子よりも少しばかり年上に見えた。
女にいいつけられても頷きも返事もせずに、無表情のまま振り返って歩きだした。用具室らしき場所にもぐり込むと、すぐに戻ってきた。そして左手に握ったモノを、不機嫌そうにふん子に押しつけた。
「ほら、白チョコレートだよ。食べたらその辺に座っときな。ほかの子にやるんじゃないよ」
コウズケの態度には、さっきまでの親しさが失われていた。当然ふん子は戸惑う。拓哉との約束があるので、白チョコレートを持って外に出なければならないが、女は入り口の引きドアを閉めてしまった。
「いまはもう寝な。起きたらすぐに出かけるからね」
コウズケがそう言うと、子どもたちはその場に座り込んだ。
ある子どもはボーっと天井を見つめ、ある子どもは所在なげに床をいじくっていた。たいていは体育座りのままじっとしている。眠くなるまで待っているのだ。
ふん子は外に出たくてたまらなかった。だが体育館の雰囲気がそれを許しそうもなかった。いつの間にか、この集団に組み入れられてしまったようだ。
コウズケは、体育館の中央で横になっていた。派手な花柄の枕に頭をのせている。子どもたちの中で、枕や毛布のたぐいを持っているものはいなかった。そのまま硬質の床の上で、ゴロンと横になっていた。
ふん子は、くの字に曲がって寝ている女の横に立った。
「ふん子なあ、おっちゃんのとこになあ、かえるからなあ、あそこあけてけろ」
コウズケは身体をあちらに向けたまま手をあげて、うるさそうにはらった。
「おばちゃん、だしてけろ」それでも幼女は粘り強く言った。
「白チョコレート食ったくせに、なに言ってんのさ。ひとが寝てんのに邪魔するんじゃないよ。キモ焼ける子だね」
振り向いたコウズケの顔はよほど怖かった。声も鋭さがあって、ヒステリックな大人特有の容赦のないものだ。幼女はすぐに泣きだしたくなったが、その感情をぐっとこらえた。ほかの子どもたちが見ているからだ。ここを抜けだした時には、拓哉に向かっておもいっきり泣くのだと心に決めていた。
「そんだら、かえす」
白チョコレートにはまだ口をつけていない。ふん子にとって、その甘さは必要ではなくなっていた。
「うっさいなあ、いらないんだったらどっかに捨てろよ。とっとと寝なさい、シッシッ」
コウズケには容易に近づけない雰囲気があった。ふん子は、その小さな手に一かけのチョコレートを握って途方にくれていた。
「なあ、それいらないんか、なあ、いらんだったらよこせよな」
どこからか男の子がやってきた。分不相応に大きなランニングを着て、裾が床を引きずっている。そのシミだらけのシャツの下は、ガリガリに痩せていた。
「くれるんか。なあ、くれるんか」
男の子は何度もねだってきた。ただし無分別な子どもにありがちな、無理矢理奪おうという行為には及ばなかった。
女の態度と外に出られないショックで、ふん子はなにがなんだかわからなくなっていた。衝動的に、その痩せて垢だらけの手に渡してしまった。
男の子は感謝の言葉をいうことなく、もくもくと食べた。
「もう、ないんか。なあ、もうないんか」言葉を発するたびに声が大きくなっていた。
すると、周りにいた子どもたちが集まってきた。二人を取り囲むと、とくに男の子へ向かって冷たく言い放った。
「ポン、いらね」
「ポン、いね」
「ポン、シッ、ポン、シッシ」
ポンと呼ばれた男の子は皆に罵倒されると、体育館の隅に行ってうずくまるように寝てしまう。
さっき用具室にもぐっていった子がツカツカとやってきた。そして、ふん子の身体を何度も叩いた。
「イヤヤー、なんするのー」
「あんたなあ、チョコレートはなあ、みんなほしいんねん。ほしいけど、母さんがくれんから、食べられへんのや。いらんだったら、母さんにそう言いや。しょうもないのにくれたら、アカンがなあ」
叩くといっても、所詮は小さな女の子の力なので、痛みも含めて身体にはほとんど影響はなかった。むしろ、その衝撃は心のほうに響いていた。
ふん子はわけがわからなかった。どう言い訳していいのかわからず、大いに戸惑った。やはりあのチョコレートをあげてしまったのは失敗だったと後悔した。女に言われたとおり、早く口に入れてしまえばよかったのだ。
ベソをかいていても誰もなにも言ってくれない。いつもなら作業服を着た中年男が、ふん子ちゃんふん子ちゃん言いながら、いろいろ宥めすかしてくれるのだが、ここでは寂しいものだった。
ふん子は、しばらく泣いていた。アーアー泣きながら、寝ている子どもたちの間を努めて誰かに触れてしまわないように歩きながら、アーアー泣いていた。しばらくそうしていたが、疲れ果てて横になり、そのまま眠ってしまった。
目がさめた時には、すでに周囲はざわついていた。子どもたちは、それぞれがバラバラに動き回っているかのようだったが、時間がたつにつれて徐々に統制がとれてきて、やがて整然へと収斂していった。
ふん子は、どう動いてよいのかわからず混乱していた。忙しそうな集団の中でただ一人、呆然とするしかなかった。
「いいかい、毎回毎回言ってるけどね、食べ物はみんなのものだから、一人で食べちゃいけないよ。そんな子は、いらないからね」
子どもたちが一斉にコウズケを見た。ふん子だけが、キョロキョロしている。
「行きな」
その号令で子どもたちは動きだした。まさに、蜘蛛の子を散らすように体育館を出ていった。ふん子は、相変わらずどうしていいのかわからない。みんながいなくなってしまっても、一人体育館に残っていた。
「ほら、あんたも行くんだよ。みんなと一緒に食い物を探してきな」
さも目障りであるかのように、コウズケが言う。
「あんなあ、ふん子なあ、おっちゃんのとこにな、けえるからな」
ふん子は拓哉のもとへ帰る気だった。ここの雰囲気には馴染めないし、そもそもチョコレートをもらいに来ただけで、長居する気などなかった。
コウズケは、シッシと手を振った。さっさと行けということである。
「あんた、なにしてんの」
昨日、チョコレートの件でふん子を怒った女の子がいた。とんびと呼ばれていたその子は、一度外に出たのだが、また戻ってきたのだ。
「あんたなあ、みんなで行ってんねん。一人だけなあ、やらんとかありえへんよ」
とんびはふん子の手を掴んで、一緒に外へと連れ出そうとした。
「いやや」
ふん子は連れていかれるのが嫌で、その場にうずくまる。コウズケは興味がないのかどこかへ行ってしまった。
「あんたなあ、おなかへったらどうするん。食べ物さがしにいかんと、なんももらえないねんで」
「ふん子はなあ、おっちゃんのとこにいくからいいの」
べそをかきながらも、ふん子は頑なだった。
「そんなの、どこにもおらへんわ。とっくにな、どっかいったで。大人なんて、そんなもんやわ」
「いるよー、おっちゃん、ちゃんとなあ、いるの」
ふん子は、拓哉がすぐそばで待っていてくれていることを確信していた。
「そんなら、みにいこうか」
とんびがそう言うと、ふん子は立ち上がった。この少女に、自分の正しさを見せつけてやると思っていた。
二人で体育館の外に出た。少女と幼女は、瓦礫の野を歩き回りながら拓哉の姿を探している。
「ほらな、どこにもいてへんで。やっぱりどっかいっとんよ。おとななんて、しょうもないからな」
トンビの言葉は、幼女の身体を圧し潰さんばかりに重たかった。もちろん、ふん子は拓哉がいるはずだと思い、あきらめずに歩き回る。
「あんたなあ、あほやろう。いっくらなあ、さがしたってなあ、いてへんで。きっとなあ、どっかでうまいもん見つけて、食べてるんさ。サラミ見つけて、食べてんさ」
サラミはご馳走である。子どもたちが総出でさがして、一本がごくたまに見つかる程度だ。しかも、コウズケの分を差し引いた残りを、子どもたち全員で分けると、その厚さは一ミリにも満たない。トンビは、サラミに並々ならぬ執着をもっていた。
「おっちゃーん、おっちゃーん、なあ、なあ」
ふん子が気張って探すが、拓哉の姿はどこにもなかった。ひと眠りしたとはいえ、たったそれぐらいの時間を待ってくれなかったことに、ふん子は戸惑いと落胆を隠せなかった。
「おっちゃん、なしていないん、なしてな」
「なあ、だからおらへんっていったんや」
とんびは、さも当然という顔をした。幼女はまだ渋っていたが、少しすると、待ち人は現れないだろうとあきらめてしまった。
二人は瓦礫の野で、ほかの子どもたちと一緒に食べ物探しを始めた。いつも拓哉に食べ物をもらっているので、ふん子の探し方は要領を得なかった。結局、その時は茄子のヘタしか取れなかった。
拓哉はふん子を見捨てたわけではなかった。むしろ帰りを待ち望んでいた。
ふん子が帰ってきたら喜んでもらおうと、近くのため池に行ってタニシを探していた。漁に夢中になるあまり、時が過ぎるのを忘れていた。
やっとの思いで三つほどの大タニシを獲ってきた。しかし、体育館周辺で待つが、幼女はいつまでたっても帰ってこなかった。
タニシはそのままでは死んで腐ってしまうので、たき火を起こして焼きタニシにした。見知らぬ婆さんがやってきて、ジュージューと美味しそうな音を立てて焼けているタニシを、穴のあくほど見つめていた。時々、手を出して食おうとするが、そのたびにシッシと追い払わなければならなかった。
子どもたちが食べ物を探していると、コウズケがやってきた。命令口調な号令をかけると、ほうぼうに散らばっていた者たちが集まってきた。
「それで、今日はどんなもんなんだい」
子どもたちはいっせいに手を差し出した。それぞれが探し当てた食べ物を彼女が吟味している。
「なんだい、しけてるねえ」
コウズケはカゴをもって、それらの食べ物を集めだした。一つ一つ毟るように取りながら、さも不服そうな顔をしていた。
「おや、新入りは茄子のヘタだけかい。これまた、クソの役に立たないもんを拾っちまったよ、ったく」
精一杯の成果に容赦のない言葉が投げつけられ、ふん子は泣き出してしまった。
「泣けばいいってもんじゃないよ。ふんっ」
コウズケの態度は容赦なかった。また、泣いているふん子をなぐさめるものはいなかった。
「今日は稼ぎが少ないから、まだまだ頑張るんだよ。こんなんじゃあ、終われないからね」
四六時中食べ物を探して、子どもたちは疲れていた。もう食事をして眠りたいと思ってたのだが、コウズケが続行を指示したので休めなかった。
泣き止んだふん子も、再び探し始めた。疲れ果てていたが、皆が働き続けているので仕方なくウロウロしていた。空腹で集中力を欠きフラフラとさまよっている。しばらくすると、とんびが近づいてきた。
「あんたなあ、なすびのヘタだけじゃあ、アカンねん」
彼女はウエハースの紙箱を持っていた。これだこれだと言わんばかりに、見せびらかしている。
「これ、あんたにぜんぶやるけん、母さんに渡しな」
「ほええ」
とんびはふん子に手柄を譲る気なのだ。
「なして、うんなことするう」
「あんたなあ、トロくてオシッコ臭いやん。だからなあ、うちがめんどうみてやるけん」
「いらん」
さんざんバカにされていたので、ふん子は少しばかり意固地になってしまった。
「アホか。なすびのヘタで、なしてご飯もらえるんや。アホやん」
子どもたちが集めた食べ物は、いったんコウズケが回収し、彼女の分を取った後に分配される。配給される量は取れ高に比例していた。多く集めた子は、それだけの量をもらえ、少ない子どもは、それなりのものしかもらえない。
「これだけあればな、とうぶんご飯を食べれるさかい、あんしんしい」
釈然とはしなかったが、ふん子はその紙箱を受け取った。小さな身体に不釣り合いな大きさだったが、中身はウエハースなので重さは大したことなかった。
「でもなあ、とんびのなあ、ないんの」
「うちはええねん。パイナップルひろったから」
トンビはちょっと待っててというと、どこかへ走っていった。すぐに戻ってきて、熟れすぎて甘い匂いを発している果物を持ってきた。
「それなあ、なんよう」
「あんた、パイナップル知らんか」
「うん」
果物の類は見つけることは難しい。たまに拓哉が見つけてくるのは渋い秋グミか、まったく甘くないヘビイチゴくらいだった。
「きょう、たべれるかもしんないからな」
とんびはふん子の手を引っぱって歩きだした。突然だったので、持っていたウエハースの紙箱を落としてしまう。あわてて拾いあげるが、とんびは先へ先へと歩いていた。
「まってけろ」
大きな紙箱を抱えて、ふん子はヨタヨタとした足取りで後を追った。パイナップルを持った少女は、待つことなく進み続けていた。
拓哉は焦っていた。ふん子たちが帰ってこないからだ。タニシはとっくの昔に焼き上がりっている。早く食べないと身が固くなってしまうのだが、彼はふん子と一緒に食べると心に決めていたので、いつまでたっても食べられない。
「よ~し。ふん子ちゃんが帰ってきたら、もっともっとお腹いっぱい食べさせてやるんだ」
子どもたちが現れる気配が全くなかった。拓哉は、またその場を離れることにした。タニシだけではなく、腹の足しになるものをたくさん集めて、ふん子の帰還に備えるのだった。
ご飯の時間となった。子どもたちはコウズケの前にならび、彼女から配給を受け始め、それぞれの収穫量に合わせて分配されていた。パイナップルというすごく貴重な果物を見つけたとんびは、マーガリンとジャムが塗布された食パンと、サラミを与えられた。ふん子は、具なし焼きそば一握りと薄っぺらなモチが一つだった。
「パイナップル食べれると思ったけん、アカンかった」
とんびはその果実を少しばかり配給されると想像していたが、実際はコウズケが一人で食べたようだ。ここでは身体的な暴力がない限り罰せられることがない。ネグレクトが罪にならないのだ。
狡知にたけた大人の中には、子どもたちを使役する者がいた。暗黙のルールに抵触しないように、それは注意深くなされるのだった。
「あんたも食いたかったやろ」
サラミを食べながら、とんびはパイナップルに対する未練をもらした。
「ふん子なあ、そんなん、わからんなあ」
食べたことのない果実に、さして興味はわかなかった。ふん子がよろこぶ食べ物は、拓哉が見つけてくるラーメンやトカゲの卵、そしてなんといってもタニシであった。
焼きそばはカピカピに乾いており、味も化学臭がして不味かった。拓哉が作ってくれる温かなラーメンのほうが味は断然いい。ふん子は、イヤそうな顔で食べていた。
「それ、食べえや」
とんびが食べかけのサラミをふん子に手渡した。まさかもらえるとは思わなかったので、幼女は一瞬キョトンした。
「なして、くれんの」
「ええやん、そんなの」
ふん子は手のひらの上のそれをしばし見つめた後、おずおずと口に入れた。サラミの脂が口の中で溶けて、強烈なうま味を放った。今まで食べたなによりも美味しく感じられた。
とんびに対する感情が柔和になっていく。この夕焼けの地で、幼女は初めて友達という存在に触れたのだ。
「もうねるんよ。おきたら、またさがすんや」
食料探しは遠征となった。コウズケが野宿するように言うと、子どもたちは瓦礫のすき間に身体を入れて眠り始めた。
ふん子は、とんびと一緒にトタン屋根をかぶって眠った。友達と一緒に寝るのも初めてだった。
その地区にコウズケと子どもたちは長逗留することとなった。思ったよりも食料があったので、体育館に戻る必要がなかったのだ。
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